梅雨入り宣言した瞬間に待ちわびたとばかりの大雨。
その宣言は【雨、降って良し】という許可ではないのに・・・曇天の空を見上げて、持っていたコーヒーを無意識に一口含んだ。
「先程から溜息ばかりですねぇ。」
付き合いは2年以上になるも同居人から正式に部下となり、同じく上司となった杉下右京は雨だろうと雷だろうと一切関知しない。
寧ろ空模様などどうでもいいと、デスクランプを灯して読書に耽っていたのを、これ見よがしの溜息で邪魔をされてとうとう顔を上げた。
「雨は嫌いですか?」
梅雨の晴れ間は異常なまでに眩しい。
都心から少し離れて小高い丘の上に目的地はあった。
『杉下右京、お前を交渉人の任から外す。』
一つ一つ、ゆっくりと。
『まさか、絶対的な正義がこの世にあると、思ってる?』
決定的に2人の生きる世界に亀裂が入り、修復が不可能になった瞬間。
『もう、良いよね?車、待たせてあるから。・・・もう良いよね?』
議論はこれ以上は無駄。
押し殺さずに、口を開けば運命は変わっていたのだろうか?
もしも、
そうだったら、
こうしていれば、
怒声も叫びも悲鳴も聞こえない。
冷たく凍り付いていく手を握り、徐々に重みを増す身体を抱きしめて、右京にしか聞こえなかった最期の言葉を人生の締めくくりとし、その男は人間稼業にあっさりと幕を下ろした。
「色んな事を思い出します。」
「『おかしいね・・・殺されるのなら・・・お前にだと、思っていたのに・・・。』」
そして、笑ったのだ。
いつもの様に。
薄っすらと、でも明らかに小野田公顕は。
笑ったのだ。
最期に、杉下右京に向かって。
右京が絶叫する名も聞けぬまま。
暗闇の色を唯一染め上げた、鮮烈な紅色の血の海の中、動かぬ屍と変わり果てた。
右京の言葉を待って魔法に掛けられた風は再び3人の間で散り散りになり、最後の台詞も飲み込んで通り過ぎて行った。
『甘さをね、究極に突き詰めていくと、苦みを感じるでしょう?これも甘いものを煮詰めて苦みが出たギリギリのところで止める。・・・苦みか甘みか・・・引き立て役は一体どちらなんだろうねぇ?杉下、お前はどちらだと思う?』
Happy Birthday
その宣言は【雨、降って良し】という許可ではないのに・・・曇天の空を見上げて、持っていたコーヒーを無意識に一口含んだ。
「先程から溜息ばかりですねぇ。」
付き合いは2年以上になるも同居人から正式に部下となり、同じく上司となった杉下右京は雨だろうと雷だろうと一切関知しない。
寧ろ空模様などどうでもいいと、デスクランプを灯して読書に耽っていたのを、これ見よがしの溜息で邪魔をされてとうとう顔を上げた。
「雨は嫌いですか?」
「嫌いでは無いですけど・・・こう、じめっとしてるのが何日も続くと。」
「そうですか。」
パタンと閉じた本からフワリと湧き上がる古書独特の埃交じりの匂いを右京自身嫌いでは無かった。
隣の課もいつもに比べて暇そうにしている。
角田に至っては新聞を大きく広げたまま、読んでいるふりをして気持ちよさそうに頭は舟を漕いでいた。
雨というのは犯罪者をも動きを鈍くする効果があるらしい。
外に行くのは億劫で庁内でランチをと顔を出した食堂に、捜査一課の2人が並んで昼食をとっていた、ということは本当に今日は【東京は暇】なのだ。
流石にこの場所にこの時間にやってきた彼に対して、『何しに来たんだよ特命係の冠城亘。』といつもの決め台詞を吐きかける事はしなかったものの、顔にはバッチリ書いてある伊丹に会釈して、出来るだけ離れた場所に座った。
15時過ぎ、カフェイン切れの角田が起き出してコーヒーをせびりに来た。
「暇か?」
今日に限ってはどの口が言ってるのか?と突っ込みたくなるも、黙って動きメーカーのセットを始める。
「角田課長も暇そうですね。」
口を閉じた亘の代わりに右京がクスリと笑って見上げる。
「俺は、暇じゃねぇよ。」
「そうですか・・・課長、跡がついてますよ。」
ちょいちょいと自分の口元を突いて教えてやる。
「ん?!あっ・・・。」
袖で擦り取って、組対五課と特命係を隔てる小窓にうっすら映る自分の顔をくっ付けた。
「取れたか?」
「冗談ですよ。」
チャプンッと亘の手の中にあったコーヒーサーバーの水が揺れた。
見てはいなかったが台詞だけでもまるでコントだ。
こっそりと笑ったつもりが聞こえていたらしい。
2人分の視線がいっぺんに亘に注がれる。
「・・・すみません、つい。右京さんもそんな冗談、言うんですね。」
「よほど僕の事を堅物だと思っていませんか?」
「思ってました。」
誤魔化すことなく正直に答えて、上司の顔を窺う。
不服そうな顔で亘を目を細めて睨んでいた。
「心外です。」
こちらもはっきりと不満を漏らし、アフタヌーンティーを準備する為ポットのスイッチを入れた後、数日ずっと続く強めの雨音に目を向けた。
「まぁ・・・確かによく降りますが。」
チラリとカレンダーを確認して右京は空を覆いつくすダークグレーの雲を見上げた。
「明日は晴れますよ。」
「え?」
「明日は、晴れ、です。」
今朝のニュースで一週間は関東地方の雨は止まない、と聞いたばかりだった。
明日の予報も降水確率80%。
御愛想程度の20%を右京はある種の確信を持って亘に宣言した。
「右京さん、気象予報士の資格も持ってるとか?」
「持ってませんよ。」
「・・・右京さんだったら持ってそうな気がしましたけど。」
「持ってません、が。明日は晴れ。間違いなく晴天ですよ。」
思わず角田と顔を見合わせて、それから右京の自信に満ちた笑顔に向ける。
「明日は、雲一つない晴天です。」
言い切ったその時、雲の切れ間に光が一瞬だけ差したような幻を見た。
「明日、ちょっと出かけます。」
右京が何処かに行くと亘に告げるのは珍しい。
少しだけ目を大きく開いて首を傾げる。
「どちらへ?」
「暇だったら付き合いますか?」
暇も何も、特命係は基本暇な部署。
つまり、付いて来て欲しい、と暗に言っているようなものだ。
「俺がついてって良いところでしたら、喜んで。」
「決まりですね。」
ホッとしたような、そんな不思議な表情を浮かべて、いつものようにティーポットを高く掲げた。
「そうですか。」
パタンと閉じた本からフワリと湧き上がる古書独特の埃交じりの匂いを右京自身嫌いでは無かった。
隣の課もいつもに比べて暇そうにしている。
