籠 城 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

日本における最高学府の頂点、東京大学。

 

全国の親御さんが、我が子の入学を願うであろうこの大学を象徴するもの・・・といえば、多くの方が 『赤門』 と答えるでしょう。

 

※ 『赤門』 に関する過去記事は、こちら。

 

 

しかし、私を含めた昭和世代の方にとって、もうひとつ忘れられない建物があるはず。 それは、

 

 安田講堂

 

安田財閥の創始者・安田善次郎氏の匿名寄付により1925(大正14)年に竣工した大講堂ですが、私がこの建物の名を初めて耳にしたのは、あの事件のTV中継でした。

 

     安田講堂

 

1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化と1970年に予定されている日米安保条約の自動更新を巡って、左翼勢力による反戦・安保反対運動が高まりました。

 

またベビーブーム世代が大量に大学入学を目指す中、授業料値上げ反対をも唱えて各大学に全共闘が組織され、これに呼応する学生らによって暴力を伴う学園紛争が多くの大学で巻き起こりました。

 

東京大学もご他聞に漏れず、医学部でのインターン闘争をキッカケとした 〝東大紛争〟 が勃発。

1968(昭和43)年には卒業式が中止されるなど、大学側との対立が深まりました。

 

その後も学内ストライキは続き学内の建物の多くが封鎖され、同年11月には総長以下全学部長が辞任。

 

事態を重視した佐藤内閣は各大学で行われていたバリケード封鎖解除に動き出しますが、それでも収拾がつかない東大は警視庁にバリケード解除の実力行使を依頼。

 

そして1969(昭和44)年1月18日・・・後に 『あさま山荘事件』 でも現場指揮を執った佐々淳行・警視庁警備部警備第一課長(当時 昨年10月死去)が先頭に立って学内のバリケードを次々に排除し、学生側の最後の砦・安田講堂を取り囲みます。

 

       安田講堂

 

講堂屋上から学生が投げる火炎瓶が地上で炸裂したり、機動隊の放水や催涙弾を発射するなどの攻防は、今からちょうど50年前の今日にあたる翌19日午後3時過ぎに、ようやく終息したのです。

その様子をテレビ中継で見ていた私は、まだ小学生。

 

一体何が起こっているのかは理解できませんでしたが、その異様な光景を呆然と眺めていたことを憶えています。

学生運動の方向性は決して正しいとは思いませんが、当時のエネルギーを現在の学生・・・草食系男子から殆ど感じられないのは、寂しい限り。うー

 

結局安田講堂は機動隊によって制圧され、バリケードは撤去。 

篭城していた学生も全員排除されました。

ちなみに、逮捕された633人のうち、東大生は僅か38人だったとか。

大多数は(プロ)活動家あるいは他校生・・・現在沖縄で基地反対運動をしている左翼集団における沖縄県民とその他活動家の比率と同じ感じがします。うー

 

そして学生運動の象徴となった同講堂は、以後しばらくは物置として使われただけだったとか。

 

そして事件から5年後・・・高校入試に合格した私を、オヤジがご褒美で東京に連れてきてくれたのですが、ナニゲに本郷の東大キャンパスに立ち寄り、赤門やら安田講堂を見せてくれました。

その時の安田講堂は人の出入りもなく閑散としていた記憶がありますから、きっとまだ物置のままだったんでしょうネ。

 

おそらく、あわよくば息子を東大に・・・と期待しての視察(?)だったんでしょうが、私はあの機動隊との攻防戦がトラウマになっており、とても東大に進学する気は起きず受験すらしませんでした。

 

安田講堂事件は、私の人生をも変えたと言えま・・・な~んて、ウソです。 単に受験できる程の学力がなかっただけです。あせあせ

 

 

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