先程ネットサーフィンをしていたら、上野の東京都美術館でデ・キリコ展が開かれる旨の広告を目にしました。来週の土曜日から数か月間にわたって続くそうで、一度は足を運びたいところです。しかし、上野の美術館って、いつ行っても満員御礼なんですよね。列を作って待たされた上、展示室内も人いきれがして落ち着いて見れないところがあります。ゴッホ展とかピカソ展に比べれば、デ・キリコ展というのは少しネームバリューが落ちるかな。しかし、私的にはデ・キリコこそ不思議な魅力に溢れた画家はいないと思っています。

 

 私は本来写実主義的な風景画が好みなんですよね。写真のようで写真でない、この微妙に写真でないという点に生命力のようなものを感じるのです。いつか千葉のホキ美術館にも行ってみたいと思っています。

 

 そんな自然風景画が好きな自分にとって、シュルレアリスムないし形而上絵画の展示会を見た時には本当に衝撃を受けたものです。正直、人間の首が宙に舞っていたり、異形の人形が躍るような不気味というかグロテスクな作品はあまり好きじゃないんですよね。しかし、中にはひどく印象に残るというか強烈な余韻を今でも残すような作品があるのも事実でして、それが私の場合、デ・キリコの有名な「通りの神秘と憂愁」だったり、エルンストの「ユビュ皇帝」だったりするわけです。

 

 「通りの神秘と憂愁」を初めて見た時、鑑識眼がないと言われるかもしれませんが、私は人生の個性的希望のようなものを感じたものです。この作品の解説の多くには、不思議、異様、不安といったワードが並び立ち、光より影の存在に注目が集まっているようですね。輪を回し前に進む少女の存在自体が黒い影なわけですが、影の躍動感というものを凄く感じるんですよね。確かにこの絵が出来たのは第一次世界大戦の頃であり、戦争の先にあるものを象徴しているのかもしれませんが、絵なんていうのはどう解釈しようが見る者の自由なわけですよね。この絵にある光と影との関係に、対立物の相互浸透、つまり似てくるという印象も受けるのです。

 

 きっと上野のデ・キリコ展は盛況だと思います。「通りの神秘と憂愁」に不気味さを超越した感想をもう一度得てみたいものだと思ったりしています(^^♪

 

 明日も明後日もブログ更新予定です。それではまたね(^_-)-☆

 

 

 

 

人気ブログランキング

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現在、推し活という言葉は社会的に認知されて久しいものであり、一般的に肯定の眼差しを向けられていますが、当時はそうではなかった。推し活という言葉自体は当時なかったが、そもそも推しという言葉自体、これは女性アイドルに対する男性追っかけを意味するもので、イチオシというオタク用語から産まれたものです。それがもっと広く自分が熱中し愛情を注ぐ対象を応援する行為であるという風にきわめて健全に拡大解釈されて世上に上るようになったのはつい最近の事です。今では推し活をもって崇高な老後の充実的行動とまで言われているのですが、私が嫌悪していた当時のオタク男の行動に淵源があるのだから面白いものです。

 

 約二十年前の秋、セクキャバに入店する前、夕方から六本木の大衆居酒屋で得々と己が追っかけ半生を語り始めた大平くんであり、興味深く傾聴する私でした。

 

 自分が他人とは精神的にかなり変質した状況にある場合、自分自身ではその変質性になかなか気づかないものです。ましてや、その変質性の背後というか根本にあるものを心理的に分析するなんて事は自家撞着の一種だと思います。大平くんも同様で高校入学と同時に始まった常軌を逸した過激なアイドル追っかけ活動の原因や理由なんてものには考える事もなかったはずであり、要するに彼はアイドルを追っかけることによって、本当は何を追っかけていたのかなんて事は考えてもいなかったはずであるという事です。

 

 小学生時代にキャンディーズを通して知った桃源郷のようなアイドルロマンの世界は、幼いゆえに性とは紙一重な言辞に表出しがたい甘美な憧憬に燃え上がっていたのだと思います。

 

 そしておニャン子クラブのファンクラブ時代には、自部屋の中央にサイン入りの写真を飾り、グッズやCD、それに自分が作っていた膨大な活動ノートに飾られた祭壇はまるでご本尊のようだったと彼は薄く笑っては語るのです。実際、朝晩、写真に手を合わせて彼女の幸せと次に自分の幸せを祈るのは当然の事なんだそうですが、これは一種の宗教だな、話を聞いていて私は憮然としたものです。

 

 「アイドル女性に対する性欲はどうしていたんだい。俺が十代の頃だったら、きっと我慢できなくて、そういう意味で絶対に追っかけにはなれなかったと思うんだよね。」

 

 やはり気になるのはその点であり、私は彼を正視しては箸を置いた。

 

 「レインさん、その点はもう少し僕の話を聞いてから質問してください。まあ、レインさんには無縁の世界だから誤解が生じても仕方ないのかな。」

 

 口の周りに付着したビールの泡を甲で拭っては、大平くんは更に話を続けるのでした。

 

 

人気ブログランキング

 

 

 

 

 