角田に至っては新聞を大きく広げたまま、読んでいるふりをして気持ちよさそうに頭は舟を漕いでいた。
雨というのは犯罪者をも動きを鈍くする効果があるらしい。
外に行くのは億劫で庁内でランチをと顔を出した食堂に、捜査一課の2人が並んで昼食をとっていた、ということは本当に今日は【東京は暇】なのだ。
流石にこの場所にこの時間にやってきた彼に対して、『何しに来たんだよ特命係の冠城亘。』といつもの決め台詞を吐きかける事はしなかったものの、顔にはバッチリ書いてある伊丹に会釈して、出来るだけ離れた場所に座った。
15時過ぎ、カフェイン切れの角田が起き出してコーヒーをせびりに来た。
「暇か?」
今日に限ってはどの口が言ってるのか?と突っ込みたくなるも、黙って動きメーカーのセットを始める。
「角田課長も暇そうですね。」
口を閉じた亘の代わりに右京がクスリと笑って見上げる。
「俺は、暇じゃねぇよ。」
「そうですか・・・課長、跡がついてますよ。」
ちょいちょいと自分の口元を突いて教えてやる。
「ん?!あっ・・・。」
袖で擦り取って、組対五課と特命係を隔てる小窓にうっすら映る自分の顔をくっ付けた。
「取れたか?」
「冗談ですよ。」
チャプンッと亘の手の中にあったコーヒーサーバーの水が揺れた。
見てはいなかったが台詞だけでもまるでコントだ。
こっそりと笑ったつもりが聞こえていたらしい。
2人分の視線がいっぺんに亘に注がれる。
「・・・すみません、つい。右京さんもそんな冗談、言うんですね。」
「よほど僕の事を堅物だと思っていませんか?」
「思ってました。」
誤魔化すことなく正直に答えて、上司の顔を窺う。
不服そうな顔で亘を目を細めて睨んでいた。
「心外です。」
こちらもはっきりと不満を漏らし、アフタヌーンティーを準備する為ポットのスイッチを入れた後、数日ずっと続く強めの雨音に目を向けた。
「まぁ・・・確かによく降りますが。」
チラリとカレンダーを確認して右京は空を覆いつくすダークグレーの雲を見上げた。
「明日は晴れますよ。」
「え?」
「明日は、晴れ、です。」
今朝のニュースで一週間は関東地方の雨は止まない、と聞いたばかりだった。
明日の予報も降水確率80%。
御愛想程度の20%を右京はある種の確信を持って亘に宣言した。
「右京さん、気象予報士の資格も持ってるとか?」
「持ってませんよ。」
「・・・右京さんだったら持ってそうな気がしましたけど。」
「持ってません、が。明日は晴れ。間違いなく晴天ですよ。」
思わず角田と顔を見合わせて、それから右京の自信に満ちた笑顔に向ける。
「明日は、雲一つない晴天です。」
言い切ったその時、雲の切れ間に光が一瞬だけ差したような幻を見た。
「明日、ちょっと出かけます。」
右京が何処かに行くと亘に告げるのは珍しい。
少しだけ目を大きく開いて首を傾げる。
「どちらへ?」
「暇だったら付き合いますか?」
暇も何も、特命係は基本暇な部署。
つまり、付いて来て欲しい、と暗に言っているようなものだ。
「俺がついてって良いところでしたら、喜んで。」
「決まりですね。」
ホッとしたような、そんな不思議な表情を浮かべて、いつものようにティーポットを高く掲げた。
梅雨の晴れ間は異常なまでに眩しい。
昨日まで薄暗い世界にいたせいか、余計に感じる。
水気をたっぷり吸った土が太陽の暖かさで蒸発し、そのまままた空に雲を作りそうな気がする・・・が、そのような気配は微塵も無い。
実際、雲一つない晴天。
昨日右京が僅か20%の確率を強調した通りだった。
「右京さん、気象予報士じゃなくて予知能力持ってたんですね。」
警視庁を出て、しばらくし途中で車を止めてくれと言われて従う。
コインパーキングに駐車し数十m行ったところの店に用事だと右京は言った。
「そんな能力も持ってないですよ。やはりどうも君は僕を何か人間離れした能力を持っていると認識しているようですねぇ。」
「いけませんか?」
「僕も人間ですよ?普通の。」
それは絶対に嘘だ、言いたかったが右京が目的の店に入ったので口を噤んだ。
「何処に行くんですか?」
「ついて来れば分かります。」
亘は店に入らずに外で待つ。
色とりどりの花が梅雨時期だというのに並べられている。
女性に花を贈ることは多いけれど、赤い薔薇と決めていてゆっくりと眺める事は無い。
だから目的無く花の入ったバケツの列を見るのは珍しかった。
「花を買うってことはどなたかと待ち合わせ、ですか?」
「・・・冠城君、君のその短絡的な発想はどうかと思いますよ。」
姿をも隠してしまうほどの大きな花束を持って出てきた右京は、ひょこっと顔を出して窘めた。
「すみませんね、単純な人間でして。」
「行きましょうか、寄り道してもらってありがとう。」
前を見て歩くのが少々困難な状態の右京から亘は花束を取り上げて優しく抱えた。
小さなカスミソウ、居住まいを正すカラー、甘く強烈な香りを漂わせて白百合が揺れていた。
白以外の物は一輪も存在しない。
「右京さん、もしかして・・・。」
色の配列で亘の表情が一瞬翳る。
「目的の場所は少し遠いので・・・急ぎましょうか。」
何も答える事は無く、身軽になった右京は先を歩き始めた。
水気をたっぷり吸った土が太陽の暖かさで蒸発し、そのまままた空に雲を作りそうな気がする・・・が、そのような気配は微塵も無い。
実際、雲一つない晴天。
昨日右京が僅か20%の確率を強調した通りだった。
「右京さん、気象予報士じゃなくて予知能力持ってたんですね。」
警視庁を出て、しばらくし途中で車を止めてくれと言われて従う。
コインパーキングに駐車し数十m行ったところの店に用事だと右京は言った。
「そんな能力も持ってないですよ。やはりどうも君は僕を何か人間離れした能力を持っていると認識しているようですねぇ。」
「いけませんか?」
「僕も人間ですよ?普通の。」
それは絶対に嘘だ、言いたかったが右京が目的の店に入ったので口を噤んだ。
「何処に行くんですか?」
「ついて来れば分かります。」
亘は店に入らずに外で待つ。
色とりどりの花が梅雨時期だというのに並べられている。
女性に花を贈ることは多いけれど、赤い薔薇と決めていてゆっくりと眺める事は無い。
だから目的無く花の入ったバケツの列を見るのは珍しかった。
「花を買うってことはどなたかと待ち合わせ、ですか?」
「・・・冠城君、君のその短絡的な発想はどうかと思いますよ。」
