往 復 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今や正月の恒例行事として定着している、
 

東京箱根間往復大学駅伝競走

 

通称〝箱根駅伝〟・・・これは読売新聞社が取得している登録商標だそうですが、この第1回大会が開催されたのは、今からちょうど100年前の今日・1920(大正9)年2月14日(と15日の2日間)でした。

 

    箱根駅伝

 

日本で初めて行われた駅伝競技は、1917(大正6)年4月に開催された『東海道53次駅伝競走』 でした。(↓)

 

この日本初の駅伝大会で関東軍のアンカーを務め、また1919年のストックホルム五輪のマラソンに出場し、後に〝日本マラソンの父〟と呼ばれた金栗四三選手が、箱根駅伝の発案者。

 

       

                 金栗 四三  選手


「世界と対等に戦うには、駅伝競走を磨くべき。」

そう考えた金栗選手は、若手の強化を図るべくサンフランシスコからロッキー山脈を越えてニューヨークまで走破する『アメリカ大陸横断駅伝』の開催を提唱し、そのための資金調達や大学陸上関係者の理解を得るために奔走。

東京高等師範学校教授・野口源三郎、明治大学・沢田英一と協議し、この駅伝を実施するための代表選考会として行われることになったのが、山登りを含む東京~箱根の往復駅伝だったのです。

コースは現在とほぼ同じく、有楽町報知新聞社前~鶴見~戸塚~平塚~小田原~箱根関所址の5区間の往復でしたが、関東の各大学・師範学校・専門学校に広く参加を打診したものの、長距離選手を10人も出せる学校は少なく、結局参加したのは東京高等師範学校(現・筑波大学)・明治大学・早稲田大学・慶應大学の4校のみ。

我が母校・慶應、昔は出場していたんですねェ。

 

当初は2月11・12日を予定していましたが、11日は紀元節で各校とも式典があり、また市電のストライキも予定されていたため、14日に変更。

しかしその14日も土曜日で、当時は午前中に授業があったため、スタートは午後1時。

このため1位で明治大学が小田原中継所から5区のランナーがスタートした時にはとっぷりと日が暮れてしまい、小田原中学の長距離選手が提灯を持って伴奏し、箱根町の青年団が松明を振って誘導。

 

猟銃の空砲を撃って選手の通過を知らせたのだそうな。

翌日は現在と同じく箱根を午前7時にスタート。

往路を7時間30分36秒で制した明治大学が快調に飛ばし、9区では11分30秒の差をつけていたのですが、東京高等師範学校の最終10区のランナー・茂木善作選手が快走。

ゴール手前で逆転し、25秒差で明治大学を制し総合タイム15時間5分16秒で栄えある第1回大会の優勝を飾りました。

        

 

復路で逆転した東京高師は、復路スタート時首位の明治との差が8分27秒ありましたが、100年経った現在でも最大差の逆転劇なのだそうです。

 

結局金栗選手が構想していたアメリカでの駅伝大会は実現しませんでしたが、この代表選考会として始まった箱根駅伝は戦争で4回中断したものの、戦後1956(昭和31)年の第32回大会から1月2・3日の開催となり、すっかり名物競技となりました。

 

第1回大会のように、母校・慶應が出場してくれれば、私も真剣に応援するんですが・・・そんな正月を迎えられるのは、果たしていつになることやら。あせあせ


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