『甲子園で優勝した大阪桐蔭主将の中村誠さんが中学生の時に書いた作文が感動的』
世間の人は、
「やっぱり有名校の主将だけあって、野球以外も立派だね。」
「人間は、皆、平等、とても素晴らしい文だと思いました。
私もヘルパーの仕事をして、同じ思いをしました。
優勝出来たのも強さと優しさを持った主将がいたからかもね!
優勝、おめでとうございます。」
「是非シェアさせていただきます!!」
とコメントしてる。
実際にこの作文は、内閣府の障害者施策、
障害者週間のポスター作品で最優秀賞を受賞しているわけです。
しかしながら、私はどんなに考えても違和感を拭えないのです。
私はこの作文を批判するつもりもありませんし、
この少年は素晴らしい経験をしたと思います。
ただ、障害者に対して『かわいそう』と思う事が、
障害者を見下す事になり、障害者を見て「かわいそう」と思うことが許せない。
という感覚に疑問を覚えました。
『かわいそう』という言葉は、
同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。
であり、
『同情』という言葉は、
他人の身の上になって、その感情をともにすること。
特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。
である。
何故、相手を思いやっていたわる気持ちが、
見下す事になるのか?
障害者の中には、事実同情されることに不快感や怒りを覚える人もいるかもしれない。
私の考えに対しても「健常者に障害者の気持ちがわかるわけない」と
云われるかもしれない。
でもそれは、障害者だからではなく、只その人がひねくれてるだけではないか?
私の考えはおかしいのだろうか。
そしてこの作文がキャンペーンにて最優秀賞に選ばれたという事は、
審査員や世の中の人々も、
障害者に『かわいそう』という感情を持つ事は失礼だと言っているのだろうか。
よくわからない。
女性の社会進出により取沙汰される男女差別問題の中でも、
たまに『平等』という意味を履き違えているのではないかと思う事例がある。
ふと思っただけの話。
別に誰がどう思おうが知った事じゃないし、
私がどう思おうが、他の人からみても知った事じゃない。