姿をも隠してしまうほどの大きな花束を持って出てきた右京は、ひょこっと顔を出して窘めた。
「すみませんね、単純な人間でして。」
「行きましょうか、寄り道してもらってありがとう。」
前を見て歩くのが少々困難な状態の右京から亘は花束を取り上げて優しく抱えた。
小さなカスミソウ、居住まいを正すカラー、甘く強烈な香りを漂わせて白百合が揺れていた。
白以外の物は一輪も存在しない。
「右京さん、もしかして・・・。」
色の配列で亘の表情が一瞬翳る。
「目的の場所は少し遠いので・・・急ぎましょうか。」
何も答える事は無く、身軽になった右京は先を歩き始めた。
都心から少し離れて小高い丘の上に目的地はあった。
ところどころに設置された剥き出しの水場で、貸してもらった桶の中に水を満タンに張る。
重くなったそれを用心して持ち、亘が戻ってきた時に右京は花束を抱えたまま丘の上からミニチュアの様に広がる首都の姿を見つめていた。
「右京さん。」
呼びかけて振り向く顔は・・・ほんの少しだけ涙が縁に浮かんでいるように眼鏡が輝いていた。
恐らく気のせいだろう。
そう思う事にして、直ぐ傍に手桶を下ろす。
「あんなにちっさい世界の中に、何十万人って人間が生きてるんですね。俺達も含めて。」
「そうですねぇ。僕達も含めて、生きているんですねぇ。」
丁寧に造形を壊さないよう注意して花束を拘束していたリボンを解く。
とても静かな場所で微かな衣擦れの音さえ聞こえてきた。
亘は支えたりする程度の手伝いをして、右京の作業を黙って見守る。
全部してやることは簡単だった。
しかし、これは彼自身の手でしなければいけない、そう感じたから。
「どうもありがとう。」
二つに別たれ、挟むように供えられた白い花々。
少し標高がある分、下界よりも風が強くパタリパタリと強く揺れる。
蝋燭に火を付けるマッチも消えてしまいそうだった。
手で避けて上手く灯し、数本の線香に移してようやく準備が全て終了した。
静かに手を合わせて、首を垂れる。
亘が顔を上げた時、前に居た右京はまだ動かぬままだった。
静かに後ろへ下がり、彼とそして【彼】の会話を邪魔しないように離れて見守ることにして。
どのくらい時間が過ぎていっただろうか?
右京が顔を上げ、うろっと視線で亘を探す仕草を繰り返す。
「右京さん、終わりましたか?」
振り向いたその表情はやはり・・・泣いているような気がした。
「ええ。」
でも、多分これも気のせい、だろう。
待つ間、聞くかどうかを考えていた。
弱みを見せる事はしない彼の事、答えてくれるとは限らない。
ただ・・・これが杉下右京の弱みになるだろうか?
亘の出した結論は【否】だった。
「毎年、ここに?」
「ええ、毎年。」
「今日がその日・・・ではないですよね?」
「ええ、今日は違います。」
「では?」
「・・・誕生日、なんです。」
「・・・へぇ?」
長い付き合いだとは聞いていた、しかし、誕生日を知っているとは思えない仲だと勝手に決めつけていた。
その疑問が亘の表情に一瞬、浮かんだようだ。
ふふふ・・・と静かに笑い、右京は両手を後ろに組んだ。
「別に僕がお尋ねしたわけではありませんよ。毎年、今日呼び出されていたので。」
「・・・はぁ?」
何の為に?そう訊き返す間もなく、右京の方が先に口を開く。
「『今日は僕の誕生日だから、僕が好きなものを食べても悪い事じゃないよね?』って仰って。御家族に甘いものと油ものとジャンクフードは健康によろしくないと止められていらっしゃったみたいですから、誕生日にこじつけて、お好きなものを食べてらっしゃった。それに毎年付き合わされていた、それだけの事です。・・・これでぼくに誕生日を覚えるなと言う方が無理があると思いませんか?」
理由として腑に落ちる内容ではあった。
とは言え、家族に隠れて好きなものを誰か誘って食べに行く、そういうことをするような人間には到底思えない人物。
面識が無いわけでもなかった、法務省時代に何度か見かけた程度ではあるが、彼の姿を目撃したことはある。
同じ部屋で会議に参加したことも。
実際に話をする彼の印象はどこか・・・そう、人間離れした、言い方は悪いが【化け物】そのものだった。
その男と対等に話し、時に味方、時に敵だった窓際の天才。
敵対していたことの方が多かったのではないだろうか?
「そう・・・ですね。忘れないでしょうね。」
「年に一度、ここに赴くことが僕の戒めなのです。」
亡くなってからもう随分経つ。
「何を思い出すんですか?」
「そうですねぇ・・・。」
重くなったそれを用心して持ち、亘が戻ってきた時に右京は花束を抱えたまま丘の上からミニチュアの様に広がる首都の姿を見つめていた。
「右京さん。」
呼びかけて振り向く顔は・・・ほんの少しだけ涙が縁に浮かんでいるように眼鏡が輝いていた。
恐らく気のせいだろう。
そう思う事にして、直ぐ傍に手桶を下ろす。
「あんなにちっさい世界の中に、何十万人って人間が生きてるんですね。俺達も含めて。」
「そうですねぇ。僕達も含めて、生きているんですねぇ。」
丁寧に造形を壊さないよう注意して花束を拘束していたリボンを解く。
とても静かな場所で微かな衣擦れの音さえ聞こえてきた。
亘は支えたりする程度の手伝いをして、右京の作業を黙って見守る。
全部してやることは簡単だった。
しかし、これは彼自身の手でしなければいけない、そう感じたから。
「どうもありがとう。」
二つに別たれ、挟むように供えられた白い花々。
少し標高がある分、下界よりも風が強くパタリパタリと強く揺れる。
蝋燭に火を付けるマッチも消えてしまいそうだった。
手で避けて上手く灯し、数本の線香に移してようやく準備が全て終了した。
静かに手を合わせて、首を垂れる。
亘が顔を上げた時、前に居た右京はまだ動かぬままだった。
静かに後ろへ下がり、彼とそして【彼】の会話を邪魔しないように離れて見守ることにして。
どのくらい時間が過ぎていっただろうか?
右京が顔を上げ、うろっと視線で亘を探す仕草を繰り返す。
「右京さん、終わりましたか?」
振り向いたその表情はやはり・・・泣いているような気がした。
「ええ。」
でも、多分これも気のせい、だろう。
待つ間、聞くかどうかを考えていた。
弱みを見せる事はしない彼の事、答えてくれるとは限らない。
ただ・・・これが杉下右京の弱みになるだろうか?
