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バルタザールどこへ行く(1966年)

「映画監督論。」という特集を組んだ『BRUTUS』を買って読んでいると、そこに収録されていた「監督欠席裁判2020」という町山智浩と柳下毅一郎の対談に面白いことが書いてあった。

「クリント・イーストウッドと黒沢清」に共通点がある、というのだ。うーむ、もし共通点があるとしたら、ふたりの監督の作品を好む観客にとっては、それが「嗜好」になるのではないだろうか。

町山さんと柳下さんによると、それは「俳優に演技をさせない」ことだ、と言う。もう少し突っ込んで言うと、登場人物の内面を俳優に考えさせない、演技に投影させない、ということになるのだろうか。「まあ、そうだなあ」と私は思う。もちろん、すべての登場人物にそれを求めるわけではなくて、主要な人物やキーマンに対してだけだ。その結果、その人物の内面は表現されず、どこか曖昧で、何を考えているのか分からない人物描写になる。

登場人物の中身を空けておくことで、観客の感情が入るようにする、という演出テクニックがあるそうだが(これも対談の中にあった)、このふたりの監督について漏れ聞こえてくるエピソードを知ると、そういうテクニックの範疇を超えて、もう少し強い意図を持ってそうしているように思える。しかも、黒沢清に関しては、入れ物としての人物がすき間だらけなので、観客はわけが分からなくて不安になる、と町山氏は語っている。

あらためて考えてみると、私がいいと思う映画、好きな映画は、ほとんど「主人公の人物像にゆらぎがある」映画だ。迷っている人物ということではなく、いろんな風に見える人物、ということだ。

で、俳優に演技をさせない究極の監督として、イーストウッドと黒沢清の間を繋ぐような形で語られている監督が、ロベール・ブレッソンなのである。大昔に観た記憶はあるけれど忘れている、これはもういちど観なければ、と思ったところ、なんと、ちょうどそのとき、新宿のシネマカリテで、ブレッソン作品が2本上映されていたのである。なに、このタイミング。

ここまで前置き。

ということで、『バルタザールどこへ行く』を観た。事前の広告によると、農園主の娘マリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)が、紆余曲折はあれど、可愛がっている子ロバのバルタザールと別れたり再会したりするヒューマンドラマ、かと思いきや(あんまりそんなふうに想像してはいなかったけど)、全然そういう映画ではなかった。

マリーは成長するほどにふつうの女になり、ダメな男に惚れ、バルタザールのことを忘れてしまう。バルタザールは機械化を進める農園には不要な動物となって売られ、そこから流転のロバ生が始まる。あらゆる場所、飼い主の元を転々としながら苦役に身を削り、逃げ帰ったマリーの元からはふたたび引き離され、浮浪者の手元にいたときだけはひとときの安寧を得るものの、人間の欲望と身勝手さに振り回される日々を送る。

スクリーンの真ん中にはたいがいマリーや恋人のジェラール、浮浪者などの人間が映っていて、バルタザールは見切れているだけだったりするシーンもあるのだけれど、終始一貫して描かれているのはバルタザールで、人間は、彼を翻弄するだけの存在に過ぎない。観ているうちに、しだいに気づいた。これはバルタザールの立場で観る映画なのだ。この映画の主人公は、ロバのバルタザールなのだ。

人間中心に観ていると誰にも感情移入できないし、「なんなんだよ、あんたたちは」と腹が立ってきたりもするが、バルタザールの映画なんだと気づいてからは、ああ、そうか、と納得し、ラストシーンの、バルタザールを通して描かれる存在の崇高さに心打たれるのだ。つまりこれは、「売買される命」のはかなさ、虐められることの悲惨さ、流転の中でも存在する尊さを、ロバに仮託して描いている映画なのである。もちろん主人公はロバでなくてもいい、人間でもいいのだけれど、言いたいことは、人間を使わないことで、ブレッソンの映画の特色がよりよく分かる、ということなのだ。

主人公はロバだから、監督の指示を聞いて演技なんかしないし、何を考えているのかもわからない。けれども、内面を描かなくても、世界の理不尽さは観客に届く。残虐なシーンはひとつもないが、酷薄な人間の振る舞いや、ロバが延々と臼を引くシーンなどで、つまり「アクション」だけで、ブレッソンは映画をつくっている。

ということが、よく分かる1本なのだった。

この映画には、バルタザールのロバ生を左右するものが「金銭」だということ、「経済」が人間社会を動かし、蝕むことも語っている。そういえば昔、偽札を題材にしたブレッソンの『ラルジャン』という映画を観たことを思いだした……内容はよく覚えてないけれど。

『少女ムシェット』(1967年)も観たが、こちらは主人公が人間なので、この映画とは少し感触が違う。けれども、周囲の人間が無意識のうちに、寄ってたかってムシェットを追いつめてゆくようすが冷徹に描かれていて、テーマはほぼ同じだと言ってもいい。ラストシーンのアクションの構成もみごとだ。ラース・フォン・トリアーはこの映画に触発されて『ダンザー・イン・ザ・ダーク』を撮ったそうだが、『ムシェット』が『ダンサー~』ほど胸やけするような話になっていないのは、人間描写の冷徹さ、客観性の相違で、ゆきつくところは「俳優に演技をさせないこと」になるような気がする。

もうひとつ、『バルタザール』と『ムシェット』に共通する要素がある。前者では「浮浪者」、後者では「密猟者」、つまり「はぐれもの」の存在だ。彼らは「金銭」に縁がないけれど、主人公を受け入れる者という役割を負っている。けれども、彼ら自身が社会から疎外されているので、主人公を守ることができない。これはほんとうにリアルだ。

蛇足気味にもう少し。ブレッソンは俳優の演技を嫌い、演技経験のない素人をつかって映画を撮った監督で、マリー役のアンヌ・ヴィアゼムスキーもそうだったが、彼女はこの映画でデビュー後はプロの女優となり、多くのフランス映画に出演した。『中国女』に出演したのち、ゴダールと結婚、のちに離婚している。

監督:ロベール・ブレッソン
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、フランソワ・ラファルジュ、フィリップ・アスラン ほか

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by shino_moon | 2020-12-02 14:11 | 映画(ハ行) | Comments(0)


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