2024年4月14日日曜日

574. 韓国の国政選挙の結果考察

尹政権が5年任期の3年目に突入するこの時期に、

任期4年の国会議員選挙が挙行されました。

結果、従前からのねじれ状態が更に深化しました。

韓国国民の現政権に対する認識がはっきりと表明さ

れたことで、日韓関係は今後また難しい局面に向か

うことは否めないでしょう。

今回の選挙で台風の目となった祖国革新党は、祖国

と同じ発音をする曺国氏がチョグク党として、ユン

政権打倒を旗印に、最大野党、共に民主党の李在明

代表のことをよく思わない人たちの心を掴み、ムン

ジェイン前大統領の支持基盤から、比例代表のみの

政党として立ち上げた政党です。選挙戦の後半に入

って一気に世論を巻き込んで、予定していた10名

から更に2名を追加当選させました。

そもそも文政権での法相時代に、次々と現れたスキ

ャンダルで玉ねぎ男と称された曺国氏が、当時検察

庁長官だった尹錫悦大統領とは深いご縁があるよう

で、スーパーでの特売ネギの価格コメントでマスコ

ミに叩かれ、野党のネギパフォーマンスによって、

投票時ネギ持ち込み禁止なる選管の発表が行われる

など進歩系運動家のペースにはめられた。

ネギと玉ねぎの選択で玉ねぎを選んだ消費者いや有

権者は、各地域でほぼ2択の小選挙区でどちらを選

ぶのかという極めて分かりやすい構図で野党を支持

した。国家革命党というある意味有名な政党があり

ますが、今回はその名称もうまく利用した祖国革新

党の勝利によって、国民の力の韓東勲氏の恐れてい

た犯罪者が牛耳る巨大野党集団が、尹政権を追い詰

めていく


ということになるのでしょうか。

2024年4月13日土曜日

573. どこから来たのかという話

NHKの古代史ミステリーを見ているとミステリー

という単語を使うことによって、あえてどのような

ルートを辿って、渡来人がやってきたのかという地

図表記の中で、敦賀湾上陸、愛発関越えのルートを

隠していた。意図的なのか、或いはまだ気づいてい

ないのか、まさにミステリーではあります。

古代の建築技術は、現代の社寺建築の専門家をして

も感嘆せしめる内容が備わっており、その技術の伝

承に日々努力されています。

甲良大工の伝統を継承する社寺建築の匠の紹介

社寺建築・設計施工 西澤工務店 (nishizawa-komuten.com)


2024年3月25日月曜日

572. 西明寺の2匹の黒猫

ドジャーズの大谷祥平の愛犬はデコピン君ですが、

滋賀県犬上郡甲良町池寺にある龍應山西明寺には、

空(クウ)と玄(クロ)という2匹の黒猫がいるそ

うで、あの有名な平凡社のweb太陽にも掲載され

たとのことです。

西明寺と言えば南から百済寺、金剛輪寺と並び湖東

三山の古刹として国宝の本堂と三重塔が有名ですが

中でも国宝第1号指定の本堂には飛鳥時代のものと

思われる仏画8体が柱に描かれており、また、当初

は高麗尺の3間で建てられ、その後5間、7間へと

増築されていたことが明らかになってきています。

これらの事実が韓国で知れ渡るようになれば、韓国

の歴史学者たちはこぞってこの地を訪れることにな

るでしょう。

先日のドジャーズとパドレスの開幕試合のあった韓

国を代表するの球場の名前を覚えていますか?

コチョク(고척/高尺)スカイドームです。

ソウル市九老区高尺の地名からとは言いますが、コ

チョクの意味は高句麗尺、即ち幻の長尺の意味で、

史跡を辿ると明らかにあるもののよくわからない尺

のことです。1尺の長さが35.6cm。この寸法は、

日本に於いても律令制度が整った後の時代にはあり

得ない寸法なのです。

黒猫に誘われて西明寺の不断桜も合わせて見に行き

ましょう。

2024年3月10日日曜日

571. 平成13年(2001年)天皇陛下の記者会見

会見年月日:平成13年12月18日

宮殿 石橋の間

記者会見をなさる天皇陛下
記者会見をなさる天皇陛下
(写真:宮内庁)

宮内記者会代表質問

問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年,日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。
天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。


当時の陛下のお言葉の中にある五経博士が阿自岐氏や王仁博士です。さらに桓武天皇の生母は高野新笠(たかのにいがさ)ですが、愛発関であったであろう深坂峠には、笠朝臣金村が愛発山越をしたみ越路の手向けに立ちて- と歌が詠まれています。

