『歴史道』ショック続編― 張出し(出窓)の多用は層塔型ならではのこと

『歴史道』ショック 続編――
 張出し(出窓)の多用は層塔型天守ならではのこと

前回のブログ記事は『歴史道』Vol.3(日本の城とは何か)に載った驚きの新尺度 → 望楼型天守と層塔型天守とを区別する観点は、要は天守内部の「床」を張った位置にあるのだ、という新尺度について、<混乱の極み> などと申し上げてしまいましたが、それは諸先生方が注目する津軽家伝来「江戸御殿守絵図 百分一ノ割」に描かれた江戸城天守までをも、「望楼型」と呼ばなくてはならない事態になるからでした。

(前回も引用の三浦正幸先生の見解/『一個人』解説文より)

慶長天守の詳細な姿は分かっていなかったが、北国の大名津軽家に伝わった「江戸城御殿守絵図」が幻の慶長天守であると推測される。
その絵図によると、二階以上の各階の床を、下の階の軒桁の高さに張った旧式な構造で、現存の姫路城大天守の三階や四階の床構造と同じであった。それでは窓の位置が床面からはるか上方になってしまい、窓に手が届かない欠陥建築となる。
姫路城大天守では、窓際に棚のような武者走り(石打ち棚)を設け、四階では入母屋破風を四つも付けて、外を見張る窓としている。江戸城の慶長天守では、各階に小さな破風つきの出窓がたくさん突き出されており、辛うじてそこから外部を見張れたらしい。

 
 
ということで、津軽家伝来の絵図による江戸城天守は、同じ構造(※同じ位置に張った床)を二階・三階・四階・五階と重ねているわけですから、結果的にこれは「層塔型」と呼ぶべきでしょうし、少なくとも、前回ご提案の「塔屋型(とうやがた)天守」=最上部だけやや種類の異なる建物を乗せた「型」ではない、ということになります。

そして三浦先生の見解のうち、最後の「江戸城の慶長天守では、各階に小さな破風つきの出窓がたくさん突き出されており、辛うじてそこから外部を見張れたらしい」との指摘も、実はたいへんに興味深い内容を含んでいて、今回はこちらの方を中心に申し上げてみたいと思うのです。
 

で、何が興味深いかと申しますと、ご覧の絵図が本当に慶長度天守だとしますと、図に赤や青で示した部分(低い床や出窓)は、のちの三代目の寛永度天守では、一部を除いてほとんどが無くなる方向で改められたわけであり、ならば何故、この時点では、こんなにも多用されたのだろうか?? と、逆に気になってまいります。

ふつう「張出し」や「出窓」と言えば、望楼型(塔屋型)天守の大入母屋屋根の内部(=屋根裏階)の明り取りのための構造であったはずで、それがどういうわけか、大入母屋屋根を否定した層塔型天守においても、なおも使われ続け、むしろ増える場合さえあったのは、それらが意味合いをまるで変えて、別の目的に転じたからだと言わざるをえないでしょう。

したがって(別目的になった)張出し・出窓と層塔型天守とは、思いのほか “深い関係” にあったのかもしれない、と感じられるのです。…
 
 
 
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 張出し(出窓)の多用は層塔型天守ならではのこと>

 
 

出窓も無い「無破風」の 層塔型、津山城天守(※津山市HPより)


石井正明復元「津山城天守復元断面図」(『よみがえる日本の城 5』津山城より)

では、ためしに三浦説で日本初の層塔型とされる今治城天守や、ご覧の津山城天守など、最上階の屋根にしか破風が無かった「無破風」の層塔型天守を考えてみますと、上記の印象的な「復元断面図」を見て感じるとおり、整然とした層塔の外観を整えるために、その内部は大変なことになっていた!というのが、率直な感想です。

まず外観ありきで、それを実現するため、各階ごとに柱間の寸法を変えて!対応していた、となれば、実情はとても「シンプル」とは言い難い建物であり、何故こんなことをわざわざしたのか? と問えば、その答えは、やはり三浦先生が上記書の解説文で解き明かしておられます。

(上記書より)

津山城天守のような破風のない層塔型天守は、籠城を主眼とした、実戦的なものであった。旧型の望楼型天守では、その大きな入母屋破風がじゃまとなって、周囲に、くまなく鉄砲を撃ち掛けることができなかったが、津山城天守では、各階の四周に武者走りを廻らせて、そのどこからでも容易に敵を狙えたのである。

無破風の層塔型天守の略図(初重が二階分になったケース)

!!… 層塔型天守とは、要するに、こういうことのためにデザインされた建築だったのであり、実際は藤堂高虎が好んだ「シンプルな構造」よりも「防御力」の方が優先されたはずで、狭間や銃眼を最大限に、かつ全方位にムラ無く並べて、圧倒的な「弾幕」を張りめぐらすことで、敵を寄せ付けない、という目的に徹した様式だったのだと言わざるをえないでしょう。

ですから、政治的な意味を別にしますと、天守に課せられた最大の軍事的役割(→天守に登った城主の「切腹」の時間をつくること/落城も間近と一斉に群がって来る敵勢を押し留めること!)に対して、最大限に忠実であろうとしたデザインが、層塔型、であったのかもしれません。
 
