ロンドン発 しあわせの見つけ方

ロンドン発 しあわせの見つけ方

自分を好きになると、周りの人たちをもっと好きになれます。物事のとらえ方が変わると、人生が変わります。幸せ体質になれば、今よりもっと幸せに生きられます。コーチングで、周りに振り回されず自由に生きたいあなたの人生を応援します。

何もない瞬間

ただ幸せを感じる瞬間ってどれくらいありますか?

 

 

そういう瞬間に感じる幸せって

なんかふわぁ~っとした安心感と共にやってくると言うか

イメージで言ったら

安心の空間であったかいお茶飲んで

ほぉ~~~~~っと一息ついたときに感じる

そんな感覚に似てるかもしれません

 

 

一方で今日の話題のソレは

そこにはお茶も何もなくて

突然やってくる

って言うのが最近増えて来たかも

自分と言う存在そのものに対する許可と言う言い方も

できるかも知れません

 

 

で、これって必ずしもゲンジツと言われているものと

連動してるわけじゃない

連動させなくてもよかったんだなと

そんなハッケンもあったりします

 

 

最近これとは関係ないんだけど

ふわスピと言うコトバが何となく気になって

ふわスピって何だろう?ってググってみたら

そこにはザックリ言っちゃうと否定的な意見しか見つからなくて

わかったことは

ふわスピ=幸せではないらしい。と言うコトかな。

 

 

で、ダレが幸せでないかって言ったら

たとえばその人本人がスピリチュアルを信じているんだけど

なかなか幸せを感じられない。と言うケースもあるのかもだし

もうひとつあるとしたら

あの人のやってることはふわスピだからと

ダレカやナニカを否定している本人

“シアワセではないと決めつけているダレカ” ←その人が本当に幸せでないかどうかはまた別の話

を自分の人生に投影してしまっていること

それもまた自分が創ったセカイと言うコトに

気づけていないと言う意味では同じなのかも知れません

この辺はちょっと難しいかもなので

適当に読み飛ばしちゃっても大丈夫です ^^

 

 

スピリチュアルってじつは

ひとの数だけあるのかもで

たとえば今日の記事を読んで

何もないときに幸せを感じるって

頭ン中お花畑か!?って思う人もいるかもだし 笑

 

 

そう思う人にとっては

これもふわスピ?なのかもだし

一方で自分がやって来たことと言えば

自分を内観しながら

イヤな感情ともネガティブとも

時に目を背けたくなるようなこととも

がっつり向き合って来て

 

 

ある意味ゲンジツと言うものを真剣に生きていた(気がしていた)ときより

現実逃避しなくなった

自分から逃げなくなったとも言えるかもで

やっぱり私にとってのスピリチュアルって

自分の人生であり日々のことであり

フシギなんだけど

めちゃくちゃ地に足がついていると言う観方も

できるのかもしれません

 

 

音譜オマケ音譜

 

すべてはただ起こっているだけ。

一見、諦めとかとても消極的に感じるコトバですが

コトバだけが独り歩きするのではなく

自分のタイケンを持って

自分の意識が自分のセカイを創っていたと言うことが

徐々に見えてくる わかってくると

なーーんだ そーゆーことか!!が増えて来る? 笑

 

ゆるめる

手放す

自分とつながる

 

焦らずいっぽいっぽ ^^

 

昨日のリンクは長くて訳しませんでしたが

ザックリと内容を言うと

ひとを幸せにするにはまず自分から。と言う

かなりザックリ過ぎるかもですが 笑

最初あのメッセージに出会ったときは

全部書き出して何度も読み返したりしました 

 

必要な人に届きますように ^^

 

 ロンドンの公園にはメモリアルベンチと言って

故人を偲び家族や友人たちによって寄附された

メッセージが刻まれたベンチが数多くあるのですが

ある時出会った

フシギなベンチ(メッセージ)との出会いから

私が当時行き着いたメッセージを急に思い出したので

英語のままですが

何か惹かれる方は自動翻訳でもなんでも

よかったらしてみてください

 