亘の出した結論は【否】だった。
「毎年、ここに?」
「ええ、毎年。」
「今日がその日・・・ではないですよね?」
「ええ、今日は違います。」
「では?」
「・・・誕生日、なんです。」
「・・・へぇ?」
長い付き合いだとは聞いていた、しかし、誕生日を知っているとは思えない仲だと勝手に決めつけていた。
その疑問が亘の表情に一瞬、浮かんだようだ。
ふふふ・・・と静かに笑い、右京は両手を後ろに組んだ。
「別に僕がお尋ねしたわけではありませんよ。毎年、今日呼び出されていたので。」
「・・・はぁ?」
何の為に?そう訊き返す間もなく、右京の方が先に口を開く。
「『今日は僕の誕生日だから、僕が好きなものを食べても悪い事じゃないよね?』って仰って。御家族に甘いものと油ものとジャンクフードは健康によろしくないと止められていらっしゃったみたいですから、誕生日にこじつけて、お好きなものを食べてらっしゃった。それに毎年付き合わされていた、それだけの事です。・・・これでぼくに誕生日を覚えるなと言う方が無理があると思いませんか?」
理由として腑に落ちる内容ではあった。
とは言え、家族に隠れて好きなものを誰か誘って食べに行く、そういうことをするような人間には到底思えない人物。
面識が無いわけでもなかった、法務省時代に何度か見かけた程度ではあるが、彼の姿を目撃したことはある。
同じ部屋で会議に参加したことも。
実際に話をする彼の印象はどこか・・・そう、人間離れした、言い方は悪いが【化け物】そのものだった。
その男と対等に話し、時に味方、時に敵だった窓際の天才。
敵対していたことの方が多かったのではないだろうか?
「そう・・・ですね。忘れないでしょうね。」
「年に一度、ここに赴くことが僕の戒めなのです。」
亡くなってからもう随分経つ。
「何を思い出すんですか?」
「そうですねぇ・・・。」
『杉下右京、お前を交渉人の任から外す。』
人命より大義を取った男。
作戦【失敗】後に、全責任を押し付けてきた時の官僚そのものの無感情に投げつけられた視線。
時を経て、何事も無かったかのように再び手中に収めようとした時の薄ら笑い。
『お前の願い事なら大抵は聞くよ』嘯いて目で訴える。
聞かないよ、と暗に伝える。
聞かないよ、と暗に伝える。
『そろそろ融通が利く特命係になって下さい』誰がそうさせたのか、どの口がそれを言うのか。
『人は忘れる生き物だからね。』
一つ一つ、ゆっくりと。
思い出しては消えていく。
いつもあるのは飄々として微笑む、一見優し気で緩やかな口調。
毎回同じことを思い出すわけではなく、様々ではあるが最後の記憶は決まっていた。
いつもあるのは飄々として微笑む、一見優し気で緩やかな口調。
毎回同じことを思い出すわけではなく、様々ではあるが最後の記憶は決まっていた。
『まさか、絶対的な正義がこの世にあると、思ってる?』
決定的に2人の生きる世界に亀裂が入り、修復が不可能になった瞬間。
右京は唇を噛み締める。
反論できない、というわけではなく、ともすれば爆発しそうな怒りを押し殺すのが精一杯だった。
反論できない、というわけではなく、ともすれば爆発しそうな怒りを押し殺すのが精一杯だった。
『もう、良いよね?車、待たせてあるから。・・・もう良いよね?』
議論はこれ以上は無駄。
平行線を辿るだけで一切交わる気配がない。
これから先。
事実、2人が交わる事は無かった。
この次の瞬間から、永久(とわ)に。
これから先。
事実、2人が交わる事は無かった。
この次の瞬間から、永久(とわ)に。
押し殺さずに、口を開けば運命は変わっていたのだろうか?
言葉を続けて、どのみち2人の関係が壊れる結果になったとしても、【あの結末】から逃れる術になっていたのだろうか?
もしも、
そうだったら、
こうしていれば、
怒声も叫びも悲鳴も聞こえない。
冷たく凍り付いていく手を握り、徐々に重みを増す身体を抱きしめて、右京にしか聞こえなかった最期の言葉を人生の締めくくりとし、その男は人間稼業にあっさりと幕を下ろした。
「色んな事を思い出します。」
とても一言では言い尽くせない過去、思いを胸にようやく口を開いたの確かだった。
「でも・・・僕は今でも信じられない、と感じる時があるんです。」
「生きていると?」
「ええ、短絡的に表現すればそういうことです。」
まさか幽霊・・・?意外とロマンチストな部分がある右京の事、それに出会いたいと願う彼の傍に居ればあの人の蒼白い・・・それこそ絵に描いたような【それ】に出くわす事があるかもしれない。
想像だけで足が竦む。
「違いますよ。別にあの方の幽霊に会いたいと思っているわけではありません。如何に僕がそういった類のモノに出会いたいと思ってるにしてもそれだけは御免ですよ。」
「・・・安心しました。」
ともすれば何らかの儀式で呼び出しかねない、そこまで一瞬にして心配していた亘はほっと胸を撫でおろした。
「ただ、どうしてもあの方の魂は誰かの中に宿り、あの方の意志は何処かに引き継がれ、絶大な力を未だに残したまま、結局・・・思惑通りに事が運んでいる、そんな気がするのです。」
思い当たる節があり過ぎて、亘は頷くのを躊躇った。
肯定してしまったら、本当にそうなってしまいそうな気がして。
実際にそうなっていると右京ですら感じている。
気味が悪い、彼の名前を不意に聞くたびに、死してなお存在そのものが特命係の前で城塞として立ちはだかり悔しさに歯噛みするたびに、何もかもお見通しと笑うあの目を思い出す。
「右京さんは、この人のこと、嫌いですか?」
勝手に出てきた質問を自分で耳にして、亘は少々恥ずかしくなった。
小学生のような・・・今どきの子供でも訊かないような馬鹿げたものだと、後悔してしまう。
「あ、右京さん冗談で・・・。」
「嫌いじゃありませんでしたよ。それは、間違いない。好きか嫌いか、と二者択一の質問であれば、の話です。本当は・・・実に複雑です。好き嫌い、尊敬と軽蔑・・・簡単には答えが出ません。それは・・・小野田官房長がお亡くなりになられてから先、時間が経てば経つほど、複雑な思いとなっているような気がしています。」
右京の視線は墓石に向かって僅かに上を、生前の彼・・・小野田の視線と同じ高さの位置で止まっていた。
再び無言の会話を始めたらしい彼らを邪魔する理由はない。
先に駐車場で待つことを勝手に決めた亘が、来た通路に目を向けたそこに。
「・・・?!」
声なき悲鳴が塊となって喉仏付近で引っ掛かり、笛のような息を鳴らして一歩後ずさる。
それを追いかけてそこにいた存在も一歩、前に出た。
砂利を踏み締める音がその行動に重なる。
現実味を帯びた足音、それに続けて発した声が、亘の咄嗟に浮かんだありえない錯覚を打ち消した。
「・・・もう、スペースが空いていないようですね。」
若い男の声が右京の耳にも届き、ゆっくりと振り向いたところで。
「僕たちはもう済みましたから。・・・まだ若干の余裕がありますよ。こうすれば。」
そんなことありえない。
怖がりにも程があると苦笑いを浮かべつつ、目の前を通り過ぎて行った彼の姿を追った。
右京は右京で、自分が持ってきた墓花を強引に押し退けて、若者が持ってきた分をこれもまた強引に突っ込んだ。
「入りましたよ。」
思いもかけず重複した白い花々で、殺風景だった墓前は一転して豪華に明るくなる。
「毎年、毎回どうしようと思っていたのですが、来年からは強引に入れることにします。」
同じく蝋燭を灯し線香を立てて手を合わせた彼を、何故か右京は待っていた。
年の頃は十代後半、高校生ぐらいだろうか?
