――アヘン戦争を語る上で必須の人物は2人いて、そのうちの1人が道光(どうこう)帝である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると、
――道光帝? 道光帝は、そんなに深くは関わっていない。深く関わったのは林(りん)則徐(そくじょ)ら大臣たちだ。
と訝る向きがあるかと思います。
たしかに――
いわゆるアヘン問題の解決やアヘン戦争の勃発、および、その対処に――
道光帝は、それほど深くは関わっていないかもしれません。
が――
その体制は、道光帝の曾祖父・雍正(ようせい)帝によって、揺るぎない形で定められていました。
よって――
アヘン戦争の結果に最終的な責任を負うべきは、道光帝ただ1人のはずです。
実際に――
アヘン問題に取り組み始めた皇朝の首脳部が、
――アヘンの完全根絶
か、
――アヘンの部分容認
かで割れていたときに――
――アヘンの完全根絶
を説いた林(りん)則徐(そくじょ)を重く用いることで皇朝の方針を決めたのは――
他ならぬ道光帝その人でした。
道光帝が林則徐を重く用いていなければ――
イギリス側が密かに蓄えていたアヘンが全て没収されることはなく――
イギリス側のメンツがつぶされることもなく――
ひいては、アヘン戦争が起こることもなく――
その敗戦によって、中国大陸をはじめ東アジアの全域に様々な負の遺産がもたらされることも、なかったかもしれないのです。
その意味で――
アヘン戦争の勃発に際し、道光帝が担った役割は決定的であったといってよいでしょう。
さらにいえば――
それは――
アヘン戦争の勃発の170年ほど前――
三藩の乱の勃発に際し、道光帝の高祖父――つまり、祖父の祖父――である康熙(こうき)帝が担った役割が決定的であったように、
――決定的であった。
ということです。