うちの子たちが通っていた小中学校は

 

「窓ぎわのトットちゃん」で

 

黒柳徹子さん(トットちゃん)が通われていた

 

小林宗作校長先生が作られた

 

トモエ学園のように

 

様々な生徒が通っている学校でした。

 

 

私立ではなく公立でしたが

 

病気を抱える様々な生徒が通っていて

 

個性に合わせた教育をしてくれました。

 

 

 

生徒たちはみんなとても個性的でした。

 

顔面に大きな特徴のある子

 

足に補助器具が付いていてゆっくり歩く子

 

車椅子の子

 

手足に力が常に入っている子

 

背がものすごく高いけど体が歪んでいる子

 

日々出来ないことが増えていく子

 

難しいパズルを一瞬でできるけど言葉を全く発さない子

 

咳がすごく出てしまう子

 

喋り方に特徴のある子

 

思うようにいかないと暴力を振るってしまう子

 

いじめなどで精神的に弱っている子

 

特殊な病気を持っている子

 

手術を繰り返している子

 

薬のせいで髪の毛も眉毛もない子…

 

 

隣接している病院内にも

 

学級があり

 

そことも深く交流がありました。

 

 

病院内の学級は

 

入院している子達の学級でしたが

 

行事などは一緒に行われていました。

 

 

呼吸器がつき寝たきりになっていて、

 

普段は集中治療室(ICU)にいる子には

 

ICUから出られた時にみんなで会いに行ったりしていました。

 

 

もちろんですが

 

この学校には

 

一般的に"普通"と言われる子はいませんでした。

 

 

お互いに弱みや傷を持っているから

 

人の傷はつっつかないし意地悪なことも言わない。

 

出来ないことを馬鹿にしないし仲間はずれにもしない。

 

病名を聞くこともないし強制的なことを言う先生もいない。

 

そういう学校でした。

 

 

この学校に行くことで

 

世の中にはいろんな人がいて

 

自分にできることをやって支え合い

 

お互いにフォローし合い生きていくということを学び

 

差別や偏見というものを持たない人間に育っていくことができたと思います。

 

 

大切な友達の死も経験して

 

生きたくても生きられない人がいることを学び

 

仲良くしていた友達のお葬式の参列もし

 

命の大切さ、尊さも学びました。

 

 

 

一太郎は中学校を卒業して16年?17年?たちます。

 

その時のクラスメイトのA君、

 

そのA君とは

 

お盆休みとお正月に必ず会ってプチ旅行したりしています。

 

 

A君は

 

一太郎が一番精神的に辛かった時を知っている友達で

 

今でも本当の自分を見せることのできる友達です。

 

小さな学校なので

 

A君は二姫のことも三太郎のこともよく知っています。

 

だから本当に私たち家族にも良くしてくれます。

 

私も

 

自分の息子のようにA君を感じています。

 

 

A君は病気も良くなり

 

現在東京で一人暮らしをして仕事に行き

 

立派に生活しています。

 

 

 

 

小さな特別支援学校という場所は

 

守られた温室のような場所で

 

考えようによっては

 

普通の小中学校で学べるような子供たちの関係や

 

いじめや社会の汚さやずるさとか競争心など

 

普通の小中学校でありがちな問題は一切なく

 

運動会などはなかったので

 

学べないことも確かにありました。

 

 

でも

 

普通の小学校や中学校生活がしんどかったうちの子たちには

 

この数年間は非常に大切な貴重な時間でした。

 

 

 

一太郎は

 

発達障害を理解されず

 

担任筆頭のクラスからのいじめにあい

 

精神的に壊れて不登校になって

 

それをきっかけに転校。

 

 

二姫は

 

発達障害だけでなく常に体調が悪く

 

いろんなことに繊細すぎていじめもあって転校。

(後に非常に珍しい病気を持っていることが判明)

 

 

三太郎は

 

発達障害だけでなく

 

難病を抱えていたことでみんなについていけず転校。

 

 

3人ともそれぞれ違う理由で

 

違うタイミングで

 

特別支援学校に転校したわけですが

 

大人や同学年への信頼がほぼゼロになっていたうちの子たちには

 

人間への信頼をとりもどすのに

 

非常に大切な時間だったと思います。

 

 

中には理解のない偏屈な先生もいましたが

 

本当に1人、2人の話で

 

基本的に教員の皆さんが本当に素晴らしかったです。

 

 

ただ1つ問題があった点は

 

通学に必ず保護者の送迎が必要であったこと。

 

 

私は疲労から三太郎が中学生の時に倒れ

 