全体的に腕も足も指も背も長く、白くひょろんとしたした印象を持つ。
柳のようにふわりふわりと風に任せて揺れ動きそうに見える。
なのに何故だろう?この眼光に逆らったら二度と明るい日の目を見ることができないような気がする。
例えるならば、猛禽類。
そんな印象を持たれているとは気付いている筈もない若者は、しばらく手を合わせジ・・・と墓石の下の扉から視線を動かさない。
数分間。
風もない【無】の時間が流れていく。
破ったのは若者だった。
「杉下右京・・・警部、ですよね?」
「ええ、杉下です。」
尋ねると言うより確認に近い物言いは、とても落ち着いた声色だった。
「生前は・・・祖父が大変お世話になりました。」
これで全ての合点がいった。
亘が錯覚したのも納得できる。
「そうですか・・・大きくなられたのですね。」
「え・・・右京さん、知ってたんですか?」
「いえ、お話だけ一度、聞いた事がありまして。その時は確か・・・幼稚園だったと記憶しています。」
【どんなお話】なのか。
右京と小野田の間で単純な孫自慢がなされたとは到底思えない。
物騒な話になりそうだと亘はそれ以上は今のところ聞かずに流すことを決めた。
「僕はよく、祖父から貴方の事を聞いていました。どんな人なのか、どんな事をしたのか、どんな事をさせたのか・・・とか。」
「・・・守秘義務を気軽に無視される方ですねぇ。」
責めるつもりは一切ないが柔らかな苦い微笑みを浮かべて右京は若者を見上げた。
祖父に似て背は高く、既に右京より頭一つ大きい。
「いつかお会いできれば、と思っていました。毎年僕が此処に来る前に花が供えてあったので・・・きっと杉下さんなのだろうと考えていましたけれど、いつもすれ違いで。今年は少し早めに来てみて良かったです。」
「僕に会って・・・官房長の仰ってた印象と何か変わりましたか?」
「いいえ、一目見て分かりました。祖父が話していた通りの人でした。」
ゆっくりと綺麗に上がる口の両端は完璧な三日月の微笑みを描いた彼の雰囲気は、紛うことなく怪物の血統を受け継いでいた。
「・・・まさか、ただ僕を見てみたかった、という理由で今日、待っていたわけではありませんよねぇ?」
「待っていた・・・と、何故そう思われたのですか?」
動じず右京の【推理】を訊く横顔は特に、小野田の生き写しに見える。
「・・・花の切り口を包んでいた脱脂綿が、今到着したという割には乾き過ぎていたので、もしやと。」
「祖父の言う通りですね。とても細かい事に気が付くから無駄に損をする人だと。」
「余計な事しか仰ってなかったようですねぇ・・・あの方は。・・・ところで、僕に何の御用でしょう?」
後ろに手を組んで、いつものポーズを決めた右京は回りくどいことは抜きにして単刀直入に若者の目的を尋ねる。
「ずっとずっと・・・知りたくて、貴方の口から本当の事を聞きたくて、待っていました。」
「僕が嘘の話を言うかもしれない、という可能性もありますけれど?」
「祖父は決して僕に嘘を吐かなかった。その祖父が杉下さんは決して嘘を吐く様な人間ではない、と言ってました。だから僕にとって貴方が語ることを疑う理由がありません。」
猛禽類の瞳までもが細く弧を描いて【笑顔】を貼り付けた。
間違いなく右京を捕らえる為に照準を合わせた猛獣だ、対する右京の表情の方に亘は興味がある。
無論、彼も動じるわけがない。
「聞きたい事、とは?」
「・・・祖父は、【あの瞬間、貴方に何を言い残したのか?】」
心臓がたった一回、されど一回、全身の血流を一気に引いて一気に押し出した、そんな大袈裟な音が神経を伝って亘の鼓膜を震わせる。
目の前で立つ相棒が発した音では決してない。
亘自身が鳴らした鼓動。
事件は知っている。
前代未聞の警視庁籠城事件は、真相の一切合切を小野田公顕の棺桶に詰め込んで消滅させてしまった。
事件そのものと何も関係ないところで【殺された】男の骨と一緒に・・・恐らく目の前の墓の中。
真相を生きた人間で知っているのは数少ない。
杉下右京、そして2代目の相棒だった神戸尊もその中に入っている。
ふぅ・・・と思いのほか大きなため息をついて、右京は口を開いた。
「貴方の質問の前に、何故そのように思い至ったのかを教えて下さいませんか?」
「それに答えるとでも?」
「僕を納得させる為のそれ相応の理由を貴方も述べるべきだと思いますけどねぇ・・・特に、その事を尋ねたいのであれば。」
チラリと猛禽類の瞳は亘の存在を一度だけ気にした。
『聞かせても良いのか?』と暗に問いかける。
「俺はそれを聞いたところで右京さんへの目を変えたりしませんよ。勿論、右京さんが聞いてほしくない、と言うのであれば席を外します。」
「いえ、聞いてくれても構いません、寧ろ・・・聞いておいてくれた方が良いのかもしれません、冠城君は僕の相棒ですから。」
背中を打つ追い風が若者を、スーツの裾を翻す向かい風が特命係の2人を、息つく暇なく吹き抜け続ける。
どちらの耳にもびょうびょうと獣の唸り声のような咆哮を聞かせていた。
「祖父が死んだ・・・と言う事実を聞いたのは、それから数時間経ってからでした。まだ幼かった僕には家族は全員やんわりと遠回しに教えてくれたのですが、でも僕はその時、直ぐに分かりました。祖父は・・・【殺された】のだと。そしてその犯人は。」
淡々と語る彼が言葉を切り今まで微笑みを描いた口端を更に、上げた。
「杉下さん、貴方だと思いました。」