 

 

 

音譜オマケ音譜

 

この出会いに関するエピソードも以前書いたことがあるのですが

何となく今回は

私自身のタイケンとか解釈と言うよりも

受け取った方がそれぞれ感じるままに

受け取った方がいいのではないかなと感じて

敢えてリンクのみにしてみました ^^

 

因みに出会ったときには

強く惹かれるナニカを感じたのですが

当時は

意味は何となく分かるけど・・・・と

そんな感じだったかも知れません

 

そういう意味では

運命的な出会いのひとつだったとも言えるかも ^^

 

 

 

 

 

ちょっと前に

時間軸がちょっと怪しくなって来たのか

いつって言うのははっきり覚えていないんだけど

年単位ほど遠くではないはず

記事にもした気がする

 

 

色々頑張って来たけど今世はこの辺が限界かな

でも ま、いっか。

そんな風に思ったことがあったような気がします

 

 

でね。そのときは本当に

自分なりに色々やってみたけどどうしてもうまく行かなくて

方法も分からなくて

空回りしてる気もして だった気がする 笑

 

 

なんだけど

時は経ち

気がつけば

いつの間にか抜けてたって言うはなし

 

 

意識の話なので

これこれがあってカイケツとか

分かりやすくこの時点で抜けましたとか

そう言う類ではないんだけど

 

 

今現在その他のことからも感じているのは

方法は分からなくてアタリマエと言うか

その時点で八方ふさがりに感じるような状況に置かれていたとしても

それもまたいずれ変化していくものと言うか

ほんと

諸行無常

ここで そっか。とホッとできたとしたら

それが大正解 ^^

 

 

変わらないと思えるものがあるとしたら

それは

自分自身がそこに固定してしまっている

ナニカ自分の中の思い込みが強すぎるのかも知れず

自分の中にある盲点を探ってみると言うのもいいかも

でもこれもやり過ぎるとドツボにハマるので

ほどほどに ^^

 

 

こういう話ってホント

今まで一般的に使われて来た概念

思考を使って理解しようとすると

ほんとイミフになる事も多いと思うんだけど

本当にコタエは自分の内側にしかなくて

あなたもわたしも私たちが思っている以上にすごい存在だった

そこだけ声を大にして言いたい 笑

 

 

音譜オマケ音譜

 

今思うとバリバリ他人軸のど真ん中で

どうして私は自分軸で生きているというゴカイをしていたんだろう

 

そんな疑問を持って自分の内側を見てみたとき

 

社会軸と言う

そこから外れては生きていけないよと教えられてきた基準(土台)の中で

自我が自分なりのタダシサと言うもの(自分の城)を築き上げ

ソレを自分 それこそが自分だと認識して来た(有限の自分)

そんな気もしています

 

 

でね。自分の中のタダシサではあるんだけど

その土台には 社会軸 タダシサ軸 外軸 他人軸と言うものがあるかもで

その枠内 制限の中での自分。ではなく

 

本来の自分ってその枠 制限を超えたもっと大きな存在と言うか(無限の自分)

イイとかワルイとか

タダシイとかマチガッテルとか

そんな二元の意識の外に出たとき

そこに本当の意味での自分軸と言うものがあったとわかると言うか

そこには本来の自分と言うものを若干歪めた状態で

使って来ちゃったって言うひと(とき)もいる(ある)かもだし

ナニモノでもない自分と言う言い方もできるかも知れません

 

 

それは場合によっては

とても判断の難しいパチもんみたいに

まるでそこ(社会軸)に居続けるのがセイカイの様に

感じてしまうことがあったりもするのだけど

でもフェイクは所詮フェイクなので

必ず苦しくなって来ます

 

と言うわけで

 

ゆるめる

手放す

自分とつながる

 

苦しいとは

もうそこから抜け出す準備ができてるよと言うサインなのかも 

 

焦らずいっぽいっぽ ^^