愛国保守の私としては、今日この出来事に触れないわけには行きません。
今からちょうど50年前、大阪万博が開催された1970(昭和45)年の11月25日・・・東京・市谷で衝撃的な出来事がありました。
それは人気作家であった
三島 由紀夫 氏
が起こした、いわゆる〝三島事件〟。
その日三島氏は市谷自衛隊駐屯地を仲間4名と訪れ、益田総監を人質にとり篭城。
コビーではなく全て手書きした檄文を撒いた上、バルコニーで自衛隊決起のアジ演説を行った後、割腹自殺を遂げたのです。
まだ45歳という若さでの憤死でした。
腹に残された傷は深さ5cm・長さ14cmで真一文字に切られており、それは余程の覚悟がない限り常人には到底為し得ない刀捌きだったといいます。
当時私は小学校6年生でしたが、当日夕方のニュースがこの事件一色だったことを、おぼろげながら記憶しています。
1925(大正14)年、東京に生まれた三島〔本名・平岡公威(きみたけ)〕氏は、幼少時代を祖母の元で過ごしました。
彼女が歌舞伎・能・小説を好んだことが、三島氏の小説家としての素養を培ったようです。
学習院高等科を主席で卒業後、東京帝大法学部入学。
大東亜戦争末期に召集されるも、幸運にも戦地行きを免れて終戦を迎え、1947年に大学卒業後、文壇に登場。
以降数々の名作・話題作を発表し世界的にも高い評価を受けましたが、一方で自衛隊に体験入隊するなどしながら、民兵組織による国土防衛を模索していたようです。
三島氏は自衛隊に関して、このような発言をしていました。
〝私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。
私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。
国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。
政府が為すべき最も重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。
集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきり分けてPRすることである。
たとえば安保条約下においても、どういう時には集団保障体制の中に入る、どういう時には自衛隊が日本を、民族と国民を自力で守り抜くかという限界をはっきりさせることです。〟
まさに、5年前に成立した安保関連法を巡って議論になった集団的自衛権に関して示唆しているのです。
そして自衛隊の覚醒を願いつつ4年間待ったという三島氏が、遂に〝その日〟を迎えることに。
私は自衛隊の決起を促そうとした三島氏のこの日の行動自体には必ずしも賛同しません・・・がしかし、彼が抱いていたであろう〝憂国の想い〟には大いに感ずるところがあります。
現場に居合わせた当時の若い自衛官たちは彼の演説をヤジったそうですが、もし今彼が同じ演説をぶったら現在の自衛官はどんな反応をするのでしょうか?
亡くなる3ヶ月余り前、サンケイ新聞の特集・『私の中の25年』 に掲載された 『果たし得ていない約束』 という寄稿文の最後を、三島氏はこう締めくくっています。
〝私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〟
・・・残念ながら、三島氏が半世紀前に遺した〝予言〟はほぼ的中しているように私には思えます。
私たちは、〝無機質でからっぽになってしまった日本〟を、三島氏の憂国の想いに応えるべく今後どうすればいいのでしょうか?
三島氏の最後の演説を聴きつつ、考えてみましょう。