蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

値踏み

2020-08-04 | 無題
愚痴ります。
愚痴る気、満々!
でも、内容は身につまされるような、切迫したものでもない、生活に関係ない、ほとんどの人には全くぴくりともカスリもしないもの。
いつものごとく。

ある人、Aさん。
建築関係のお仕事。
仕事範囲は上物、建物だけでなく、土地も含む。
その人は、デベロッパー的な経験もあるから、あらゆる土地を熟知している。
土地名を言うと即座にその土地の評価が口から出る。

例えば、深いところでは、人の出自やルーツ。
いくら先祖代々、ファミリー・ヒストリーが紡がれようが、歴史ある地域であろうが、土地の値段を瞬時に、はじき出す。
「あ、そこね、安い土地です」

お稽古ごとの教室がある、レッスンスタジオも然り。
都心では家賃が高いので、少し離れた駅(それでも特急停車駅)にある教室を伝えると、
「あ、ガラの悪い場末ですね」
と、けんもほろろ。

芦屋などの高級ブランド地名にあるなら、知名度アップ、イメージアップで、良い教室と見なされる。
場末といっても、一般人にはピンと来ない。

ボロボロの赤提灯が哀しげにぶら下がっている、錆びたシャッター通りの一角にあるわけじゃなし。
昭和の、発展から取り残されたような、活気や栄光から置き去りにされた悲哀感に満ちた、いかにもの雰囲気でもない。
だが、Aさんの頭の中の土地鑑定データでは、最下位ランクが付けられる。
そんな場所にある教室など、夢を見るお稽古ごとには、見すぼらしいと言う。
レッスンの内容も先生も全く知らないで、ランクを最下位に位置づける。

わたしの出自ルーツの地に対しても同じような反応。
江戸時代の鎖国政策のせいもあるだろうけれど、何百年も人の動きがないため、土地や家の売買は長く行われていない。
城下町でもない限り、職業や住居移動の自由のない閉ざされた時代でもあり、あたりは田園風景が広がる。
そういう人々の暮らしの積み重ねがあり、住む人には思い入れを代々継いできた場所であっても、
「安い土地ですね」の一言でお終い。

Aさんの出自の地はもはや
他人の土地になり、別の用途で使われている。
都心なので土地値は高い。
が、とっくに自分たちの手を離れている。
「○○地跡」という表記もない。


人は、自分がいかに良いか、それをプライドの根源にして生きている。
「良い」内容は、人それぞれである。

昔、お殿様だったとか、お公家さま、武士、どこかの国の偉い人、、、具体的事実があれば、そんなことをプライドの元にする。

何十代も前は、○○。
延々と続き、今に至るのは素晴らしい。
しかし、今はどうなのか、にもよる。
江戸時代の徳川のお姫様の子孫がボロアパート四畳半暮らし、というのもある。

時代の狭間に、国外の王様、皇帝になったり。
その後、どうなったか。
戦争や動乱で、ひっくり返ることはよくあることだ。

ずーっと続いて、今もちゃんとした生活を営んでいることが大切。
ちゃんとした暮らしとは?
病気になって自宅に帰れない人もいる。
老人ホームに入る人もいる。
ホームレスの人もいる。

では、老人ホーム暮らしは、ちゃんとした暮らしなのか?

と、話がどんどん逸れている。
Aさんは、土地をここ100年の変遷で値踏みするのは、職業業柄、仕方ないというか、むしろ、業界仕事人としては優秀なのかも知れない。
今、お金がたっぷりあれば、それで良いと考える、幸せな人だ。
自分が幸せだと、ついつい、人のことを思い遣らない。
思い遣る必要がなければ、当然だ。

自分のプライドを守るためには、自分の幸せ基準に自分が到達していれば問題ない。
たぶん、人などどうでもよい。
それぐらい割り切らなければ、幸せにはなれないと思う。
みんな、自分の幸せは自分で築き、自分で噛み締めるものだ。
Aさんに、わたしの幸せを保障する義務はない。
それぞれが独自の幸せ観を持ち、維持していく。

だから、何?
Aさんに、「安い土地ですね」と一蹴されても、別にどおってことはない。
腹を立てたり、気分を悪くしたりする必要はない。
人は人。
お互いに大切なものはあり、キープしている。
人類愛だとか、自然愛だとか、そういうものは、共通だ。
だが、全てが共通ということは、あり得ない。
ほんの一部でも重なる価値観があれば、上等中の上等。

自分を認めると、人も認めることができる。
自分を認められないと、人も認められない。

自分だけに認められる優位性がプライドとなっている場合なら、自分のような優位性は世の中にはザラにゴロゴロあるとしたら、、、
人も似たり寄ったりだと、ちっとも特別な自分ではない。
普通。

いいじゃないか。
特別な自分でなくても。
普通で十分。
日本人は、人と違っていると居心地が悪い人が多いらしい。
単一民族だから。(と、最近は言い切れないようだが)

人より劣って目立つのは嫌、
人より優れて目立つのはウエルカム。
だが、教育現場では優れている場合でもイジメ対象になることがあるらしい。
恐ろしい世の中になったものだ。

と、話がまたまた逸れている。
さて、Aさんに、土地の価格だけで評価されると、かえって自分の考えや想いがムクムク湧いて出てきて、その気づかなかった意識を自覚する良い機会だ。
Aさんは、悪意を持って土地を評価しているのではない。
売買値段という側面から評価しているのだから、事実のうちのひとつである。
人間を評価する場合、年齢、性別、身長、体重、体力、運動能力、内臓機能、歯の状態、、、などで数値化することも出来る。
知能指数や頭脳、その他の能力も、測ることは可能。
こころの中は数値化しにくい。
宗教に関しては、かつては、踏み絵などで信仰心の無さを証明したりした。

たくさんある事実のうちの、一つの側面に対して、怒りや失望を感じるのは短絡的である。
いろんな側面があり、それらの側面の測り方にもいろんな方法がある。
一つだけをピックアップして、わーわー騒いでみても仕方ない。
ただ、そういう一面の事実もあると知ること、別にムキになって否定しても始まらない。

世の中の人の中には、どんな方面においても、「絶対にそんな事実はない、認めない、あり得ない」と言い切り、しかもヒステリックに全面否定する場合がある。
わたしの母は、そういう人だった。
一つの性質だとわたしは捉えている。
誰にでも、一つや二つ、病的側面はある。
ない人がいたら、発覚していない、無自覚なだけだろう。

「人生で、わたしは、一度も嘘をついたことがありません!」と言い切っている人のようなもの。
認識してないだけのこと。
周りの状態を把握できない、迷惑な困った人であることもある。
かといって整然と素知らぬ顔で嘘をつき通し、人を死に至らしめる政府のお偉方もいる。

歴史上では、嘘が本当になったり、事実が嘘になったり、人の思惑でころっと変わる。
ほんの今さっきの出来事でさえ。

摩訶不思議な魔界。
そんな世界で生きている、わたしたちは、多少の菌にも対抗できるよう、日々、鍛えておかなければならない。
そうやって、どんどん、純粋さは消滅していく。
何が純粋で何が正義で、、、なんて言い始めると、長くなって寝てしまいそうなので、本格的に昼寝に移ったほうが良さそうだ。

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