クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

菊ヶ池 お菊の祠訪問 R- 3- 1-16

2021-01-17 19:48:20 | 伝説・史跡探訪
今日も高温予想、何時もの様にブラリと短時間の
低山巡りをしようと甘楽町に向かう。
目的地はお菊伝説のある「菊ヶ池」と「お菊の祠」。
お菊伝説は既に語りつくされているし、この
ブログでも何回も記述しているが再び記録。
「菊女蛇責」の事を記した「小幡伝説」の要旨を
引用する。「上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ
給ひけるが、或る時、この女信貞殿への御膳を据ゑ
けるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を取り
落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の
尽くる時か。信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せん
としたる曲者
なり。言語道断の奴、身を寸々に切り裂きても飽き
たらぬ)と下部共に申付けられ蛇を数多く取り集め
大なる桶に菊を裸にして押し
こめ、蓋の穴から蛇を入れ塞ぐ。蛇共中にて上になり
下になり?合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ
小柏源六という侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、
女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に立ち寄りて見てあれば
桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不憫に思い弓の
弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても
怨を致させ申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり。
さるによって小柏の家にては其の子孫今に至りて繁盛すーーと。
色々調べると伝説そのものとは言えないが似たような事件が
小幡氏の本拠地・国峰城で起きたと思える。その時期は
多分、1573年頃であり「小柏源六(一説に源介)は
実在の人物であるが1575年の長篠の闘いに武田旗下として
赤揃え軍団の一員として奮戦、戦死している。
一方の信貞は武田氏が1566年に箕輪城を落城させると
武田家臣として西上野衆を率いる立場となり、小幡の赤備え
軍団として三増峠の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦い
などに参戦、武田騎馬隊の主力として活躍した。しかし
武田家滅亡に伴い、小幡信貞は織田信長配下の森長可に降状、
滝川一益の支配下、そして本能寺の変後は後北条氏に属すが、
1590年小田原征伐に伴って国峰城も落城。
小田原に篭城していた信貞は旧友の真田昌幸を頼り信濃に
亡命、52歳で病死する。
尚、長篠での武田重臣戦没者の中に信貞の名があると
云われるが信貞弟の間違いと思う。

前置きが長すぎたが「城下町小幡」の表示を見ながら
街中を縦断し宝積寺前から林道に入る。
直ぐに東屋前、この東屋の脇から水越沢沿いに登山道が
ありこれから車で行く登山口近くで林道と合わさる。



この林道は厄介なことに1.8km地点から未舗装で
林道建設の土砂運搬や伐採材の搬出などで
大型車の往来が激しく道の傷みは酷く超低速
運転を強いられる。
途中で甘楽・田口まで繋がるとの噂のあった延長線も
閉鎖され草ぼうぼうで情けない姿。



未舗装を約1kmで天狗山方面の道が左に伸びる。



ここは直進でガタガタ道を下りながら進み再び
登りに転じてから目印の場所。
「右の路側に幅広の余裕、前面は右への大きな
カーブでその先にガードレール」の位置に到着。



良く見たら登山口の標識が錆だらけになって
路傍に転がっていた。



植林地に入ると直ぐに二股分岐、左は地形図上で
600m標高点のマークのある鷲翎山の北に到達して
乗り越して西に降りて林道に合流する道なので
この小山は帰路に登ることにして右の菊ヶ池直行の
コースを選択。


道は枯れた小枝がびっしり、多分人が通るのは
稀なんだろう。



地表には枝下ろしされた杉枝が堆積して踏む度に
跳ね上がるので誠にわずらわしい。



樹幹にこんな表示物、間もなくこの植林地も禿山か?