「・・・根拠をお聞かせ願えますか?」
「祖父が僕に言ったことがありました。杉下さんと祖父の話は何度も聞かされて何度も同じ話を聞いた事があったのに、これに関してはたった一度だけ。一回きりの話。だから・・・逆に残っていたのかもしれません。祖父は小さかった僕を膝に乗せて、顔も見せずにこう言いました。『覚えておかなくても良いけれど、じいじの事を殺しても良い人間が、今この世にたった一人だけいるんですよ。じいじはその男にだったら殺されても恨みはしないし、お前もじいじが殺されたとしても相手がその男だったら、復讐しないで下さいね。』と。その時初めて杉下さんの名前を聞きました。だから・・・貴方に殺されたものと、思いました。勿論、直ぐに違うと分かりましたが、祖父が・・・殺されたのは事実、そして犯人は杉下さんではない、僕の中の疑問を解消する為に残された祖父の遺品を調べ、何点か分かった事がありました。祖父は何か大きなことをしようとしていた事、それには多大なる犠牲が必要だった事、その志半ばにして命を断たれたという事を。対立することが多かったとは言え、杉下さんが祖父の命を奪う・・・調べれば調べる程それは有り得ないと確信しました。そして僕は決めたんです・・・・・。杉下さん、貴方は【あの現場】にいらっしゃったんですよね?」
まるで彼自身から暴風が発生しているかのようだった。
彼の言葉が抜身の刃で一直線に右京へと突き刺さる。
物言いは変わらず柔らかな割に、その強さは若さゆえか、祖父である男とはまた違う威圧感を持っていた。
「僕が、官房長の最期を看取りました。」
「僕は僕が選ぼうとしている道を確固たるものにする為に・・・杉下さんの口から聞きたい。祖父は【あの瞬間、貴方に何を言い残したのですか?】」
季節外れの旋風。
3人の周囲に壁の様に見る間にそり立つ。
右京の言葉はこの空間内にしか聞こえない。
静かだった。
低く、それでもはっきりと、亘の耳に。
右京の声であって・・・それは小野田の声として。
「でも・・・僕は今でも信じられない、と感じる時があるんです。」
「生きていると?」
「ええ、短絡的に表現すればそういうことです。」
まさか幽霊・・・?意外とロマンチストな部分がある右京の事、それに出会いたいと願う彼の傍に居ればあの人の蒼白い・・・それこそ絵に描いたような【それ】に出くわす事があるかもしれない。
想像だけで足が竦む。
「違いますよ。別にあの方の幽霊に会いたいと思っているわけではありません。如何に僕がそういった類のモノに出会いたいと思ってるにしてもそれだけは御免ですよ。」
「・・・安心しました。」
ともすれば何らかの儀式で呼び出しかねない、そこまで一瞬にして心配していた亘はほっと胸を撫でおろした。
「ただ、どうしてもあの方の魂は誰かの中に宿り、あの方の意志は何処かに引き継がれ、絶大な力を未だに残したまま、結局・・・思惑通りに事が運んでいる、そんな気がするのです。」
思い当たる節があり過ぎて、亘は頷くのを躊躇った。
肯定してしまったら、本当にそうなってしまいそうな気がして。
実際にそうなっていると右京ですら感じている。
気味が悪い、彼の名前を不意に聞くたびに、死してなお存在そのものが特命係の前で城塞として立ちはだかり悔しさに歯噛みするたびに、何もかもお見通しと笑うあの目を思い出す。
「右京さんは、この人のこと、嫌いですか?」
勝手に出てきた質問を自分で耳にして、亘は少々恥ずかしくなった。
小学生のような・・・今どきの子供でも訊かないような馬鹿げたものだと、後悔してしまう。
「あ、右京さん冗談で・・・。」
「嫌いじゃありませんでしたよ。それは、間違いない。好きか嫌いか、と二者択一の質問であれば、の話です。本当は・・・実に複雑です。好き嫌い、尊敬と軽蔑・・・簡単には答えが出ません。それは・・・小野田官房長がお亡くなりになられてから先、時間が経てば経つほど、複雑な思いとなっているような気がしています。」
右京の視線は墓石に向かって僅かに上を、生前の彼・・・小野田の視線と同じ高さの位置で止まっていた。
再び無言の会話を始めたらしい彼らを邪魔する理由はない。
先に駐車場で待つことを勝手に決めた亘が、来た通路に目を向けたそこに。
「・・・?!」
声なき悲鳴が塊となって喉仏付近で引っ掛かり、笛のような息を鳴らして一歩後ずさる。
それを追いかけてそこにいた存在も一歩、前に出た。
砂利を踏み締める音がその行動に重なる。
現実味を帯びた足音、それに続けて発した声が、亘の咄嗟に浮かんだありえない錯覚を打ち消した。
「・・・もう、スペースが空いていないようですね。」
若い男の声が右京の耳にも届き、ゆっくりと振り向いたところで。
「僕たちはもう済みましたから。・・・まだ若干の余裕がありますよ。こうすれば。」
そんなことありえない。
怖がりにも程があると苦笑いを浮かべつつ、目の前を通り過ぎて行った彼の姿を追った。
右京は右京で、自分が持ってきた墓花を強引に押し退けて、若者が持ってきた分をこれもまた強引に突っ込んだ。
「入りましたよ。」
思いもかけず重複した白い花々で、殺風景だった墓前は一転して豪華に明るくなる。
「毎年、毎回どうしようと思っていたのですが、来年からは強引に入れることにします。」
同じく蝋燭を灯し線香を立てて手を合わせた彼を、何故か右京は待っていた。
年の頃は十代後半、高校生ぐらいだろうか?
