我々は、自分のサイズ感を間違っているのである。
つまり、人間としての身体を自分だと思っていることが間違っている。
そうではないということは、インドの聖者らが言ってるらしいが、インドの聖者の言葉の日本語の翻訳は、おそろしく抽象的で、古くなったトーストのように食えない。
おそらく、インドの聖者の言葉が、翻訳される際、英訳する人(大抵は最初に英訳される)も和訳する人も、聖者の言葉の意味が全く分からず、それでも無理に翻訳したので、とんでもなく変な訳になっただけだろう。
だが、きっと、インドの聖者は、ごく単純な意味のことを言ったのだ。

我々は、周囲の空気と切り離されたら生きていられないのに、皮膚の外のものは自分ではないと思っている。
我々は、自分は「産み落とされた」存在だと思い込んでおり、自分は、生まれた途端に世界から孤立し、それからもずっと孤立していると思っているのだ。
お金がないなんて言っているが、社長が沢山持っているし、イーロン・マスクはザクザク持っているし、銀行や財務省にもいっぱいある。だが、それらのお金は自分のものじゃないと思っている。
泥棒に盗まれるなんて言うが、泥棒の家やカバンや、さらに、泥棒も込みで自分のものなのだから、盗まれるはずがない。

インドの聖者、ラマナ・マハルシの元に長く居た人が、ある時、マハルシにこう言った。
「食事をしている時、食べ物と皿と自分の区別がつかなくなり、誰が食べていて、誰が食べられているのか分からなくなった」
それを聞いたマハルシは喜んだ。
その者が、食べ物も皿も、自分と異なるものではないことが分かってきたからだ。

「初音ミクは俺の嫁」と言うが、そう言う者は大抵、「初音ミクはお前の嫁」であることも認めている。
これは尊いことだ。
昔のアメリカ映画で、こんなものがあった。
ある少年は、ある少女が好きだったが、その少女は、どこかのオッサンに妊娠させられてしまう。
それでも、少年は少女と結婚する気があったが、少女のお腹は大きくなるし、少女も後ろめたさからか少年に冷たい。
そこで、少年は、映画の主人公であるヒーロー的男性に相談する。
すると、その男性は、「いい方法がある」と言う。
それは、「(子供も)込みでもらうんだ」で、それを聞き、少年は気が晴れた。
ちなみに、少女に手を出したオッサンは、崖で転落死する(笑)。
ところで、アメリカの1930年代の西部劇『ローン・レンジャー』で、ローン・レンジャーという仮面のレンジャー(警官などの意)は、敬愛する兄を殺した悪党が崖から転落して死んだ時、インディアンの青年トントが「こんなやつ、死んで当然だ」と言うのを聞くと、「死んで当然のやつなんかいない」とトントをいさめた。アメリカに魂があった時代であった。

世界が、自分と異なるものではないことが分かれば、必要なものは向こうからやってくるらしい。多分、本当だ。
吸える空気が無限にあるように、イーロン・マスクのお金程度はもちろん私のものである(笑)。
皮膚の内側の血が自分のものであるなら、誰の許可も必要なくいくらでも吸える空気も自分のものだ。
厳密に言えば、空気を受け入れているからいくらでも吸えるように、世界にあるお金を受け入れればいくらでも手に入る。
受け入れるためにはどうすれば良いか。
簡単である。受け入れを拒否している自我を消せば良い・・・厳密には、出来るだけ希薄にすると良い。
その方法はいくらでもあるのに、ほとんどの人は十分にやらないのである。








  
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