先日、ふと僕に対してパワハラを行っていた上司を思い出した。

もうずっと前の話で、業種も違う。

これ、なんかのメッセージなのかなと思う。
色々繋がりすぎて。

何かの犯罪について職場の人間と話していた時に、「タイツさん、『友罪』っていう小説読んでみたら?私読んでないけど」
と紹介され、購入。

そしてその本を買った際に目に留まったのが『ケーキを切れない非行少年たち』。
非行少年たちの脳内にある傾向をまとめた書物だ。
これも購入。

先述した上司を思い出したのはちょうどその頃。

その上司には嫌な記憶しかないが、僕の背筋を凍り付かせたのは僕への罵詈雑言でもなんでもない。
むしろ微笑ましいとも取れる何気ない場面だった。

出張を共にすることが多く、朝のラジオを聞くのが定例。
そのラジオのニュースで幼女への性的虐待があった。

彼は、「ロリコンってもねぇ、病気で仕方がない部分もあるんだよねぇ」とつぶやいた。
別に同意を求められてないし、僕の意見を聞いてきたわけでもない、独り言を言うべきか。

背筋が凍り付いたのはその週か月後。

その日もやはり車で移動していた時、右隣に幼稚園のバスが停まった。
運転する僕をまたいで、助手席に座った彼は前傾姿勢を取り、そのバスを見つめた。

僕が見たことのないような、厳格な彼からは想像もできない笑顔。
彼は引くほど満面の笑みで幼児を見つめていた…

普通ならば、「あぁ、子供が好きなんだ。優しい一面もあるのだな」と思うのだろう。

でも僕は彼から受ける叱責などから、空気の読めなさ、ニュアンスでの河合の不得手を感じており、ペドフィリアを感じずにはいられなかったのだ。

どうして空気読めない→ペドフィリアのように感じたのか。
これは勘でしかなかった。
そう「感じた」のだ。

その記憶も薄れ、急に思い出したところに、『ケーキを切れない非行少年』だ。

ザックリと述べると、認知の歪みによって起こる弊害。
人の感情を感じるのが不得手。
それゆえに感情のある人間に恐れのようなモノを感じている。
人間の発達段階で、8~9歳の壁というのがあるらしい。
この頃になると急に人間の理性やら感情やらが育つという。

ペドフィリアの定義というのは実に明確で、幼女に性的関心を持つこととされる。
しかし、この認知の歪みの点で行くと、それは肉体的な関心ではなく、むしろ精神的に8歳以下を対象とするものだと思う。

非行少年たちの中にはもちろん性的虐待を行って収容される者も居て、その対象はもっぱら8歳以下だという。
そして「8歳までしか関心を持てない」と口をそろえるとも。

この書物では、幼児の頃に適切な認識、教育、トレーニングが必要で、改善するという可能性も示している。

僕も強く感じたのが、一人っ子が増えている現代と、コミュニケーションの手段がスマホになったということ。

兄弟が居て、共に育つと色々な痛みを互いに知ることができる。
表情を見る能力が見につく。
しかし、一人っ子ではそれが行いにくい現状だ。

連絡はスマホで簡単で行える。
そこに表情やニュアンスなどは関係なく、文字間で意味さえ通れば成立する、純言語コミュニケーションということ。

感情豊かな人間と意思疎通をなかなか測れず、8歳以下へ関心がいくのではないか。

『有罪』のテーマは違えど、様々な視点で描かれた「A」もこの認知の歪みを持っていることがわかる。


「人は人と接することでしかコミュニケーションは学べない。」



それを強く再確認させた、最近の出来事でした。