桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

新坂川残桜と花いかだ

2024年04月13日 16時39分10秒 | 風物詩

 新坂川の残桜を見に行きました。好天で暖かいせいもありましたが、近距離とはいえ、腰痛を抱える身で、買い物以外に出かけようという気になったのは久しぶりです。



 ソメイヨシノに較べると白っぽい山桜(?)。

 

 満開からほぼ一週間。桜はまだ見ごたえがありました。



 近くに寄ってみると、ほとんど葉桜でした。



 風に吹かれて舞い落ちる無数の花びらも、花いかだをつくるまでにはなかなかまとまらぬようで……。



 鳩も花いかだができるのを待っているようです。



 地面にはたくさんの花びらが落ちて、吹き溜まりができていましたが、流れる川に落ちてしまうと大した量ではないのでしょうか。



 近くのゆりのき通りではユリノキの芽吹きが始まっていました。

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2024年四月の薬師詣で・東京都練馬区

2024年04月08日 19時47分32秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では練馬区の石神井公園近くを歩きました。
 私が初めて所帯を持って住んだのはその石神井公園に近い上石神井というところ。石神井公園にはしょっちゅう行っていて、勝手知ったる我が庭同然……と油断をしていました。
 初めて所帯を持ったのはちょうど半世紀も前のことです。かつては地上にあった石神井公園の駅が高架になっている、ということをテレビで視たのか、知ってはいましたが、実際に降りてみると、様相がまったく変わっていました。高い建物はなく、見晴らしのよかった駅前はビルが建て込んでいて見晴らしが効かない。
 それでも公園がある方角はわかっているつもりで歩き始めましたが、公園から駅の間にはなかったはずの、区役所の分庁舎があり、石神井警察署があったりして、半世紀もの間があるのだから、移転してきたりしても不思議はないと歩いていましたが、スマートフォンの地図を見て間違った道を歩いていたことに気づきました。



 今日、最初に目指すのは道場寺ですが、途中に石神井公園があるので、花見をして行きます。

 

 休み明けの月曜日でしたが、結構な数の花見客がいました。

 

 石神井池に映える桜と池面を飾る花びら。



 道を間違えながらも、石神井公園駅から十六分で道場寺に着きました。いまから七百年以上も前の文中元年(1372年)に創建された曹洞宗のお寺です。
 当時の石神井城主だった豊島景村の養子・輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。



 我が宗派のお寺なので、慣例に従って歴住の墓所を参拝、香華を手向けたいと考えましたが、このような触れ書きがあったので、参拝することは断念。



 三重塔。



 隣に三宝寺(真言宗智山派)があるので、寄って行きます。
 ここは先の道場寺より古く、応永元年(1394年)、鎌倉・大楽寺の大徳権大僧都・幸尊法印が現在地周辺に創建しましたが、文明九年(1477年)、太田道灌によって現在地へ移転、



 三宝寺から十三分の禅定院は照光山無量寺といい、真言宗智山派の寺で、本尊は阿弥陀如来です。豊島八十八箇所霊場第七十番札所でもあります。
「新編武蔵風土記稿」はいまから約六百年前、願行上人によって開かれた寺であると伝えています。文政年間(1818年~30年)の火災で、建物・記録などことごとく焼失しました。



 禅定院から二十一分で、今日二つ目の目的地・観蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「宝蔵院 新義真言宗。上石神井村三宝寺門徒慈雲山ト号ス。本尊不動」と記されています。元々は三宝寺の塔頭寺院の一つとして建立されたもので、文明九年(1477年)、三宝寺が現在の場所へ移転した折、この地に移ったといわれています。



 今日四月八日は降誕会でもあります。本堂前には花御堂が設けられていました。



 観蔵院境内の桜。



 帰り途、名前につられて寄ってみました。石神井川に架かる、その名も薬師堂橋ですが、周辺に薬師堂を思わせるような建物はなく、掲示もないので、なぜこのような名がつけられたのかは不明です。



 薬師堂橋から眺めた石神井川の桜。



 帰りは石神井公園駅の一つ池袋寄り・練馬高野台駅から。

 この日、歩いたところ。

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花見

2024年04月07日 16時26分06秒 | 風物詩

 東京で桜が満開となったのは四日。我が地方はその手の報道がないので、いつ満開を迎えたのか知るすべがありませんが、気温でいうと、いつも東京よりちょっぴり低いことが多いので、一日遅れの五日ということにしておきましょうか。毎年のことながら、桜の季節は花曇りが多くて、気分も晴れません。
 ずっと曇りだった空、午後になると、陽射しが出たので、買い物ついでに、近くのさざんか公園の桜を愛でに行きました。




 カメラに収めてみると、あまりパッとしませんでしたが、数本ある桜の樹は満開でした。

 

 晴れたとはいっても雲が多く、陽射しの遮られることも多かったものの、こんな青空が拡がるとは思ってもみませんでした。



 スーパーでは缶酎ハイを買って帰りましたが、相手もいない独りでは意気も上がらず、花見酒とも行かず、虚しく持ち帰りました。

 

