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伊予の三義民

2019-06-02 13:51:30 | 日記
砥部町八倉に行った時、なにげに八倉集会所に車を停めました。すぐ横が墓地になっており奥の一画には何やらお寺の一部のような小さな建物が見えました。ただならぬ空気を感じ奥に進んでみると砥部町教育委員会が設置した看板表示がありました。

そこには伊予の三義民の一人と書いてある。義民と言えば享保の飢饉の時に、自身が飢えで苦しいのに来年に植える麦の種を残しておくと言い残し、餓死してまで民衆に大切な教えを残した松前の義農作兵衛を一番に思い浮かべますが、また別のお話のようです。

こちらは窪田兵右衛門という方で、明和8年(1771年)大干ばつのおり麻生村と水利権で争いが起こり死人が出る程の大惨事になった。裁判は岡山まで何度も行く必要があったから村人たちは困窮を極めた。そこで兵右衛門は一身に罪をかぶり首謀者として名乗り倉敷で処刑された。その遺骨を持ち帰りここに納めた。それが先程のお寺の一画のような建物のところ。

「ムムムムム~!」そんなすごい人が八倉から出ていたとは全く知らなかった。

ここまでくるとある疑問がわいてきます。三義民だから最後の一人は誰なんだろう?巷にある三なんとかは必ずしも特定していなかったりするのでだいたいになってしまいますが、時代背景からして西条藩の村上平兵衛らではないでしょうか。こちらは年貢に苦しむ農民による一揆の首謀者として3人が処刑された事件です。

3人と三義民とややこしいですが、この解釈で合っておりますでしょうか。教育委員会の方、検証願います。

仕事柄農業者、水利組合、土地改良区等とお話しする機会も多いほうだと思いますがそれらの方の先代には三義民のような方がいらしたのですね。見た目は朴訥として優しそうな方々に見えますが奥底には力強い歴史を持っているのですね。

兵右衛門のお墓から道後平野が見渡せます。


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