全体的に腕も足も指も背も長く、白くひょろんとしたした印象を持つ。
柳のようにふわりふわりと風に任せて揺れ動きそうに見える。
なのに何故だろう?この眼光に逆らったら二度と明るい日の目を見ることができないような気がする。
例えるならば、猛禽類。
そんな印象を持たれているとは気付いている筈もない若者は、しばらく手を合わせジ・・・と墓石の下の扉から視線を動かさない。
数分間。
風もない【無】の時間が流れていく。
破ったのは若者だった。
「杉下右京・・・警部、ですよね?」
「ええ、杉下です。」
尋ねると言うより確認に近い物言いは、とても落ち着いた声色だった。
「生前は・・・祖父が大変お世話になりました。」
これで全ての合点がいった。
亘が錯覚したのも納得できる。
「そうですか・・・大きくなられたのですね。」
「え・・・右京さん、知ってたんですか?」
「いえ、お話だけ一度、聞いた事がありまして。その時は確か・・・幼稚園だったと記憶しています。」
【どんなお話】なのか。
右京と小野田の間で単純な孫自慢がなされたとは到底思えない。
物騒な話になりそうだと亘はそれ以上は今のところ聞かずに流すことを決めた。
「僕はよく、祖父から貴方の事を聞いていました。どんな人なのか、どんな事をしたのか、どんな事をさせたのか・・・とか。」
「・・・守秘義務を気軽に無視される方ですねぇ。」
責めるつもりは一切ないが柔らかな苦い微笑みを浮かべて右京は若者を見上げた。
祖父に似て背は高く、既に右京より頭一つ大きい。
「いつかお会いできれば、と思っていました。毎年僕が此処に来る前に花が供えてあったので・・・きっと杉下さんなのだろうと考えていましたけれど、いつもすれ違いで。今年は少し早めに来てみて良かったです。」
「僕に会って・・・官房長の仰ってた印象と何か変わりましたか?」
「いいえ、一目見て分かりました。祖父が話していた通りの人でした。」
ゆっくりと綺麗に上がる口の両端は完璧な三日月の微笑みを描いた彼の雰囲気は、紛うことなく怪物の血統を受け継いでいた。
「・・・まさか、ただ僕を見てみたかった、という理由で今日、待っていたわけではありませんよねぇ?」
「待っていた・・・と、何故そう思われたのですか?」
動じず右京の【推理】を訊く横顔は特に、小野田の生き写しに見える。
「・・・花の切り口を包んでいた脱脂綿が、今到着したという割には乾き過ぎていたので、もしやと。」
「祖父の言う通りですね。とても細かい事に気が付くから無駄に損をする人だと。」
「余計な事しか仰ってなかったようですねぇ・・・あの方は。・・・ところで、僕に何の御用でしょう?」
後ろに手を組んで、いつものポーズを決めた右京は回りくどいことは抜きにして単刀直入に若者の目的を尋ねる。
「ずっとずっと・・・知りたくて、貴方の口から本当の事を聞きたくて、待っていました。」
「僕が嘘の話を言うかもしれない、という可能性もありますけれど?」
「祖父は決して僕に嘘を吐かなかった。その祖父が杉下さんは決して嘘を吐く様な人間ではない、と言ってました。だから僕にとって貴方が語ることを疑う理由がありません。」
猛禽類の瞳までもが細く弧を描いて【笑顔】を貼り付けた。
間違いなく右京を捕らえる為に照準を合わせた猛獣だ、対する右京の表情の方に亘は興味がある。
無論、彼も動じるわけがない。
「聞きたい事、とは?」
「・・・祖父は、【あの瞬間、貴方に何を言い残したのか?】」
心臓がたった一回、されど一回、全身の血流を一気に引いて一気に押し出した、そんな大袈裟な音が神経を伝って亘の鼓膜を震わせる。
目の前で立つ相棒が発した音では決してない。
亘自身が鳴らした鼓動。
事件は知っている。
前代未聞の警視庁籠城事件は、真相の一切合切を小野田公顕の棺桶に詰め込んで消滅させてしまった。
事件そのものと何も関係ないところで【殺された】男の骨と一緒に・・・恐らく目の前の墓の中。
真相を生きた人間で知っているのは数少ない。
杉下右京、そして2代目の相棒だった神戸尊もその中に入っている。
ふぅ・・・と思いのほか大きなため息をついて、右京は口を開いた。
「貴方の質問の前に、何故そのように思い至ったのかを教えて下さいませんか?」
「それに答えるとでも?」
「僕を納得させる為のそれ相応の理由を貴方も述べるべきだと思いますけどねぇ・・・特に、その事を尋ねたいのであれば。」
チラリと猛禽類の瞳は亘の存在を一度だけ気にした。
『聞かせても良いのか?』と暗に問いかける。
「俺はそれを聞いたところで右京さんへの目を変えたりしませんよ。勿論、右京さんが聞いてほしくない、と言うのであれば席を外します。」
「いえ、聞いてくれても構いません、寧ろ・・・聞いておいてくれた方が良いのかもしれません、冠城君は僕の相棒ですから。」
背中を打つ追い風が若者を、スーツの裾を翻す向かい風が特命係の2人を、息つく暇なく吹き抜け続ける。
どちらの耳にもびょうびょうと獣の唸り声のような咆哮を聞かせていた。
「祖父が死んだ・・・と言う事実を聞いたのは、それから数時間経ってからでした。まだ幼かった僕には家族は全員やんわりと遠回しに教えてくれたのですが、でも僕はその時、直ぐに分かりました。祖父は・・・【殺された】のだと。そしてその犯人は。」
淡々と語る彼が言葉を切り今まで微笑みを描いた口端を更に、上げた。
「杉下さん、貴方だと思いました。」
「・・・根拠をお聞かせ願えますか?」
「祖父が僕に言ったことがありました。杉下さんと祖父の話は何度も聞かされて何度も同じ話を聞いた事があったのに、これに関してはたった一度だけ。一回きりの話。だから・・・逆に残っていたのかもしれません。祖父は小さかった僕を膝に乗せて、顔も見せずにこう言いました。『覚えておかなくても良いけれど、じいじの事を殺しても良い人間が、今この世にたった一人だけいるんですよ。じいじはその男にだったら殺されても恨みはしないし、お前もじいじが殺されたとしても相手がその男だったら、復讐しないで下さいね。』と。その時初めて杉下さんの名前を聞きました。だから・・・貴方に殺されたものと、思いました。勿論、直ぐに違うと分かりましたが、祖父が・・・殺されたのは事実、そして犯人は杉下さんではない、僕の中の疑問を解消する為に残された祖父の遺品を調べ、何点か分かった事がありました。祖父は何か大きなことをしようとしていた事、それには多大なる犠牲が必要だった事、その志半ばにして命を断たれたという事を。対立することが多かったとは言え、杉下さんが祖父の命を奪う・・・調べれば調べる程それは有り得ないと確信しました。そして僕は決めたんです・・・・・。杉下さん、貴方は【あの現場】にいらっしゃったんですよね?」
まるで彼自身から暴風が発生しているかのようだった。
彼の言葉が抜身の刃で一直線に右京へと突き刺さる。
物言いは変わらず柔らかな割に、その強さは若さゆえか、祖父である男とはまた違う威圧感を持っていた。
「僕が、官房長の最期を看取りました。」
「僕は僕が選ぼうとしている道を確固たるものにする為に・・・杉下さんの口から聞きたい。祖父は【あの瞬間、貴方に何を言い残したのですか?】」
季節外れの旋風。
3人の周囲に壁の様に見る間にそり立つ。
右京の言葉はこの空間内にしか聞こえない。
静かだった。
低く、それでもはっきりと、亘の耳に。
右京の声であって・・・それは小野田の声として。
「『おかしいね・・・殺されるのなら・・・お前にだと、思っていたのに・・・。』」