送迎ができない時期がありました。

 

その間の1年弱、

 

私のせいで三太郎は学校に登校ができませんでした。

 

ちょっと偏屈な担任であったことと

 

目に見えない障害児にあまり理解のない校長だったことが大きく影響し、

 

学校に行きたくても「来るな」と言われる状況が起こりました。

 

 

校長に関しては

 

公立の場合は普通学校の経験しかない先生がまわってきたりするので

 

当たりハズレで学校の方針が変わる感じでした。

 

この校長がガンになりました💧

 

 

その間、特に宿題があるわけでもなく

 

単なる欠席として放置されていたので

 

この間、三太郎はチャレンジをやらせて学んでいました。

 

 

まぁ、それも校長が変わったら

 

「すぐにでも登校させてあげてください!」とのことで

 

電車とバスで登校することがすぐに許可されたのですが。

 

 

もちろん一人で電車バス通学する前に

 

保護者との練習登校が必須だったので

 

そこはお手伝いしてくださる方にお願いしました。

 

 

このタイミングで校長が変わったことは

 

運が良かったと思います。

 

登校できない期間が1年弱だけでよかった💦

 

 

 

病弱児の特別支援学校学校から高校受験をしたのですが

 

そこに関しても

 

特にリスクはなかったように思います。

 

〜つづく〜

 

 

 

 

 

前回のブログでも書いたのですが

 

 

うちの子たちの学歴や通学状況や

 

職歴をもう少し詳しく書きますね。

 

 

長男の一太郎(旧ベム):

小学校は普通校卒。

6年生2学期からは担任筆頭の学級全体のいじめにより不登校。

中学校は病弱児の特別支援学校(旧養護学校)。

途中入院のため別の特別支援学校に転校。

退院と共に元の特別支援学校に戻り卒業。

 

長女の二姫(旧ベラ):

小学校は5年生まで普通校。

でも1年生の時から行ったり行かなかったり。

5年生の途中で病弱児の特別支援学校(旧養護学校)に転校し卒業。

中学校は病弱児の特別支援学校卒業。

特別支援学校はほぼ休まず登校。

 

次男の三太郎(旧ベロ):

小学校は2年生まで普通校。

でも1年生の時から行ったり行かなかったり。

2年生の途中で病弱児の特別支援学校(旧養護学校)に転校し卒業。

中学校は病弱児の特別支援学校卒業。

でも途中母親の病気の都合で不登校(というか登校不可)

 

3人とも高校は通学形式の通信制高校。

 

通学は

 

週1でもよし

週に数日でもよし

毎日行ってもよし

 

という感じで選択できるスタイルでした。

 

 

そこから

 

3人とも普通大学を受験し入学、卒業。

 

3人とも普通大学院を受験し入学、卒業。

 

 

一太郎と三太郎は

 

みんなと同じように就職活動をして

 

発達障害児を専門にする仕事についています。

 

職場の誰にも

 

養護学校卒の経歴や発達障害であることを知られずに仕事をしています。

(就活には大抵最後の2つの学歴を書けば良いので)

 

むしろ優しくて

 

子供の心がわかり

 

的確なアドバイスのできる素晴らしい人と

 

信頼してもらっています。

 

 

娘の二姫は

 

病気の関係でフリーランスで仕事をしていましたが

 

現在は病気療養中です。

 

 

上の彼らの学歴を見ていただけるとわかるように

 

初めは普通の学校に入ったのだけれど

 

結果的にそれは難しくて良い結果を生まず

 

個人に合わせた指導をしてくださり

 

温室のような手厚い指導をしてくれる学校に転校し

 

通学時間を調整できる高校を通して徐々に社会に順応し

 

大学、大学院は普通に通うことができました。

 

 

大学の教授たちも

 

誰一人として

 

この子達に発達障害があると気が付きませんでした。

 

 

 

養護学校(今の特別支援学校)に入れるというのは

 

軽度の発達障害の親としては

 

なかなか勇気のいるものだと思います。

 

 

目に見えない障害を受け入れるのも難しいことですし

 

ましてや近所のみんなとは同じ学校に行かなくて

 

うちの場合は町内の子供会などへの参加もやめたので

 

正直、かなり世間体は良くなかったし

 

子供全員が養護学校というのは

 

かなり差別的な目で見られました。

 

 

でも

 

私はその学校の方が子供たちにあっていると思ったんです。

 

「自分の世間体より子供の心を大切にしなければ」

 

この気持ちで

 

どんな視線にも耐えました。

 

 

