芋 神 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

食欲の秋・・・特に女性が大好きな石焼き芋が美味しい季節ですが、今日はそのサツマイモの栽培で飢饉から多くの人々を救い、『甘藷先生』とか 『芋神』 と言われ崇められた

 青木 昆陽

の命日・没後250周年にあたります。

       

昆陽は1698(元禄11)年に、現在の東京都中央区日本橋で魚屋を営む佃屋半右衛門の一人息子として生まれました。

幼少時より神童と言われ学問好きだった彼は、21歳の時に京都に行き伊藤東涯が開く古義堂に入門し、2年間儒学と本草学を学びます。

本草学とは薬用作物の栽培研究のことですが、この頃に彼はサツマイモの存在を知ったと思われます。

江戸に戻った彼に目をかけたのが、加藤枝直(えなお)という町奉行与力。

両親を続けて亡くした後の敬虔な態度や学問に取り組む昆陽の真摯な姿勢に好意を持った枝直は、300坪あった自宅の敷地内に昆陽の私塾を開かせただけでなく、上司の大岡忠相に彼の存在を紹介・推挙したのです。

 

それにより幕府の所有する書物の閲覧を許された彼は、学者としての道が大きく開けました。


折しも、1731年から数年間にわたって人々を苦しめた享保の大飢饉で、最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって今治藩・大三島だけはサツマイモ栽培によって餓死者が出なかったことから、第8代将軍・徳川吉宗は関東でのサツマイモ栽培を決断、それを昆陽に託します。

命を受けた昆陽は小石川薬園(現・小石川植物園)、現在の千葉県幕張、九十九里町の3ヶ所で栽培を開始。

 

取り寄せた種イモの多くが霜によって腐るなどの苦難を乗り越え、3年後栽培に成功。

これが後に起きた天明の大飢饉で、多くの人々を飢えから救うことに。

 

このサツマイモ(甘藷)の栽培法などを記した 『蕃薯(ばんしょ)考』 を1735年にまとめた彼は、翌年薩摩芋御用掛を拝命し晴れて幕臣に。

その後1739年に
御書物御用達を拝命した彼は、寺社奉行となった大岡忠相の配下に加わって甲斐・信濃・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、それらを分類して 『諸州古文書』 を作成。

また評定所儒者となった彼は、1740年に吉宗の命により蘭語の学習を命じられ、長崎に遊学するなどして 『和蘭文訳』 『和蘭文字略考』 などの入門書や辞書を残し、弟子として後に杉田玄白らと 『解体新書』 を翻訳した前野良沢を育てました。

決してサツマイモ栽培だけでなく、学者としても多くの功績を残した昆陽について興味のある方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『芋奉行 青木昆陽』 (羽太雄平・著 光文社・刊)

 

        

 

今日は久しぶりに石焼き芋を食べつつ、流行性感冒により1769(明和6)年10月12日に72歳でこの世を去った芋神様の冥福を祈りたいと存じます。

 

 

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