出 師 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

いきなりですが、皆さんは

 

 シベリア出兵
 

をご存知でしょうか? 

 

聞いたことはあっても、具体的にどんな出来事だったのかを説明できる方は、あまりいないかもしれません。

中にはシベリア抑留と混同してしまう、若い方がいるかも。
なぜなら、学校で具体的に教えてくれなかったでしょうから・・・。

国際情勢に絡み、日本軍がこのシベリア出兵でウラジオストクに上陸したのが、今からちょうど100年前の今日のことでした。

 

       

 

1914年から始まった第一次世界大戦末期の1917年、10月革命によりボルシェビキ率いる共産主義政権が支配することとなったロシアは戦線から撤退したばかりか、各国間の秘密条約を暴露。

 

この事態を憂慮した日本・イギリス・アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府の動きを封じ対抗する皇帝派を支援するため、シベリア鉄道沿線で苦戦を強いられ革命軍によって囚われたチェコ軍団救出を大義名分としてロシア出兵を決定。

各国それぞれに思惑はありましたが、大陸進出を目論む日本はアメリカの誘いに乗る形で1918年8月2日にシベリア出兵を宣言。

そして10日後の8月12日、日本軍がウラジオストクに第一梯団約14,000名を上陸させたのです。


    

            ウラジオストク市内を行進する日本兵


しかしこの頃、政権内でも出兵積極派と慎重派が拮抗しており、また国内は米騒動が勃発して世情が不安でした。

結局その米騒動が原因で出兵を決断した寺内正義内閣は翌9月に倒れ、その後を引き継いだ日本初の〝平民宰相〟原 敬 が出兵慎重派だったことや、戦地がシベリアという極寒の地でパルチザン(労働者や農民で組織された遊撃隊)によるゲリラ戦に苦しめられ、日本軍の士気は上がらなかったとか。

 

しかし軍部は原内閣の意向を無視して増派を続け、アメリカが約8,000人、カナダ4,200人、イギリス1,500人に対し、日本軍は延べ73,000人を派兵。

 

        シベリア出兵した兵士(左から米・加・英・支・伊・チェコ・日本)

 

ところが同年11月にドイツが降伏して、第一次世界大戦は終結。

 

そのためチェコ兵救出の名目が立たなくなり、連合軍のシベリア出兵は意味なきものに。

イギリス・フランスは1919年に、アメリカも1920年に撤退しましたが、
日本軍は事後処理のためとして駐留を続けました。

そして1920年3~5月
にかけて、ロシアのトリャピーチン率いるロシア人・朝鮮人・支那人約4,000名から成るパルチザンが黒竜江(アムール川)河口にある尼港(ニコライエフスク港)の日本陸軍守備隊と、日本人居留民約700人、日本人以外の居留民約6,000人を虐殺し街を焼き払う 『尼港事件』 が起きてしまいます。

 

   

 

 1922年にシベリアから撤退した日本軍は、その対価として1925年の日ソ国交樹立まで石油産地の北樺太を保障占領したものの、4,000人前後の戦死者を出し、栄養失調や凍傷による死傷者も1万人を数えたといわれています。

 

※ちなみに原首相は1921年11月に暴漢に襲撃され亡くなりましたが、犯人だった18歳の国鉄職員は、その理由の一つにこの 『尼港事件』 の処理の不満を挙げていたとか。
原首相に関する過去記事は、こちら。(↓)


 

結局10億円(現在の貨幣価値で5,500億円前後)もの戦費を注ぎ込んだこの〝無名の出師(名分のない出征)〟で、日本が得たものは何もなし・・・強いて言うなら、極寒地での戦闘の予行演習ができたことと、撤兵を成功させたことだけ。

しかし残念ながら、その教訓は無謀な大陸進出を目論んだ後の満州国建設・進出や日華事変では生かされませんでした。

 

       
          
『シベリア出兵』 (麻田雅文・著 中公新書・刊)   


過去の戦争の総括・反省をせず失敗を隠蔽し、不敗神話と精神論だけで突き進む日本軍の悪癖は、結局大東亜戦争でより多くの犠牲を日本国民に強いることになったのです。

そしてもう一点、陸軍が当時経営難だった読売新聞に資金提供を行って子飼いの記者を雇わせ、シベリア出兵に前向きな世論工作を行わせ、他の新聞社にも検閲などで圧力を加え反対意見を封じ込めたことも見逃せません。

これが軍部とメディアが接近する端緒になり、後年大東亜戦争に突入していく国民扇動へと繋がったのですから・・・。
うー
 

 

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