「僕としたことが・・・。」
習性とは時として、図らずとも自分自身を傷つけてしまうものだ。
右京はふと、右掌をやんわりと開いて眺めた。
暖かな感触が忘れられない。
差し出したこの手を、彼女は両手で抱き締めるように握り返した。
初めて出会った時に触れた冷たさの記憶とは比べ物にならないような温もりで。
見送った後姿は今でも目に焼き付いている。






それなのに、だ。
「・・・僕としたことが。」
右京はもう一度、呟いた。
桜の蕾は膨らみかけて、一気呵成に季節を告げる薄紅色の景色のことを夢に見ながら、未だ眠り続けている。
春はもうそこにある筈なのに、一瞬だけの寒の戻り。
少しだけ癒されたくて。
足は自然とここへと向いていた。
頭では分かっていても、癖になっている帰る道すがらの寄り道は、右京と言えど逆らうことはできなかったようだ。
つい最近までほんのりと明るく燈っていた【花の里】の文字も、まるで始めから何もなかったかのように消えていた。
これを見るのは数年ぶりだ。
ただ、あの時より。
何故か、ツキンと心が痛い。
「右京さん、やっぱりここに居たんですね。」
亘が後ろに立っていた事にすら気付かない、それも右京にしては珍しい事だった。
「おや、今日は別件があると言ってませんでしたか?」
だからと言って決して驚く素振りを見せることはない。
至って冷静・・・を装ってみせる。
亘にとってはそれも少々想定内だったが、敢えてここは気付かなかったことにした。
「野暮用だったんですけどね、ドタキャンされちゃいまして。帰ろうかと思ってたら右京さんがこっちに歩いて行くのが見えまして。」
ドタキャンは事実だった。
ただ、その相手・・・日下部が急な用事でそちらを優先してしまった為、亘も手持ち無沙汰になった。
「手、どうかしたんですか?」
右手を見下ろしたまま動かない右京に、亘は尋ねる。
が、まだ動かない。
「いえ・・・ただ・・・少しだけ・・・。」
「・・・寂しい、ですか?」
「そんなところです。」
否定せずに開いていた掌をふわりと握った。
あの時の形を再現するように。
「右京さんの薦めで始めたって聞いてましたが。」
「ええ、以前の女将が急に店を畳んでしまい、出所したばかりの彼女に何か力になればと・・・。」
記憶の中だけにしかもう、存在しない彼女の手を握ったまま、右京は暗さだけが残るこの通りの向こう側を見つめていた。
「彼女にここを薦めたのは僕です。彼女が少しでも自分の足で自信を持って立てるようになる切っ掛けになってくれればと・・・最初は思っていたんですけどねぇ・・・。いつの間にか、それが当たり前となってしまっていたこと、今更ながら自分自身に驚いていたところです。本当はもう少し早く、こうなることを望んでいたのではないかと・・・彼女自身、本当は・・・。」
【彼女なりの、杉下右京に対する恩返しと気遣い】
薄っすらと色んな所から話を聞いたり、読んだり、彼女や右京の口から時折漏れる言葉の端々から、彼女が抱いていたものを慮ることは容易だった。
13年前にバスの中で出会い、偶然を重ねていつの間にか右京にとって掛け替えのない存在となっていたのは確かだろう。
じゃなかったら今、ここに居るはずがないのだから。
「ツイてない女性から・・・幸せを与える女性に・・・か。」
「はい?」
語尾を軽く上げた右京特有の疑問符。
「いえ、別に・・・あれ?」
他の店、と言いかけたが亘は暗い通りの反対側から黒い二人組がやってくるのが見えた。
「伊丹さん、芹沢さん、お揃いで?」
プライベートの時間に、この二人と出くわすのは少々御免被りたいところだったが。
目的地が此処だと分かり、亘は暖簾もかかっていない店の跡を優雅な仕草で指し示した。
「特命係の冠城!・・・何でこんな所突っ立ってんだよ!」
「ってか、先輩、ここ、特命係の行きつけですから・・・どちらかと言えば俺達が邪魔する方ですよ。」
伊丹のコートの肘辺りを摘まんでぐぐいっと引っ張り耳打ちする。
「公共の店だから良いじゃねぇか!・・・何だよ・・・珍しく店休日か?おい・・・。」
「いえ・・・店はもう、ありません。」
右京がはっきりとした口調でやっと顔を上げ、伊丹に告げた。
まるで自分にも言い聞かせているかのような・・・そんな口ぶりで。
「ええ?!店、畳んじゃったんですか?!」
驚いたのは芹沢の方だった。
「え〜・・・マジっすか・・・。赤字だったんですかね?」
「んなわけねぇだろ、この店、知ってる限り【霞が関】関係しか客いねぇから、ツケる奴もいねぇだろうし、安い物を頼む連中もいねぇだろ?」
『特命係じゃあるまいし』と続けたが、後輩の余計な一言が伊丹の眼力を無駄に怒らせることになる。
「俺達も一緒でしょ、どうせお偉いさんたちとは違ってただの地方公務員ですから。」
最近はそれくらい言ったところで睨まれるだけで叩かれることはない。
それを知っている為、芹沢のツッコミは以前より本音をオブラートで包むこともしない。
「で?そんなお二方がここに何の用だったんですか?」
亘の問いに、伊丹は咳払いを一つすると風を避けるようにコートの襟を少しだけ立てた。
「別に。ただ、今回の事件の【功労者】の店にちょっとした礼として金を落としに来ただけだ。」
「・・・折角先輩の奢りだったんすけど。」
『余計なこと言うな』と諫めるが、伊丹もそして芹沢も馴染みの店が無くなってしまった事自体は少々寂しそうだった。
「・・・本当にやりたいことが出来た、とのことですよ。」
亘が理由を教えてやっているのを右京は黙って見つめている。
「・・・そうか。」
改めて、【元・花の里】を上から下までゆっくりと眺め・・・伊丹は芹沢を促した。
「行くぞ、別のところで奢ってやるから。」
「マジっすか?!」
歩き始めた伊丹を追って、後ろを付いて行こうとしたが・・・再び足を止めた先輩にぶつかりそうになり、慌てて止まった。
「・・・そんな杉下警部が心配せずとも、大丈夫でしょ。何てったって【ツキの元に立つ幸せな子】と書いて月本幸子、なんですから。」
驚いて捜査一課の彼に目をやった右京を敢えて無視し、『では、我々はこれで』といつものワザとらしく恭しい礼を取ると、今度は止まることなく去っていった。
二人を見送り・・・思わず絶句していた亘もやっと口を開いた。
「・・・伊丹さんにしては上手い事、言いましたよね?」
「・・・ですねぇ・・・流石に僕も、あの発想はありませんでした。」
『ツキの元に立つ幸せな子』・・・口の中で繰り返して。
右京は今夜初めて亘を見た。
「・・・冠城君、キミ、他に知ってますか?」
「勿論、ワサビ多めでお茶漬け出してくれる店、知ってますよ。」





誰よりも幸せに
貴女の人生にこれからも・・・幸多からん事を
願いを込めて

また再び出会えるその時に、優しい笑顔を見せてくれるのであれば