「子供達が笑顔でいてほしい」

 

「子供が自分自身を嫌いにならないでほしい」

 

「自分に自信を持つ子供でいてほしい」

 

それだけを願って

 

養護学校を選択しました。

 

 

でも結果的に

 

すごく良い選択になったと思っています。

 

 

 

今の彼らの人生を

 

私が計画して学校を選んで作りあげたとしたら

 

それはすごいことだと思いますが

 

そんなことは全くなくアセアセ

 

 

当時は

 

将来のことまでなんか全く考える余裕はありませんでした。

 

 

結果的に

 

たまたま選んだ学校が彼らにあっていて

 

何年もかけて

 

社会というものにある程度適応できるようになったんです。

 

 

 

 

彼らが行った特別支援学校は

 

病院に隣接している小さな学校でした。

 

 

人数も非常に少なく

 

1つ1つの教室も小さくて

 

 

3人が通った中で最大に人数が多くて1クラス6人。

 

 

三太郎の小学生時代は

 

三太郎たった1人のクラスでした。

 

 

でも一般の学校と同じように

 

朝礼があって、掃除があって、行事があって

 

実験をやって、料理を作って、修学旅行もあって、

 

人数が少ないからと

 

なあなあになることは一切ありませんでした。

 

 

三太郎の小学校の修学旅行なんて

 

先生と三太郎と校長先生とで

 

知らない人が見たら

 

ただの家族旅行泣き笑い

 

先生と一緒にホテルにお泊まりでした。

 

 

家庭科で出来上がった料理を食べる時は

 

手のあいている先生が来てくれて

 

生徒1人に先生3人とかで食べてました泣き笑い

 

本人が作ってみたいというメニューを作るので

 

ラーメンとか餃子とか

 

ケーキとか団子とかを調理実習で作るという状態泣き笑い

 

しかも先生も初めて作るという泣き笑い

 

 

本当にそれぞれの個性に寄り添ってくれる学校でした。

 

 

おかげさまで三太郎は料理好きになり

 

大好きな奥さんに日々お料理を作っています。

 

 

 

皆さんは

 

「窓ぎわのトットちゃん」を読まれたことはありますか?

 

私の子供たちが通った特別支援学校は

 

黒柳徹子さん(トットちゃん)が通われている

 

小林先生が作られたあの学校のように

 

様々な生徒が通っている学校でした。

 

 

〜つづきはこちら下差し

 

 

 

 

 

 

 

前回のブログで

 

うちの子は塾に行ってませんでしたって話を書いたのですが

 

 

発達障害の子って

 

興味のないことにはなかなか手が出なくて

 

宿題もしたくなかったり

 

受験勉強もしなかったり

 

なかなか悩みどころですアセアセ

 

 

そこで我が家ではどうやって勉強していたのか?

 

というのを今日は書いてみようと思います。

 

 

我が家はズバリ

 

一緒にやってましたメモ

 

基本これでした。

 

 

「勉強しなさいよ〜」

 

くらいでは絶対やらない子供達。

 

 

各自の部屋はありましたが

 

結局、結構大きくなるまでは一緒に寝ていたし

 

自分の部屋で寝るようになってからも

 

その部屋はあくまでも寝る部屋であって

 

勉強部屋ではありませんでした。

 

 

勉強は必ず居間で。

 

これが我が家では当たり前になっていました。

 

これは大学受験、大学院受験の時も同じ。

 

 

特に小学校のうちは

 

一緒に勉強をすることで

 

子供がどこが不得意なのか明確にわかりました。

 

で、不得意な部分は教えながら補いました。

 

 

うちの子たちは

 

長男の一太郎(旧ベム):

小学校は普通校卒。

中学校は病弱児の特別支援学校(旧養護学校)。

 

長女の二姫(旧ベラ)と次男の三太郎(旧ベロ):

小学校は途中まで普通校。

途中から病弱児の特別支援学校(旧養護学校)に通い卒業。

中学校も病弱児の特別支援学校。

 

3人とも高校は通学形式の通信制高校。

 

そこから

 

3人とも普通大学を受験し入学、卒業。

 

3人とも普通大学院を受験し入学、卒業。

 

 

みんなと同じように就職活動をして

 

普通の場所で普通の仕事につき

 

職場の誰にも養護学校卒の経歴や発達障害であることを知られずに

 

社会に馴染んでお給料をもらって

 

罵られることなく生きています。

 

 

その裏には

 

並々ならぬ彼らと家族の努力があったのですが

(今も継続しているものもありますが)

 

それは今は外には一切見えません。

 

これに関してはいつか書こうと思います。


 

 

話を戻しますねアセアセ

 

 

「一緒に居間で勉強する」

 

「苦手を補いながら学ばせる」というのは…

 

例えば、

 

作文の宿題とか日記の宿題とか。

 

今の時代はわからないのですが

 

昔は多かったですよね、そういう宿題。

 

特に週末とか長期休暇とか。

 

 

文章の苦手な一太郎と三太郎には

 

とっても苦痛な宿題です。

 

そして

 

「〇〇しました。たのしかったです」

 

だけで終わりがち泣き笑い

 

 

でもここが学びの大きなチャンス!

