文学の交差点(連載18)■王命婦を口説き落とした光源氏の〈力〉(美と光)

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載18)

清水正

■王命婦口説き落とした光源氏の〈力〉(美と光)

 王命婦をどのように見るか。巧妙でしたたかな一筋縄ではいかない女房と見るか。それとも藤壷を一番に考え仕える誠実な侍女と見るか。今までの見方によれば王命婦は後者のイメージが強かったように思える。桐壷帝に対する〈裏切り〉も、藤壷の光源氏に寄せる深い思いを忖度すれば許されるのではないかという見方である。しかしこの見方は余りにきれいごと過ぎるというのも否めない。

 帝の絶対的権威を考えれば、藤壷に光源氏を手引きすることの罪は計り知れない。一女房でしかない王命婦にとって光源氏を藤壷に手引きすることは、想像を絶するほどの大冒険であったはずである。にもかかわらず、なぜ王命婦はこのような危険なことを敢えて引き受けたのか。いろいろ考えられるが、まず言えることは光源氏の何か言いようのない力である。光源氏という男は何か彼自身にさえ明確でない妖しい力が生まれながらにして備わっている。この力が発揮されるとき、相手はその力に抗することがひできなくなってしまう。

 ふつうに考えれば、一女房でしかない王命婦が、帝の后藤壷に帝の息子光源氏を内密に手引きするなどということは百パーセント考えられないことである。このあり得ないことをあり得ることにしてしまう力が光源氏にはあったということである。光源氏の力とは何か。まず考えられることは〈美〉である。光源氏の〈美〉は〈光〉であり、ある種、人知を越えた〈力〉を発揮するのである。王命婦が保持していた女房としての健全な常識、分別を破壊する力を光源氏は備えていたと見るほかはない。 王命婦の手引きに隠された意味を考えていると、そこに女の力を感じざるを得ない。女にもさまざまな女がいるから一概には言えないにしても、女には男には到底理解しがたい、権威・権力に支配されない無垢と言えるような力が発揮されることがある。『源氏物語』の時代も千年後の今の時代も、大半の男は権威・権力の前に従順である。特に組織の中に生きる男は極力自分自身の意見を抑え込んで何事に関しても無難にやり過ごそうとしている。ところが女の場合は、こういった男たちとは違って腹を括って事に当たる者がいる。その一人が王命婦である。

 ふつうに考えれば、光源氏を藤壷に手引きするなどという大それたことをするはずはない。が、王命婦は同性の女としての藤壷の内心に深く感応してしまった。五つ年下の弟のような光源氏に男を感じてしまった藤壷の内心に感応した王命婦であるからこそ、後先を考えずに、男の論理に照らせば余りにも軽はずみな行動(手引き)に走ってしまったという事になる。謂わば藤壷も王命婦も〈今〉を生きる女であったということである。

 わたしが今まで批評してきた、阿部定アンナ・カレーニナ、オーレンカ(チェーホフ作『かわいい女』の主人公)は激しくせつなく〈今〉を生きた女たちであった。人間である限り、だれでも〈過去〉にこだわり、〈未来〉に様々な思いをたくすが、しかし何よりも〈今〉を優先する女たちがいる。もし王命婦が未来の発覚を恐れれば、光源氏を藤壷に手引きすることはあり得ない。否、も少し正確な言い方をすれば、王命婦光源氏の力によって未来の発覚の恐怖を抑え込まれてしまったのである。

 阿部定における石田吉三、アンナ・カレーニナにおけるヴロンスキー、オーレンカにおける結婚相手(彼女の場合、複数存在したがいずれもその都度唯一絶対的な存在と見なされる)のように、王命婦にとって光源氏は絶対的な男であり、ひとたび光源氏を受け入れればもはやその魅力の圏外へ逃げ出すことはできない。これは藤壷にとっても同じことである。

 桐壷帝の后である藤壷は、もちろん王命婦よりはるかに〈裏切り〉を重く受け止めている。にもかかわらず、藤壷は光源氏を受け入れてしまう。少なくとも描かれた限りでみれば二回は契りを結んでいる。要するに、光源氏という存在がなければ藤壷、王命婦女二人の帝に対する〈裏切り〉は成立しようがなかった。とすれば、藤壷、王命婦以上に光源氏の罪は重いということになる。