この七人は諸説があるが、そのひとりに数えられる茶人・古田織部は、
織部焼きなどに代表されるように、一つの造形の美を確立した人物でもある。
司馬遼太郎氏は、彼の作品を見ることによって
「ピカソと同じ前衛芸術を四百年前に感じた人物」と表現している。
この古田織部は、「初めは茶の湯が大嫌いであったが、
(摂津茨木城主の) 中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」
などと語ったという。
茶会記に初めて記録されているのが天正11年(1583年)、彼が40歳の時だという。
彼は、上述の如く、もともと茶の湯とは縁のない戦国武将として織田信長に仕えた。
その織田信長の亡き後は豊臣秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦いでは東軍に加わっている。
それにもかかわらず、大阪夏の陣と冬の陣では、豊臣に味方し、
大坂城が落城した後、切腹を命じられ、一言も釈明せずに自害したといわれる。
武将として名を馳せた古田重然と、茶人としての古田織部とは、
同一人物ながら、微妙な齟齬がある。
彼は利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行したとも伝えられている。
千利休が茶の湯の世界にもたらした静謐さ、
それに対峙するように動的で破調の美を確立させたとも言える。
織部焼
これなど織部焼きの持つ奔放さは、司馬氏の表現にあるように、
ピカソをイメージさせるものがある。
織部は利休が追放の憂き目を見ることになったときも、
秀吉を恐れることなく利休を見送り、
のちに大坂の陣では負け戦とわかっていても豊臣方について、生涯を終えた。
彼は、武将なのか?アーティストなのか?
アーティストは本来、武将のような不屈の魂を内包しているものなのかも知れない。
ピカソにも、そんな魂を感じることがある。
「変」と言われようが、アーティストには、固(かた)意地な「美学」がある。
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