漸く暗い植林地を抜けて明るい雑木林。


最初の分岐は目印に従って左選択。


次の分岐も再び左。



林道は北に戻る様に軽い登りでずっとつづく。



やがて熊倉山からの稜線を目指して大きく右旋回。



この倒木の先に菊ヶ池の巨岩群が見えた。



近づくと見上げるような岩塊で圧倒される。



石造物はこの上だが正面からは無理。左に回り込んで
岩帯の隙間から岩上に。



観音像が一体。



側面を見ると「藤沢群黄刻」とある。これは高崎市内の
1845年創業の著名な石材店さんのもの。
お聞きしたところでは現在は八代目の直哉氏が
代表だか七代目の潤一郎氏は宝積寺のお菊関連を
手がけているがこの観音像は六代目の宏氏の作品。



近くに「空菊女乃霊位」と刻まれた供養塔。



崖上に石宮一基。



隣に仏像があるが頭部が損壊状態。



数年前にはこんな姿だった筈。



菊ヶ池を離れてお菊の祠に向かう。踏み跡を辿って
熊倉山からの尾根末端に向かう。



やがて尾根上に小さな祠が見えたが有名な割には
真に質素。



近寄るとこんな姿。何の飾りも表示物も無い。



内部の様子。



線香を供え神妙にお参りする爺イ。



お菊の無聊を慰めるため、今年のダルマ市で
仕入れたものをお土産に。


祠の裏手を見ると熊倉山への稜線がどっしりと。



冷たい風を避けて祠前で軽食を済ませて下山開始。
予定通り鷲翎山を西から眺めて登り方を検討.



いきなり頂上目指して直登もできそうだが
歳を考えて鞍部狙い。



尾根に着くと頂上は軽い登りで済みそう。



頂上にはオブジェの様な枯れ木があるだけ表示物無し。



北端に標石。頂部に(+)マークだが図根点かな?
側面の彫が全く読み取れないので分からない。



直ぐに下山して林道着。今日も無事故で過ごせた。



蛇足
宝積寺は、国峰城を拠点とした小幡氏の菩提寺であり
お菊事件の時、お菊の助命嘆願をしたと伝わる。
本堂の裏手の高台に、小幡氏累代の墓がありその傍らに
「菊女とその母の墓」が今なおある。

小柏源六さん、伝説に登場とは言うものの、れっきとした
歴史上の実在人物で上日野小柏の産。
その上に貴族の末裔だった。藤岡市史の人物編から引用すると
「小柏家は平重盛の嫡子・維盛の一子・維基を始祖として
この地の郷士となり鎌倉北条に属し、後に平井上杉に従い、
又甲州武田にも帰した。
維基から十八世の定政の嫡子は源六と称し父子共に武田の
武将で諸所の合戦に武功を顕したが天正三年1575遂に長篠役で
戦死した。」
後継の弟・定正は武田滅亡後に小幡氏と同じく北条騎下となり
秀吉の小田原攻めで敗北して郷士となる。
帰農郷士の道を選択した小柏家は吉井藩に組み入れられ、
日野谷上流の山林支配権を得て後々まで維持し「山元」として
の巨大な権力の座に座りつづける。
「小柏様のお通りならば蛇や百足も道あける」と謳われたほどで
御荷鉾山を含め3000町歩を支配したとはこの時代。
この権勢は明治まで続き、明治二十八年に生糸相場で
失敗して全てを横浜の豪商に乗っ取られるまで続いた」

もう一人の関係者小幡信貞さんは改名が多い。
関東管領山の内上杉氏の重臣として
活躍したが、1552年上杉氏の越後亡命後、武田信玄に通じた
ため長野業政(箕輪城主)に追われたときは小幡重定。
1561年信玄が国峰城を奪って復帰させてもらった時に信実。
以降、赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって
活躍したが信玄の病死後、信真と改め、1575年
長篠の戦には設楽原の決戦に武田騎馬中央隊として奮戦した。
1582年、勝頼惨殺で武田氏滅亡後、織田の滝川一益配下となり
信貞と改め、一益与力として戦い、本能寺の変以後に
神流川の合戦にも参加。更に以後に北条氏に属して信定と改める。
1590年小田原の役では信定は出陣し小田原籠城。敗戦後に
旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、52歳で病死する。

留守の国峰城は、子の小幡信秀が守ったが、前田利家率いる
北陸道軍分遣隊藤田信吉に落とされ城は廃され
小幡氏は滅亡する。




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