プリンシブル | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

以前ちょっとしたこの方のブームが起きましたので、名前をご存じの方も多いはず。

 

 白洲 次郎 氏

 

今日は、敗戦直後の日本を吉田茂首相の懐刀となって支えた、この人物の命日・没後35周年にあたります。

 

       

 

1902(明治35)年に実業家・白洲文平氏の次男として現在の兵庫県芦屋市に生まれた彼は、子供の頃からスポーツ万能でやんちゃ者。 

旧制第一神戸中学時代から高級外車を乗り回し、タカラジェンヌと恋仲になるなど派手な生活をしていたとか。

 

中学卒業後イギリス・ケンブリッジ大学に留学するも、綿貿易で大富豪となった父の会社が昭和金融恐慌の波を受けて倒産したため、やむなく帰国。

 

その後1929年に英字新聞社 『ジャパン・アドバタイザー』 に就職し記者となりますが、幾度にも及ぶ海外出張の中で、当時駐イギリス全権大使だった吉田茂氏と知遇を得たことが、その後の彼の運命を大きく変えることに。

 

1945年、吉田外務大臣の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任すると、闊達な英語を駆使してGHQと渡り合い、彼らをして 「従順ならざる唯一の日本人」 と言わしめました。

 

日本国憲法起草にも関わった後、初代貿易庁長官に就任し、経済産業省の設立などに腕をふるった白洲氏。

 

1950年にサンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した際、吉田首相の演説原稿が英語で書かれていたことに激怒。

 

「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。 その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」 怒

 

そう言って随行員に手分けして和紙に毛筆で書き直させた、という逸話が残されています。

 

       白洲次郎

 

そんな白洲氏を語る上で必ず出てくる言葉に〝プリンシプル〟があります。

 

辞書には〝原理・原則・主義・信条・行動指針〟等と訳されていますが、彼自身は 「これをどう訳してよいか分からない」 と言っていたそうな。

 

私なりには〝筋を通す〟 という意味合いだと解釈していますが、残念ながら現在の日本には筋を通せる政治家が殆どいないように感じます。

 

公職を退いた後、東北電力の会長に就任するなど数々の民間会社の経営に携わりましたが、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めていた時には、当時の田中角栄総理大臣から 「ブレーしたい」 と申し出があっても、「うちはメンバー以外はプレーできない」 とあっさり断ったとか。

 

洗練された英国流のセンスやマナーを身につけた紳士だった一方で、筋の通らぬことには断じて首を縦にふらぬ頑固オヤジの如き硬骨漢であった白洲氏が、胃潰瘍と内臓疾患により83歳で世を去ったのは今から35年前・1985(昭和60)年11月28日のことでした。

対外的に物言えぬ弱腰外交しかできない現在の日本にこそ存在して欲しい傑物だったと申せましょう。

数日前の会見で、支那の外相が我が国固有の領土である尖閣諸島の主権が我に有りなどと暴言を吐いた際、茂木外相は何ら反論せずニヤケ面するばかり・・・もし白洲氏だったら即座に否定したはず。

 

これからの政界に第2のMr.principleが登場することを切に願いつつ、謹んでご冥福をお祈り致します。笑3

 

 

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