2019年1月5日の二日市・太宰府歴史散策の続き。
「御笠団印出土地」「太宰府市文化ふれあい館」「国分瓦窯跡」「筑前国分寺講堂跡」を見学した後は、「筑前国分尼寺跡」に向かいました。
御笠団印出土地・太宰府市文化ふれあい館・国分瓦窯跡・筑前国分寺講堂跡のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12553420685.html
「筑前国分寺講堂跡」からも更に西に進みます。
すると、上の写真の中央から左手に見えている畑の一角に「国分尼寺跡」という由緒書きがあります。この地に「筑前国分尼寺」があったんですね!
天平13年(741)聖武天皇が鎮護国家、五穀豊穣を祈る為、諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じました。
尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」と言い、尼僧10人と規定されました。
ここは筑前国の国分尼寺があった所と伝えられますが、今は、わずかに田圃の中に礎石が1個残るのみです…。
筑前国分寺跡は、東300mの所にあります。前回レポで紹介した場所辺りになるんですよね。
「筑前国分尼寺跡」は、現在は畑になっていて、それらしい名残は全然ありませんでした…。
「筑前国分尼寺跡」から北に少し進んだところに、古墳があるんですよね♪
こちらは「陣ノ尾一号墳」。
「陣ノ尾1号墳」の由緒書き。陣ノ尾古墳群は、四王子山から南西に延びる丘陵に築造された古墳群で、未調査で不明な点も多いものの円墳や方墳など4基が確認されています。
「陣ノ尾一号墳」は、昭和56年(1981)国分小学校建設に伴い調査された直径12m前後の円墳で、石室は南側に開口する複室構造の横穴式石室です。
石室は全長6.6m、奥室は長さ2.3m、幅2.0m、高さ約2.0m、全室は長さ1.4m、幅1.3mです。
奥室は盗掘などで荒らされていて、副葬品はほとんど残っていませんでしたが、全室や羨道から耳環や鉄鏃等が出土しました。それらと一緒に出土した須恵器から、6世紀末頃(約1,400年前)に築造されたと考えられています。
石室の入口部分に近づいて…。柵がしてあって、中に入れないのは残念ですが…。
柵の隙間から、石室奥を眺めて…。
「陣ノ尾一号墳」を別角度から…。
「陣ノ尾一号墳」から「筑前国分尼寺跡」に一旦戻って、「筑前国分尼寺跡」に残っていた礎石が展示してある場所に向かいました。
展示してある場所は、こちら。「太宰府市国分共同利用施設」。
その敷地の一角に、礎石がぽつんと1つだけ、置かれていて…。
礎石の由緒書き。「筑前国分尼寺跡」の礎石と伝えられるもので、元々は、道を挟んだ向かいの水田の土留めとして利用されていたものを、ご好意によりここに移設したものです。
この礎石は、花崗岩でできており、柱を据える部分(柱座)が直径70cmの円形。当初使用されていた柱の大きさを窺えますが、具体的なことは判明しておらず、おそらく金堂などの伽藍の中心になる建物で使われていたと思われます。
「太宰府市国分共同利用施設」から「筑前国分寺跡」の方に戻ると、道路の中央に、灯籠が置かれていて、ビックリ!
こちらは「八角燈籠」。奈良東大寺大仏殿の前にある銅製八角燈籠をモデルとして製作しました。火袋には音声菩薩が様々な楽器を手に浄土の音色を奏でていて、堂々とした形は奈良時代の大陸志向を窺わせるものです。
東大寺は、奈良時代に全国の国分寺の中心として建立され、「金光明四天王護国之寺」と呼ばれていましたので、この場所が国分寺の正面に当たることから、縁のものを建立。
「文化ふれあい館」の広場にある「七重塔模型」と併せて、当時の国分寺を偲ぶ資料となれば幸いです。
なるほど~近年製作されたものですが、威厳があって、素晴らしい灯籠ですよね~♪
「八角灯籠」の向かいには、「筑前国分寺跡」の石碑があって…。
その奥には、お寺があります。こちらは「筑前国分寺」。「筑前国分寺」の跡地に「筑前国分寺」があるというのも、面白いな♪
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筑前国分寺
筑前国分寺(ちくぜんこくぶんじ)は、福岡県太宰府市にある高野山真言宗の寺院。山号は龍頭光山。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、筑前国国分寺の後継寺院にあたる。
(中略)
歴史
大宰府政庁跡から北西方の台地上に位置し、現在の国分寺は創建時の僧寺跡と重複する。その西方には尼寺跡が、東方には両寺の瓦を焼いた瓦窯跡(かわらがまあと)が残っている。
聖武天皇の詔による建立とされるが、創建の記録は残っていない。古くは、延暦20年(801年)に四王院から仏像・法具が「筑前金光明寺」に移されたという記録がある(大同2年(807年)に元に戻す)。『延喜式』での筑前国分寺料は32,293束。
その後、江戸時代中期には寺は廃絶していた。江戸時代後期に入ると薬師如来を安置する堂と小庵があったと文書に記されているが、これは後継の現・国分寺と見られる。
その後継国分寺の歴史について、寺伝では、江戸時代には創建時の国分寺は廃絶していたが、江戸から来た修行僧が国分寺の廃絶を嘆いて小庵を結んだという。その後、元文年間(1736年-1741年)、天明年間(1781年-1789年)の勧進によって、修復・再興が図られた。その後、文政10年(1827年)に本堂を焼失、天保4年(1833年)に庫裏が再建されたと伝える。
(後略)(ウィキペディア「筑前国分寺」)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%89%8D%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA
「筑前国分寺」は、荒廃してしまっていたんですね…。
山門をくぐり、本堂。
本堂の横にある堂宇。
その堂宇の扁額には、山号「龍頭光山」とあります。
境内には、石仏や庚申塔があって…。
宝篋印塔。
塀沿いには、石仏がたくさん並んでいらして…。
その横の祠には、観音様。
大日如来、観音様、お地蔵様が、これまた、たくさんいらっしゃいました。
弘法大師もいらっしゃいましたよ。
石仏の数。ものすごかです!
「筑前国分尼寺跡」「陣ノ尾一号墳」を見学し、「筑前国分寺」をお参りした後は、「天満神社」に向かいました。
その様子は、また後日。
筑前国分尼寺跡
福岡県太宰府市国分2-8
https://www.crossroadfukuoka.jp/event/?mode=detail&id=400000005699&isSpot=1(福岡県観光連盟HP)
https://dazaifu-bunka.or.jp/info/spot/detail/16(太宰府市文化ふれあい館HP)
陣ノ尾一号墳
福岡県太宰府市国分2-10
太宰府市国分共同利用施設
福岡県太宰府市国分3-17-6
筑前国分寺
福岡県太宰府市国分4-13-1
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