西洋かぶれ | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

小学生の頃、担任の先生に

「幕末の頃、この信州からも歴史に名を遺す偉人が出たんだョ。」

と言われたことが。 今日は、その思想家・教育家だった


 佐久間 象山

の命日にあたります。

なぜ小学生時代の記憶が鮮明かと言うと、先生が彼の名を〝ぞうざん〟と呼び、それが珍名として脳みそに刻み込まれたから。

※一般的には〝しょうざん〟で
すが、地元信州では〝ぞうざん〟と呼んでいます。

 

       

象山は1811(文化8)年に、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として生まれました。

父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩から重用されていた人物だったようで、象山もその才をしっかりと受け継ぎました。

13歳の時に詩文を学び、15歳て佐藤一斎門下生だった鎌原桐山に入門し経書と同時に会田流和算も学んだとか。

1828年に家督を継ぐと、その3年後には藩主・真田幸貫の世子・幸良の教育係に抜擢されました。

 

しかしその4年後、象山の不遜な態度に激怒した幸貫が彼を罷免。

翌年に江戸に出て佐藤一斎に詩文や朱子学を学ぶと、山田方谷と共に〝佐門の二傑〟と称されました。

 ※山田方谷に関する過去記事は、こちら。(↓)


すると1842年に彼を罷免した幸貫が老中兼任の海防掛に任じられると再び顧問に抜擢され、アヘン戦争などの以外情勢を分析し『海防八策』を上書。

蘭学の習得に務め江川英龍に兵学を学ぶと、
大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かせ、1851年には江戸で砲術・兵学を教える 『五月塾』 を開講。

ここには後に彼と結婚する順子の兄・勝海舟、吉田松陰や坂本龍馬が続々と入門・・・しかし結果的にそれが彼の寿命を縮めることに。

 

1854年に門弟・吉田松陰が浦賀に来航したペリーの艦隊に乗って密航(※一説にはペリー暗殺)を企てたものの失敗し捕縛されると、象山も関与した(というか松陰をけしかけた)罪で捕らえられ、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目に。

その後も1862年まで郷里・松代で蟄居を余儀なくされます。

そして1864年、彼は一橋慶喜に招かれて上洛、公武合体論・開国論を説きましたが、当時の京都は尊王攘夷派志士の潜伏拠点。

それ知ってか知らずか、彼はお供もつけず単独で馬に乗って京の街を闊歩。

同年7月11日、53歳だった彼は三条木屋町で志士・前田伊左衛門や河上彦斎らに襲撃・暗殺されてしまいました。


       

※河上彦斎は象山が何者であるかを詳しく知らず、〝西洋かぶれ〟と言われていた彼が西洋製の鞍にまたがっているのが気に入らないという理由で、衝動的に暗殺に及んだという説が。

彦斎は後に斬った相手が象山だと知り、暗殺を後悔したとも言われていますが、もう後の祭り。


もし象山がもう少し慎重な行動を取っていれば、明治維新後も生き延びて歴史を変える活躍をしたかもしれません。


あらためて郷里の英傑の冥福を祈りたいと存じます。

 

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