 
ところが、二重目から上の階の「弾幕」について考えますと、略図のごとく、たとえ「無破風」であっても、天守直下の敵勢に対しては、すぐ下の屋根が邪魔になって見下ろすことが出来ず、とりわけ略図の「黄緑色の弾道」に注目しますと、おそらく本丸内部への撃ち下ろしさえ出来なかっただろう、というハンディキャップが避けられそうにありません。

そこで一方の、天守に設けられた「出窓」の実際の様子を、望楼型(塔屋型)と層塔型の区別なしに、ザザッとふりかえってみますと…

米子城天守の場合


備中松山城天守の場合


岡崎城天守の場合(※ご覧のCGは、古藤祐介様の作画からの引用です)


会津若松城天守の場合


名古屋城天守の場合

という風に、最初の米子城から最後の名古屋城まで、「出窓」は下層階の腰屋根にからんだ「石落し」として設けられたケースが多く、このことはかなり重要なヒントになりそうです。
 

そこで是非ともご注目いただきたい屏風絵がありまして、それは「戦国合戦図屏風」と呼ばれる、昭和の末に富山県の個人宅で発見されたもので、『戦国合戦絵屏風集成』第五巻(昭和63年刊行)に収録されたのを見てから、私なんぞは、ずっと気になって来た屏風絵です。

これは左右両隻の一方が「山城」の攻防戦を描き、一方がご覧のとおりの「平城」近世城郭での攻防戦を描くという “城攻め屏風” なのですが、どこか特定の合戦を描いたものではなく、城攻めの様々なパターンを詰め込んで描いた屏風として知られています。

例えば「平城」側には攻め手の本陣に大将が二人並んで描かれていて、そこは大坂の陣(→徳川家康と秀忠)のようでもあり、しかし天守の描き方は、関ヶ原合戦図の大垣城天守によく似ていると言われ、そちらが三重天守なのに対し、こちらは四重天守であって、しかも黒い壁面であるという、とらえどころの無さです。

そうした点について美術史家の狩野博幸先生は「過去に起きた実戦を主題にした合戦風俗図とも異なるこの屏風の制作意図は、合戦の方法論すなわち兵法の絵画化にあったように思われる」と評され、また「合戦アラカルト」とも評しておられ、現に、手前側から鉄砲隊が銃を撃ちかけているので、天守との間にあるのは通常の水堀かと思いきや…

水面が非常に “波高く” 描かれておりまして、これはひょっとすると、琵琶湖畔か海沿いの「浮き城」の描写が流用されたのだろうか?… とも感じられるものです。



そして今回、これをご紹介した目的は、ご覧のとおりの、おびただしい数の張出し(出窓)の描写にありまして、たぶん初重は城内側を除く三方向にあり、二重目は相対する二方向に、三重目もそれに直行した二方向に、という風に、少なくとも七つ程度の張出し(出窓)が満載の状態であり、これが「兵法の絵画化」だとすれば、ある種の、歴史の証言ではないかと思うのです。

つまり「平城」近世城郭の、一般的な層塔型天守を思い浮かべるとき、当時(=江戸初期)の人々は、その天守におびただしい数の張出し(出窓)を連想するのが普通の感覚だった、という無言の証言 = 無意識のうちに出た「常識」の可能性が高そうで、貴重な情報と言うべきでしょう。
 
 
…… で、これはもしかすると、層塔型天守の萌芽期に(最初の今治城天守などの次に?)ある種の「反省点」として、盛んに導入されたスタイルなのでは、とも邪推(じゃすい)できそうであり、否、もっと邪念を深めるならば、出窓を多用した方が、より原初的な、層塔型の本来のあり方だったのでは!?… などという暴論まで、私の頭の中には浮かんで来てしまうのです。

会津若松城の外観復元天守に、そんな原初的なスタイルが―――。

このことは当ブログがかつて、蒲生氏郷の会津若松城の七重天守こそ、最初の層塔型天守ではないのか? との暴論を申し上げたこととリンクしておりまして、この際、さらに申せば、層塔型(=下から上まで葺き下ろし屋根)の最大のメリットとは、石落しの出窓を、好きな高さや位置に設けられる点! ではなかったのか… とさえ感じるのです。



――― どちらが城主自身にとって有り難かったか?

こんな選択が出来ること自体が、層塔型のメリット(導入の動機や要因)だったのだろう、という印象が私なんぞには強くありまして、以上の事柄を総合すれば、<張出し(出窓)を多用することは層塔型天守ならではの死活的な措置だった> と断言しても良いのではないでしょうか。
 



そして一方、徳川幕府の巨大な層塔型天守が(※おそらく駿府城再建から参加した小堀遠州の提案・指導のもとで)千鳥破風などを数多く設けて、城下への全方位的な「美観」に配慮したのは、幕藩体制下の統治の「象徴」としての「天守」を完成させる、最終工程と言えるものでした。

したがって津軽家伝来の絵図が本当に慶長度の江戸城天守だとしますと、ここにはすでに徳川特有の破風の配置が先行していて!?、しかも層塔型の死活的な「出窓の多用」もされているという <<あいのこ状態>> にあるわけでして、しかも後の寛永度天守では「出窓の多用」が消えることを踏まえますと、これらを時系列的にどう説明すればいいのか?… 三代将軍らの防御力軽視、とだけ片付ければいいのか、まだまだ未解決のジグソーパズルが残っているようです。
 

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