 森高千里さん不朽の名曲「渡良瀬橋」を私が初めて聞いたのは、二十代の頃の事ですからかなり昔の話になります。

 

 当時、私は新橋にあるスナックに通いつめており、この歌を聞いた時、なんだか言霊に触れたような気がしてとても感動した事を今でも覚えています。

 

 渡良瀬橋ってどこにあるんだろう、店の女の子に聞いたところ、彼女もよく知らなかったようで、もしかして日本にない、つまり空想の川橋なんじゃないかしらといい加減な返答をしたのを真に受けていた私でした。

 

 これはルビコン川のような意味なのかな、勝手に空想した私でした。ルビコン川というのは、共和政期ローマにおいて、属州ガリアとイタリアの境界になっていた川なのですが、巷間、ルビコン川を渡ったという成語が有名ですね。これは後戻りの出来ないところまで来てしまったという意味なのですが、このルビコン川を渡るという成語は、私が学生時代、大学の犯罪学の授業で教授が犯罪者の心理状況を説明するのに比喩的に使っていたものです。つまり、犯罪を犯すというのはルビコン川を渡るようなもので、やむにやまれず悩みに悩んだ末に一歩進んでしまったという事を説明したかったのだと思います。

 

 渡良瀬川とルビコン川を混同したのは私くらいかもしれませんが、ちょっと忘れられない思い出があるんですよね。

 

 当時隣の職場に40代後半、とても奇妙な上司世代の男性がいたのです。十年位前までは普通のサラリーマンだったのですが、離婚して、それから自分の両親を立て続けに亡くし天涯孤独の身になった頃から奇妙な病気にかかったという噂を聞いていたんですよね。

 

 実情はよく分かりませんが、噂だと少しづつ己が精神から感情がなくなっていく病気だとか時間と空間の意識が消えていく病気だとか、周囲は怖いもの楽しさのように散々不気味感を呷るような話をしていたものです。

 

 確かに、鬱病的兆候はあったし表情が暗くて怖い感じはありましたが、ユーモアがあって根はそんなに悪い人じゃないと思っていた当時の私でした。

 

 仮に浜口さんとしておきますが、その浜口さんが突然心身の限界を理由に退職する事になったのです。五十を前にして何をする気なのかなと思っていたら、どうやら遠く三重県の海の見える街で独り暮らしを始める事にしたそうで、ここでも散々噂が立ったものです。夜の海の監視員、つまり自殺者やら危険な遊びをする若者を監視するだとか海女のストーカーをしているらしいとか、いずれにしろ東京からは遥か遠くに引っ越すことになったのは事実でして、退職前に親しい人たちで一席送別の会を持とうという話になったのです。

 

 しかし、送別会に集まったのは、私を含めて四人の男性だけでした。浜口さんも含めて五人で新橋烏森口の中華料理店で別れの宴を持ったのですが、浜口さんとても上機嫌で幸せそうだったのが今でも目に浮かぶものです。

 

 そして二次会。当時、私が通いつめていたスナックに行くことにしたのです。

 

 浜口さんオハコの「上を向いて歩こう」から始まって、次に私が最近覚えたばかりの森高千里さんの「渡良瀬橋」を歌い出した時です。浜口さんに異変が生じたのです。

 

 「なんじゃ、こりゃ。」

 

 レーザーディスクに唖然とした表情で奇声をあげる浜口さんでして、歌い終わった私に、こんな事を口走ったのです。

 

 「懐かしいなぁ。渡良瀬橋って、俺の故郷なんだぞ。八雲神社って、家族でお参りに行ったことあるんだよ。」

 

 ええっ、その時まで、私は渡良瀬橋というのはてっきり空想上の橋だと勘違いしており、やはり浜口さんはルビコン川の畔のような犯罪者の異世界で生まれた人間だったのかと思ってしまったのです。

 

 しかし、彼は初めて私たち四人に自分の本当の生まれ故郷の話をしだしたのです。

 

 渡良瀬橋というのは、栃木県足利市を流れる渡良瀬川にかかる橋の一つであり、浜口さんは十八歳まで家族三人でその橋の近くに住んでいたというのです。夕日が綺麗な街という歌詞には涙が出そうになる程懐かしくなったと語るわけです。

 

 その晩、少し寂しい送別会でしたが、親しい男四人に送られて浜口さんは大喜びでした。三重県での今後の謎の生活については最後まで語らずじまいでしたが、最後に皆でもう一回「渡良瀬橋」を合唱してはお開きとしたわけです。

 

 その後、浜口さんの消息は一切不明で今どこで何をしているのかもわかりません。ただ、最後にそのスナックで謡った「電車に揺られて  この街まで あなたは会いに来てくれたわ♫」というフレーズが今でも耳朶に残っているものです。

 

 しかし、日本歌謡史における純文学作品のようなこの歌、今では栃木県足利市の渡良瀬橋傍に歌碑まで出来ているのだそうですね。

 

 写真で見ましたが、最後、「二人で歩いた街 夕日が綺麗な街」で締めくくられており、一度行ってみたいなと思っているところです(^^♪

 

 

 

 

 

人気ブログランキング