 

 

どこに行ったんだっけ?

 

誰と行ったんだっけ?

 

何で行ったんだっけ?

 

途中で何かあったっけ?

 

何の目的で行ったんだっけ?

 

何をしたんだっけ?

 

どんな感じだった?

 

どんな気持ちがした?

 

 

それを聞きながら

 

子供の回答を

 

「そうそう、〇〇だったね〜」と繰り返し親が口で言いながら

 

本人の前で本人に見えるように

 

本人の言葉をメモしていって

 

最後につなげて文章にしてあげる。

 

そしてそれを声を出して読み返してあげて

 

「ほら!素晴らしい作文ができたじゃん!すご〜いキラキラ

 

と褒めます。

 

 

要は

 

本人の言葉で作った文章を親が下書きしてあげるのです。

 

そしてそれを見ながら清書すればいい。

 

清書できたら本人に読ませます。

 

質問された時を想定して

 

文章を頭に叩き込ませるんです。

 

そして親が子供を激褒めしますキラキラ

 

 

これは親が書いた作文じゃないんです。

 

子供の言葉を繋げただけ。

 

インタビューした記事と同じ。

 

だから子供が書いた作文。

 

 

でも

 

宿題だと上手くいつも書いてくるのに

 

学校で文章が書けなくて

 

宿題を親がやっているって先生に思われることがあります。

 

そんなの全然問題ありません。

 

だって文字は本人が書いて提出しているだから。

 

それに

 

こうやって書かせたという説明をしたらいい。

 

本人にもそう自信を持たせたらいい。

 

そして

 

そのことに親も自信を持つこと。

   上差しここ、ポイントです。

 

 

この繰り返しを何年も続けたら

 

文章を自分でかけるようになります。必ず飛び出すハート

 

 

大学や就職の小論文も同じです。

 

何を問われているのかを忘れずに

 

最後に必ず「だから私は◯◯と思います」と

 

問の答えを書くように、

 

それだけは忘れないように教えました。

 

 

 

勉強部屋なんていらないんです。

 

だって自分の部屋で勉強する〜って言って

 

やってないことって多くないですか?

 

自分の部屋には大好きなものもあって

 

その部屋で発達障害の子に勉強しろって無理。

 

気が散って絶対無理。

 

どうやってやるかもわからないのに

 

一人でやれってますます無理。

 

 

時間割だって一緒にやったら忘れ物もない。

 

チャック表を作って

 

一緒に持ち物チェックをして

 

全部そろっていたらめっちゃ褒める黄色い花褒めまくるキラキラ

 

 

やってあげるんじゃなくて

 

一緒にやって

 

必ず褒める桜

 

 

そしたら自分でできることがどんどん増えます。

 

自信を持ちます。

 

学校でどんなに罵られたって

 

家族が褒め続ければ

 

自分を好きになりますガーベラ

 

 

自分を好きでいれば

 

自信を持っていれば

 

頑張ろうと思って

 

前に向かって進んでいけます。

 

 

 

長男の一太郎は

 

担任筆頭のいじめで本当に精神的病んでしまった時期があったけど

 

そこからの医師も驚く奇跡的な回復には

 

一太郎が自分を嫌いにならなかったことと

 

自分にはできることがあるという自信が

 

大きく影響しました。

 

 

精神的に壊れて

 

閉鎖病棟にまで入院したけれど

 

家族が彼を信じ続け

 

何があっても愛し続けたこと、

 

そして絶対に彼の回復を諦めなかったことが

 

すごく影響しました。

 

 

 

私は

 

自分の部屋は好きなもの、楽しいもので溢れさせてあげて

 

あくまでも寝る部屋とか遊ぶ部屋で良いと思って

 

育てました。

 

 

居間のテーブルは

 

食卓であって勉強机。

 

 

苦手なことや嫌いなことは一緒にやろう。

 

 

 

このスタンスが

 

私の子供達には良かったみたいです黄色い花