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2024年三月の薬師詣で・松戸市

2024年03月08日 20時43分25秒 | 薬師詣で

 三日前、今月五日時点での今日八日の天気予報は終日雨か雪。予定では練馬区を歩くつもりだった薬師詣ではどうしようか、と考えていたところ、六日になって、予報は午前中雨か雪に変わり、午後は晴。
 現実にほぼそのとおりになりました。
 行こうと考えていたのは、練馬区の石神井公園近くにある、道場寺と観蔵院という二つの寺。
 当日、天気を窺っていたら、予報どおり雪が雨に変わり、昼前に熄んだのはいいけれど、練馬区は東京二十三区内では一番気温の低いところです。無理を押して出かけ、シャーベット状になった残雪に足をとられてスッテンコロリンでは元も子もないと、まだ雪の消えなかった我が庭を眺めているうちに、午後二時近くになってしまいました。
 遠出は諦めて、かつての地元・慶林寺にお参りすることにしようと庵を出たら、道路は側溝のあたりを除いて、すっかり乾き切っていました。こんなことなら、と舌打ちしても後の祭り。舌打ちなんかした罰が当たったものか、二~三分歩いたところで、お賽銭用の小銭入れを持って出なかったことに気づいていったん戻り、やれやれと思いながら、また二~三分歩いたところで、今度はスイカを忘れていることに気づいてまた戻るという始末。薬師詣でのご利益に預かるどころか、すっかりケチがついてしまいました。



 そんなことで一駅だけ電車に乗って慶林寺に参拝。



 本堂にお賽銭をあげました。



 境内の白梅はそろそろ終わり。



 同じく境内の河津桜のほうは満開です。



 椿は落花盛ん。



 参道中ほどの河津桜。こちらも満開。



 参道入口の河津桜。満開の桜をバックに記念撮影する親子連れがいました。



 すでに落花が始まっていました。

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2024年二月の薬師詣で・杉並区~渋谷区

2024年02月08日 23時38分46秒 | 薬師詣で

 とくに理由はないのですが、ここ数か月の薬師詣では東京二十三区の西部を巡ろうと思います。手始めに杉並区から渋谷区にかけて。



 京王線の下高井戸駅で降りました。



 駅を出て甲州街道を渡るとすぐ曹洞宗龍泉寺の山門が見えたので、参拝して行きます。
 杉並区教育委員会の掲示によると、創建は慶長八年(1603年)、江戸麹町の地であった、
と伝えられています。寛永年中(1624年-43年)に、四ツ谷南寺町(現・新宿区須賀町)に移転、さらに明治四十二年、同地の区画整理にともない、現在地へ移転しました。



 墓所には残雪が多く見られましたが、南北の参拝路は雪が溶け、歴住の墓所はすぐ見つかったので、参拝できました。

 

 龍泉寺から今日最初の目的地・永昌寺はすぐ。
 杉並区教育委員会による境内の掲示によると、開創年代は不明ながら、「続御府内備考」と寺伝によると、寛永元年(1624年)、江戸四ツ谷塩町(現・新宿区愛住町)に建立された、とされています。
 明治四十三年には現在の下高井戸二丁目にあった永泉寺を合併しました。永泉寺には玉石薬師と呼ばれる玉石があり、そのいわれは、この玉石が玉川上水永泉寺附近工事の際に、光沢ある玉石として掘り出され、その光沢の中に薬師像が浮き出たことによるといわれます。
 昭和二十年五月の戦災で、玉石は本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、いまなお大切に安置されている、とのことです。

 この永昌寺も曹洞宗のお寺ですが、墓所の残雪が多く、足を滑らせては元も子もないと考えて、歴住の墓所を訪ねるのは諦めました。



 次に目指す永福寺への道すがら、本応寺があったので、お邪魔しました。浄土宗のお寺ですが、手に入れられる資料が何もないので、詳しいことはわかりません。



 本應寺から八分で曹洞宗永福寺に着きました。
 寺伝によれば、開創は大永二年(1522年)で、永福という地名も、永福町という京王井の頭線の駅名も、この寺名が元となっています。永福寺の名は永禄二年(1559年)に、北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見えるので、開創は寺伝の伝えるころに近いものと思われます。
 中興開基は幕府御馬預役加藤重勝という幕臣で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。



 例によって歴住の墓所に参拝。

 

 永福寺から京王井の頭線のガード、井ノ頭通りの高架下をくぐり、神田川を渡って歩くこと十五分、真言宗室生寺派の龍光寺に着きました。
 開創は承安二年(1172年)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応2年1493年寂)と伝えられています。
 龍光という寺号は、寺のすぐ下を流れる神田川の源・井の頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴を轟かせ、光を放って昇天したことに由来する、と伝えられています。
 


 本尊が薬師如来像であることを示す、本堂前の石塔です。
 この如来像は立像で、平安時代末期(十二世紀前半)に造立されたものです。江戸時代には難病にご利益のある薬師如来として信仰篤く、護摩の煙が絶えなかった、といわれています。



 龍光寺から明大前駅までは徒歩二十二分。ここから初台まで京王線に乗車します。



 初台駅。



 初台駅から八分で、この日最後の目的地・真言宗室生寺派荘厳寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、江戸大塚護国寺末光明山真言院と号す。開山宥悦、天文二年(1533年)五月十五日寂。本尊薬師」と記されています。



 本堂左後ろに薬師堂がありました。



 本尊薬師如来と記された木札。



 荘厳寺は薬師如来より不動明王で有名で、幡ヶ谷不動として知られています。
 先の「新編武蔵風土記稿」には「木佛立像長三尺三寸、智證大師作。縁起に云、智證大師三井寺開基の時、自此不動を彫刻して彼等の本尊とせしか、天慶二年(939年)平貞盛、藤原秀郷等平将門追討の時、秀郷此不動に新誓をこめ、陣中まで守り行て渇仰怠り無く、果して勝利を得たりしかは、凱陣の後下野国小山の郷に安置せり其後遥星霜を経て、永禄年中武田信玄甲州七覚山邉に移して崇敬せしを、北条氏政奪取て、相州筑井縣地勝院に納む、然るに天正十八年(1590年)北条氏没落の後、東照宮代々の武将崇敬ありし像なる事を聞し召れて、多磨郡宅部郡三光院に移し給ひ、延享四年(1747年)九月霊夢の告ありて当寺に安置すと云ふ」と記されています。

この日、歩いたところ(明大前から初台は電車利用)。

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