第一次世界大戦とドイツ国民とお金 | 香港IFA玉利の海外投資夜話

第一次世界大戦とドイツ国民とお金

約100年前のことになる。


オーストリアの皇太子フェルディナントが
訪問先のサラエボでセルビア人の民族主義者に暗殺された。


この事件をきっかけに
オーストリアはセルビアに宣戦布告して
戦争の火蓋が切られた。


ヨーロッパ諸国はこれより少し前、
自国の領土や植民地、海上の権益を巡って
大きく2つのグループに分かれての対立が顕在化していた。


ドイツ・オーストリア・イタリアによる
三国同盟とイギリス・フランス・帝政ロシアによる
三国協商である。


ロシアはスラブ系民族を
庇護する立場にあったので
スラブ系のセルビアを助ける形で軍備を整え、
ドイツは同盟国のオーストリアの同調して
協商国のロシアとフランスに宣戦布告、
その後ドイツがフランスと西部戦線で対峙するために
ベルギーに侵攻したところでイギリスもドイツに宣戦布告した。


当時、
新興工業国のアメリカに
追い上げられてはいたものの
世界でもっとも先進的地域であった
ヨーロッパ全土が戦争状態に突入。


機関銃、戦車、
爆撃機、化学兵器など、
それまでの時代とは一線を画す
新型の武器が開発され、
使用されたこの戦争はそれまでにない
大量の戦死者を出しながら膠着状態が続き、長引いた。


ドイツの力は強大だったが
イギリス・フランスとの西部戦線を、
ロシアとの東部戦線を同時に戦わなければならない
なんとも厳しい状態だった。


ところがかねてより
国内での不満が飽和状態に達していた
ロシアで2度の革命が起き、
戦争を主動していた帝政国家が瓦解してしまった。


2度目の10月革命で
レーニン率いるボリシェヴィキが政権を奪取して
世界初の社会主義国家が誕生し、
新政権は中央同盟
(ドイツ・オーストリア=ハンガリーの三国同盟国にオスマン帝国やブルガリアを加えた陣営)
と休戦協定を結んだ。


東部戦線を戦う
必要のなくなったドイツは
全勢力を西部戦線に振り向けた。


ところがその少し前に
ドイツに宣戦布告していた
アメリカが圧倒的な物量を持って
西部戦線に参戦。


1918年11月
ドイツの降伏により、

「第一次世界大戦」

は終結した。


170313


1919年にパリで
講和会議が開かれ、
ドイツには1320億金マルクという
自国の国家予算の20年分に当たる
賠償金が課せられれた。


このとき戦地から
遠く離れたアメリカの大統領ウィルソンは
当初ドイツに賠償を求めない考えを表明していたが、
国土に甚大な被害を受けた
イギリスやフランスが強く賠償を求めたのである。


英仏は戦費調達のために
アメリカから莫大な借入をおこなっており、
賠償がなければその返済が困難だったのである。


そもそもアメリカ参戦のために
大統領への圧力をかけたのは
J・P・モルガンをはじめとする
ウォール街の金融関係者だった。


イギリス・フランスが
敗戦ということにでもなれば
貸付金の回収はもっとおぼつかなくなるからだ。


主張の通らなかった
ウィルソンの代わりに
会議を主導したのは
トーマス・W・ラモント財務省代表。


モルガン商会の人だった。


ドイツの巨額の賠償金は
到底スムーズに払えるものではなく、
また外貨で払う必要があったためすぐに支払いは滞り、
国内は激しいインフレーションに見舞われた。


それを受けて
フランス、ベルギーは
ドイツ国内屈指の工業地帯であり
地下資源が豊富なドイツのルール地方を占領し、
ドイツ側もそれに抵抗したために生産が滞り、
空前のハイパーインフレが発生した。


その物価上昇(紙幣価値の下落)は
前日14,000マルクだったサンドイッチが
翌日には24,000マルクになっている、
またはレストランで食事をするのに
5kgぐらいの紙幣の束も持ってゆかなければならない、
しまいには100兆マルクという紙幣まで発行された
というエピソードが生まれるほど急激なものだった。


1923年10月、
不動産や工業機械を担保とする
レンテン債権と兌換できるレンテンマルクを発行、
それまで使われていたパピエルマルク1兆マルクを
1レンテンマルクと交換する事実上のデノミネーションをおこなって
このハイパーインフレーションはようやく収まった。


だが、
この通貨の崩壊と経済混乱を生んだ
ヴェルサイユ体制に反発する空気の中
ヒトラー率いるナチスがドイツ国内で熱狂的な支持を獲得し、
世界は次の戦争へと突入していったのである。


レンテンマルク発行から
さかのぼること10年。


植民地獲得競争で
遅れをとっていたものの
ヨーロッパの強国として
実力を付けていたドイツ。


その頃のドイツ国民にとって
将来は予想外のことだったに違いない。


どれだけ大きな資産を持っていたとしても
それが当時のマルク建てだったら
10年後にはすべて失くしてしまったことだろう。


だが国外に
外貨建ての資産を持っていたとしたら
それを持ち帰って凌ぐことができた。


極端な例かもしれない。


だがそれが、

「場所の分散」と「通貨の分散」

の重要性なのである。



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