マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

林則徐は不思議な人である

 ――精査・熟慮の上で決断を行うという資質が、林(りん)則徐(そくじょ)にはあったが、道光(どうこう)帝にはなかった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 誤解のないようにいっておきますと――

 このことは、

 ――道光帝が暗君であった。

 ということを示しているのではなく、

 ――林則徐が傑物であった。

 ということを示しています。

 

 ほとんどの人は――

 林則徐のようには振る舞えません。

 

 精査・熟慮の上で決断を行うことの大切さは――

 口でいうのは、たやすいことですが――

 実践は至難の業です。

 

 知力だけでなく、胆力や体力が要ります。

 

 そのような資質を備えた人物は――

 ふつうは、多少なりとも傲慢に振る舞うものです。

 

 が――

 その嫌いが、林則徐にはないのですね。

 

 アヘン戦争のとき――

 道光帝によって欽差(きんさ)大臣――特命全権大臣――の任を解かれたときも、唯々諾々と従いました。

 

 資質に欠ける皇帝の不甲斐ない決定でしたから――

 もう少し不服そうに振る舞っても、よかったはずですが――

 そういう身勝手なところが、まるでないのですね。

 

 11月29日の『道草日記』で――

 僕が、

 ――林則徐は不思議な人である。

 と述べたのは――

 そうしたことにもよります。

 

 よほど達観をした人であったのでしょう。

 

 林則徐が生まれたのは、都・北京から遠く南へ離れた長江流域から更に南へ離れた福建省です。

 父は科挙――官僚登用試験――に落第をし続けた人物でした。

 その父の無念を晴らす形で、林則徐は27歳のときに科挙に及第をします。

 当時の皇朝が、いわゆる“満州地域”からやってきた人々によって樹立をされていたことは、もちろん、わかっていたでしょう。

 そのような時代に生まれ合わせた運命を受け入れ、故郷とは縁遠い地域に出自がある政権であっても、そのために懸命に働こうと決めた――その初心を、おそらくは50代になって欽差大臣に任じられた後でさえ、忘れなかった人なのです。

 

 そんな恭謙な名臣を君主・道光帝は裏切って罷免をしたわけですが――

 さすがに、気がひけたのでしょう。

 

 約10年後に、別件で、もう一度、欽差大臣に任じています。

 

 が――

 その重任に耐えられる体を、その頃の林則徐は、すでに失っていました。

 

 任地に赴く途中で客死をします。

 

 まことに、

 ――人材の無駄遣い

 と、いわねばなりません。

 

 (林則徐には、もう少し身勝手に生きてほしかった)

 そう思います。