そして、笑ったのだ。
いつもの様に。
薄っすらと、でも明らかに小野田公顕は。
笑ったのだ。
最期に、杉下右京に向かって。
右京が絶叫する名も聞けぬまま。
暗闇の色を唯一染め上げた、鮮烈な紅色の血の海の中、動かぬ屍と変わり果てた。
右京の言葉を待って魔法に掛けられた風は再び3人の間で散り散りになり、最後の台詞も飲み込んで通り過ぎて行った。
「ありがとうございました。これで・・・僕も心が決まりました。」
「どうされるおつもりです?」
梅雨の晴れ間、まさしく今日この日と同じ、影を含んだ微笑みだった彼は初めて右京に本当の笑顔を見せた。
「僕は祖父がやり残したことを成そうと思います。まだあの人はやろうとしていた事の半分も成しえていなかった。だから僕がその後を継ぐ、それが僕に出来る祖父への最大の弔いかと。」
「小野田・・・官房著の成し得なかったこと・・・か。」
口にしてみて亘もふと浮かべた彼の一言に思い当たる。
途方もない計画が。
「・・・そうですか。」
『それも一つの方法かもしれませんねぇ。』右京の独り言が、心を決めた彼の耳に届いたかは分からない。
「決めるのにとても時間がかかりました。もうここにはしばらく来る事は無いと思います。次に祖父の前に立つ時は・・・きっと、貴方の前に対等に立つことが出来るようになってからでしょう。」
「その時には僕はもう、【警察(ここ)】には居ないと思いますよ。」
「いや、きっと僕は貴方の前に立つ。今、杉下さんがこの世にすら存在しない祖父の姿を見ているのと同じように、僕は貴方の姿を追いかけて追いつき、前に、立つ。それに・・・きっと貴方は僕の前に必ず立ちはだかるでしょうから。」
予言めいたそれは本当にこれから先の未来に実現しそうな力強さすら感じる。
「では・・・貴方のお名前を教えてくれませんか?」
「いえ、次に杉下さんの前に立つその時まで、名乗ることはしませんよ。今は貴方の足元にも及ばないただの・・・子供です。」
「どうされるおつもりです?」
梅雨の晴れ間、まさしく今日この日と同じ、影を含んだ微笑みだった彼は初めて右京に本当の笑顔を見せた。
「僕は祖父がやり残したことを成そうと思います。まだあの人はやろうとしていた事の半分も成しえていなかった。だから僕がその後を継ぐ、それが僕に出来る祖父への最大の弔いかと。」
「小野田・・・官房著の成し得なかったこと・・・か。」
口にしてみて亘もふと浮かべた彼の一言に思い当たる。
途方もない計画が。
「・・・そうですか。」
『それも一つの方法かもしれませんねぇ。』右京の独り言が、心を決めた彼の耳に届いたかは分からない。
「決めるのにとても時間がかかりました。もうここにはしばらく来る事は無いと思います。次に祖父の前に立つ時は・・・きっと、貴方の前に対等に立つことが出来るようになってからでしょう。」
「その時には僕はもう、【警察(ここ)】には居ないと思いますよ。」
「いや、きっと僕は貴方の前に立つ。今、杉下さんがこの世にすら存在しない祖父の姿を見ているのと同じように、僕は貴方の姿を追いかけて追いつき、前に、立つ。それに・・・きっと貴方は僕の前に必ず立ちはだかるでしょうから。」
予言めいたそれは本当にこれから先の未来に実現しそうな力強さすら感じる。
「では・・・貴方のお名前を教えてくれませんか?」
「いえ、次に杉下さんの前に立つその時まで、名乗ることはしませんよ。今は貴方の足元にも及ばないただの・・・子供です。」
『手強いよ。僕に似ないで。』
不意に聞こえた気がして、墓標を振り仰いだ。
「そのようですねぇ・・・。」
楽しそうに笑って言った右京に続いて亘も見つめる。
何も見えない、聞こえない、けれど何を言ったのか、分かったような気がした。
「ではその時まで楽しみは取っておくことにしましょうか。・・・ところで、まだ時間はありますか?」
「え?」
急に振られたものだから、若者の声がワントーン上がる。
「これから僕は官房長の誕生日ですのであの方がお好きだった甘いものでも食べに行こうと思っていたのですけれど、折角こうして出会ったのです、付き合いませんか?」
「・・・甘いもの?ですか?」
「ええ。生前、官房長は誕生日くらいは好きなものを食べると仰って僕も毎年お付き合いしていました。お亡くなりになられてからはその儀式はしていなかったのですけれど・・・それに、もう少し貴方のお話を聞きたくなりましてね。官房長の話ではなく、貴方の御爺様の話を。」
「おじいちゃ・・・あ、いや、祖父の・・・?」
言い直し慌てる彼の表情が一瞬にしてバツが悪そうに俯いてしまう姿が、やっと年相応のものになっていた。
「決まりましたね。では行きましょうか。」
「え、今ので決まったことになるんですか?・・・あ、ちょ、右京さん!!行こうって何処に?」
「プリンです。」
「はぁ?」
さっさと歩き始めた相棒が一度止まって、顔だけ振り向く。
「官房長が僕を誘った甘味はプリンが最多でした。ですからプリンです。場所は分かっていますから教えます。・・・行きますよ、冠城君それと、貴方も。」
「ぷ、プリンって・・・何で・・・?」
追いかけて、そして途中で若者の肩を叩いて促し、亘は尋ねてみるが右京は笑っているだけだった。
「さぁ?何故でしょうねぇ・・・。」
理由を語ってくれるかどうかは定かではないが、取り敢えず先を歩く右京の背中を追いかけた。
風は、追い風になった。
「そのようですねぇ・・・。」
楽しそうに笑って言った右京に続いて亘も見つめる。
何も見えない、聞こえない、けれど何を言ったのか、分かったような気がした。
「ではその時まで楽しみは取っておくことにしましょうか。・・・ところで、まだ時間はありますか?」
「え?」
急に振られたものだから、若者の声がワントーン上がる。
「これから僕は官房長の誕生日ですのであの方がお好きだった甘いものでも食べに行こうと思っていたのですけれど、折角こうして出会ったのです、付き合いませんか?」
「・・・甘いもの?ですか?」
「ええ。生前、官房長は誕生日くらいは好きなものを食べると仰って僕も毎年お付き合いしていました。お亡くなりになられてからはその儀式はしていなかったのですけれど・・・それに、もう少し貴方のお話を聞きたくなりましてね。官房長の話ではなく、貴方の御爺様の話を。」
「おじいちゃ・・・あ、いや、祖父の・・・?」
言い直し慌てる彼の表情が一瞬にしてバツが悪そうに俯いてしまう姿が、やっと年相応のものになっていた。
「決まりましたね。では行きましょうか。」
「え、今ので決まったことになるんですか?・・・あ、ちょ、右京さん!!行こうって何処に?」
「プリンです。」
「はぁ?」
さっさと歩き始めた相棒が一度止まって、顔だけ振り向く。
「官房長が僕を誘った甘味はプリンが最多でした。ですからプリンです。場所は分かっていますから教えます。・・・行きますよ、冠城君それと、貴方も。」
「ぷ、プリンって・・・何で・・・?」
追いかけて、そして途中で若者の肩を叩いて促し、亘は尋ねてみるが右京は笑っているだけだった。
「さぁ?何故でしょうねぇ・・・。」
理由を語ってくれるかどうかは定かではないが、取り敢えず先を歩く右京の背中を追いかけた。
風は、追い風になった。
『甘さをね、究極に突き詰めていくと、苦みを感じるでしょう?これも甘いものを煮詰めて苦みが出たギリギリのところで止める。・・・苦みか甘みか・・・引き立て役は一体どちらなんだろうねぇ?杉下、お前はどちらだと思う?』
Happy Birthday