ハマクラ | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

日本人、特に私のような中高年世代なら、この方の作品を何曲も知っているはず。

今日は昭和時代を代表するシンガーソングライター


  
浜口 庫之助 さん

 

の命日・没後30周年にあたります。

 

       

 

浜口さんは1917年に兵庫県神戸市で生まれました。

父親が建設会社を経営する実業家で、裕福で音楽好きな家庭環境の中で育った彼は、5歳で楽譜を読めるように。

そして一家が東京に引っ越すと、彼は旧制第一高校(現・東京大学教養学部)を目指したものの受験に失敗し、早稲田大学高等科へ。

しかし翌年に中退すると、新宿の帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、アメリカでのジャズ修行を夢見ながらギタリストとして活動。

第二次世界大戦前の不穏な世界情勢の中渡米を断念した彼は神戸製鋼所へ就職したものの、学歴がなかったことで社内での出世を諦めて退社。

1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学し、学内で立教や慶應の学生らとバンドを組んで活動する傍ら、ギター講師やスタジオ・ミュージシャンとして生活費を稼いだそうな。

 

1942年に大学を繰り上げ卒業すると、ジャワ島で農園を経営する会社に就職し、現地へ。

そして大東亜戦争終結後捕虜となり1946年5月に引き揚げると、東京でハワイアンバンドを組んで進駐軍相手に演奏するなど再び音楽界に身を置くと、1953~55年まで3年連続で 『浜口庫之助とアフロ・クバーノ』 として紅白歌合戦に出場。

ところが1957年、彼は突如バンドを解散して歌手活動を休止し、作詞・作曲家に転向してしまいます。

40歳で大きな人生転換をした理由・・・それは、その年
新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が 「郷土の芸術をお見せできるのは光栄だ」 と挨拶するのを見たから。

彼はその挨拶から〝外国の音楽を演奏するのではなく、日本の曲を創作することこそが重要〟だと気付いたのです。

翌年にコロムビア専属の作曲家なると、彼が1959年にリリースした『黄色いサクランボ』 が大ヒット。

※おそらく私が初めて聴いた浜口作品はこの曲だったと思いますが、それはこの当時歌ったスリー・キャッツではなく、1970年にゴールデンハーフが歌ったもの。


そして1960年代には『涙くんさよなら』・『夜霧よ今夜もありがとう』などヒット曲を連発し、1966年には『星のフラメンコ』・『バラが咲いた』で日本レコード大賞・作曲賞を受賞し、ヒットメーカーと呼ばれるように。

その間最初の奥さんと死別する不幸に見舞われたり、また容貌が似ていることから昭和天皇役で映画出演もしましたが、本業の音楽家としてはビリーバンバン・西郷輝彦・にしきのあきらなど、多くの歌手を育成しています。

そして1973年には女優の渚まゆみさんと再婚。

 

       


公私ともに順風満帆だった浜口さんは、その後もヒット曲を世に送り出し続けました。

若い世代でも知っている有名な曲と言えば、何と言っても島倉千代子さんの『人生いろいろ』(1987年)でしょうか。


その一方で、大衆のための音楽を作る思いが強く、文化庁から届いた叙勲の打診を辞退するという硬骨漢でもあった浜口さんが喉頭がんにより73歳でこの世を去ったのは、1990(平成2)年12月2日のこと。

 

それではご本人も出演されている動画で〝ハマクラ・メロディー〟を懐かしみつつ、昭和歌謡界の巨人の冥福を祈りたいと思います。

 

 

 

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