塩津山 打ち越え行けば 我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも

また、紫式部が父藤原為時と共に越えた塩津山という道のいと繁きを賤の男のあやしきさまどもて「なほからき道なりや」といふを聞きて- と

知りぬらむ 行き来にならす塩津山 世にふる道は からきものぞと 

と詠んでいます。からき道とは、漢、韓、加羅来道、つらい、辛い道、塩辛いの意味ですね。





2024年3月9日土曜日

570. 愛発関、不破関、鈴鹿関の三関とは

長浜教室のさざなみホールの図書館で、長浜みーな

という冊子が目に留まった。海と湖を結ぶ交通の要

衝という題材で愛発関(あらちのせき)について書

かれていた。敦賀市が5年かけて探したが遺構が見

つからなかったとのこと。大宝律令によって制度が

確立された三関(愛発関、不破関、鈴鹿関)は、い

ずれも近江から越前、美濃、伊勢に出入りする経路

を指します。特に愛発関は、新羅、高句麗からの渡

来人が来た道であり、余呉湖周辺に住んだ人たち、

琵琶湖の周囲に定住した人の中から逸材が都に馳せ

参じ、朝廷の難題解決者として遣隋使、遣唐使等と

して犬上御田鋤、小野妹子、近江毛野、物部荒甲等

が活躍した模様です。菅原道真もそのDNAを持つ

逸材として京都の公家の養子となっていった。

しかしながら、それらの人たちの活躍の場は行った

先の任地であることから地元の人はその偉業につい

て知らない。家康に認められて、日光東照宮や江戸

城天守、増上寺等を建てた棟梁の甲良宗廣は、京都

の吉田神社造営の功により豊後守の称を得たとあり

ます。筑後国の高良大社のお隣ということで豊後守

を名乗ったのでしょうか?こればかりは宗廣君に聞

かないと分かりません…


2024年3月8日金曜日

569. ユンソンニョル大統領の3.1演説

本年度も2月22日竹島の日、政府は島根県に閣僚

は送らず、内閣府政務官を派遣した。3月1日は、

韓国においては3.1節という国民の祝日で、植民地

時代の1919年の独立運動記念日です。

この日の声明において尹大統領は、昨年同様日関関

係の改善に前向きな発言のみとし、野党の反日を利

用した4月の国政選挙の戦略と対峙する姿勢を明確

にした。

与党国民の力の元代表イジュンソク氏と、ムンジェ

イン政権下の元首相イナギョン氏が合流して注目を

集めた改革新党は2週間で分裂して、保守と進歩の

2大政党に小さな衛星新党が出来て様々な思惑が飛

び交っています。朴正煕大統領の時代をどのように

評価するのか、歴史観が交錯する国民2分の選挙は、

4月10日が投開票日です。現在のねじれが解消でき

なければ、尹政権はますます難しい舵取りが予想さ

れます。



2024年2月23日金曜日

568. 古代史を紐解いて見えて来るもの

様々な時代的な恵沢により以前には知り得なかった
情報を容易く手に入れることができるようになりま
した。近江毛野(けな)と物部荒甲(あらかひ)。
この人たちはどこに住んでいたのだろうか?
古事記には物部荒甲とあるのに、敢えて物部麁鹿火
と書き、荒神山古墳や甲良氏の歴史を無視するかの
ような学者の姿勢には、愛想を尽かす思いでありま
す。特に物部荒甲は25代武烈天皇に仕え、継体天皇
を擁立したとか、大連として筑紫の国に赴き、任那
の割譲の件で百済、新羅と交渉し、磐井の乱を平定
し筑紫より以西を治めたという。
渡来人が持ち込んだ様々な技術や文物、その物の部
民が持ち込んだ文化が奈良の都に運ばれて行った。
神功皇后の三韓征伐のお話は伝説の域を脱せないが
神功皇后の父が息長宿祢で母が葛城高頼媛であるこ
とからも分かるように、近江の琵琶湖の北東地域に
住んでいた渡来系の人々が、筑紫の国に赴きその地
域を治めたことは高良大社が物語っている。
百済人阿自岐氏が新羅の案内を通じて日本海経由
で敦賀に降り立ち琵琶湖に入って、荒神山を目印に
犬上郡に入った。豊郷である。また、高句麗からの
渡来人も敦賀を経てやってきた。甲良氏である。
日本からの朝鮮半島へのルートは瀬戸内海経由が中
心。岡山県牛窓等の湊を経て出ていった。
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 
   潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな -額田王-
渡来系氏族を、西漢氏(かわちのあやうじ)河内、
東漢氏(やまとのあやうじ)大和と表現するのは、
元はと言えば神功皇后の子である応神天皇の時代に
琵琶湖に降り立った阿自岐氏が左京(湖東)に、阿
自岐氏が連れて来た王仁博士が右京(湖西)に本拠
をおいて文化を伝えたことからはじまる。



さて、ここからは現代のお話です。
以前は在日というと韓国・朝鮮の人が主流でしたが
その後、日系ブラジル人の方がたくさん入って来ら
れて、滋賀県ではその数が9251人(R5,12末)だ
そうです。そして近年はベトナムからの技能実習生
が多くなって9585人(同)と昨年、外国人の人口
トップになったそうです。2050年までには人口が
激減と言われていますが、その解消方法はこのよう
な定住外国人の方々とうまく共生して暮らしていく
しかないと思われます。言葉の壁もさることながら
様々な文化の違いを理解し合おうとする努力は互い
に必要となってきます。
ひとくくりに外国人と言って、日本人とそれ以外と
いうような認識をするのでは先が思いやられます。