今日のタイトルは、ある有名な武家の恐ろし気な幼名なのですが、誰のことかお分かりになるでしょうか?
正解は、後に日本の歴史上初の武家政権を樹立した
源 頼 朝
そして今日は、私たち昭和世代が 「イイクニ作る」 と覚えた鎌倉幕府を設立した、この征夷大将軍の命日・没後820周年にあたります。
1147 (久安3) 年、河内源氏の棟梁・源義朝の三男として生まれた頼朝は、その父が平治の乱で平氏に敗北・謀殺され、自身も処刑寸前までいったものの平清盛の継母・池前尼の口添えにより辛うじて助命され、伊豆に流されます。
流刑の間に北条時政の長女・政子と結婚した頼朝は、以仁王(もちひとおう 1151-1180 白河天皇の第3皇子)が出した平家討伐の令旨に呼応して挙兵。
数々の戦いを経て、1185(文治元)年に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすと、1192(建久3)年に後白河法皇崩御から征夷大将軍に任じられ、これをもって初の武家政権たる鎌倉幕府の擁立とされています。
※もっとも10数年前から、鎌倉幕府の設立は1185年であり、武家政権としては平氏政権に次ぐ2番目と位置付けられているそうですが。
最高権力の座についたとはいえ、それまで彼自身が戦の最前線に出て戦功を挙げたわけではありませんでした。
実際に平家を滅亡に追い込む働きをした従兄弟・源義仲や末弟・義経を討ち、弟・範頼も謀反の疑いをかけられて伊豆に配流の上誅殺・・・対立の可能性があった血族を次々と抹殺し、まさに孤高の権力者となっていった頼朝。
しかし1198(建久9)年12月27日、落馬によって体調を崩し、回復せぬまま翌1199(正治元)年1月13日、53歳でこの世を去りました。
頼朝の武将・為政者としての生涯を詳しく知りたい方には、こちらのご一読をおススメします。
『源 頼朝』 (永原慶二・著 岩波新書・刊)
曽我兄弟を利用した北条時政による暗殺未遂説もありますが、頼朝の死因についても単なる落馬事故だったと私には思えません。
そして因果応報というべきか・・・悉く血縁者を排除した頼朝の子は、第2代将軍であった長男・頼家が妻・政子の実家である北条氏の手によって謀殺され、第3代将軍の四男・実朝は頼家の子・公暁の手により暗殺されてしまいました。
その他の子孫も多くは非業の死を遂げ、結局頼朝は自らの直系血族を後世に残すことはできなかったのです。
凄まじい生殺与奪が繰り返された武家社会・・・それに比べれば、たとえ女房の尻に敷かれても、私は現世に生まれて良かった?