四條畷の町を見下ろす高台に位置する四條畷神社。 


 創建は1889年と比較的新しい神社です。 

ご祭神は楠正行。 

明治政府によって父、楠正成が神格化されたのに伴い、正行もまた神格化されて、戦で無くなったこの地に祀られるようになったそうです。 


 ですので、人々に慕われて神として祀られるようになったわけでも無く、祟り神として祀られたわけでもない、政治的思惑で神とされたと言うことです。 


 何だか、こう書くとご利益なさそう… 

 でもですね、国がバックに立って建てられたから、この神社はとても立派な作りです。 


社殿は上品で近寄りがたいというか、清涼な空気が漂ってきそうな、凜とした空気をまとっていて、気品を感じるのです。 

何だか格好いい… 


社殿の前に座りぼーっと眺めていたい気持ちになります。 


 強い力でご利益を頂ける神社とは感じないのですが、心を落ち着かせるには良い感じです。




大阪府寝屋川市の河北は江戸時代に河内屋北新田と呼ばれる地域だったそうで、1708年に完成しました。 


ここに産土神として、天照大神が祀られたのが始まりのようですが、この地は新田開発に従事した人たちの集散場所だったそうです。 

そういう所に神様が祀られるのは自然の成り行きでしょうね。 

今では住宅地の中で地域の人達に大切に守られています。 


 境内は社殿の前に立つ二本の大きなご神木が印象的。 

そして、横には地車の倉庫と思われるものがあります。 

この辺りも地車が町を練り歩くのですね。 

地域が神社を中心にして繋がっているのを感じて、ホッとする私でした。





昔、鶯の名所に関所があったと言うことで付けられた名前が「鶯関神社」だとか。 


 住宅地の中にひっそりとある小さな神社には、いつものように集会所と公園が隣接していて、地域の人達の拠り所になっているようです。 

 その人達を出迎えるように社殿の横には大きな楠。 

やはり神社には大きな木が似合います。

大きな木があると、その地がエネルギーに満ちている様子がはっきりと形になって見えますからね。 

とても安心。 


 ご祭神は天照大神、野々宮大神、菅原道真。 

菅原道真は江戸時代に後から、領主の影響で祀られるようになったそうです。 

元々は天照皇大神を御祭神として天皇即位のとき、伊勢神宮に奉仕された斎官が立ち寄られた由緒ある神社だそうです。 


そんな、由緒のある神社だとは、ぱっとみだけでは分からないものですねえ… 

 それくらい、地域に馴染んでいらっしゃいました。





上馬伏産土神社はノーマークでした。 

他の神社に向かっているときに偶然遭遇。 

道路に面して鳥居が見えていました。 

でも、前に来るまではそれ以外に存在感を感じませんでした… 

 周囲の自由宅やビルに埋没している…

そんな感じ。 


 間口は狭いのですが、中に入るとまあまあ広い。 

一番奥に社殿があります。 

 この地域、正直言ってやんちゃな人が多いんですよね。 

そのためか、イタズラされないように手水舎に柵がされていたりします。 

これじゃあ意味ないな… 


 社殿の横にはまあまあ大きな木がありました。 

そこから見て、結構古い神社なのかな?と推測しました。 

 インターネットで調べてみますと、
創建の年月は詳らかではないですが、宮寺として隣にある宝蔵寺の御本尊が平安末期のものだとか。 

ですから、この辺りの集落もその辺りに出来て、この神社の創建もその頃と推測されているようです。 

 ご祭神は菅原道真ですが、これについては、最初からそうなのか、途中でこの辺りの有力者の影響ですり替えられたのかはよく分かりません。 


 綺麗にされている神社なのですけどね。

いまいち、萌えないのでした…





古い住宅地の中、公民館の裏にあります大阪府寝屋川市対馬江の若宮神社。 


 説明書きには、対馬江には「しょうごん」と言う、三歳児の子どもの通過儀礼のような風習があるそうです。 


 インターネットで調べると、この若宮神社は元々、若宮天神社と書いてあったそうで、昔は津嶋部神社とともに対馬江にあったものが、津嶋部神社が金田に移った後も対馬江の今とは別の場所に残されていたようです。 


 明治維新後、金田の大宮に移り境内末社となったところ、頭にカサブタのできる子どもの多いのは神様を移したからだ、といううわさが出て、明治の晩年に今の場所へうつして祀るようになったそうです。 


 神様は人間の都合で移してはいけないのですね。 

恐らく、明治以降、合祀されたり廃止される神社が沢山出て、日本中の神様ネットワークスは大きく変化したのでしょうね。 

その影響が吉なのか凶なのかは分かりませんが… 


 さて、公民館の裏の若宮神社の境内に入りますと、ちびっ子広場?のような広さの開けた敷地の隅に小さなお社。 

そして、その隣にも、もう一つ小さなお社がちょこんとありました。 


 ここは、地域のおじいさんお婆さんが憩う場所なのでしょうか。 

そんな、落ち着いた空気があります。 


 そして、境内の奥にはもう一つ小屋?
中をよく見ると、役行者の像があります。

どうも奈良県の大峰山の講があったようです。 


 どうも、ここは単なる広場では無く、地域の人達の信仰を集めた場所なのでしょう。 


 世代が変わって、信仰を持たない人達が今の老人と入れ替わったとき、恐らくここはただの広場になってしまうのかな?
そう思うと少し寂しい気がします。






道を歩いているといきなり鳥居が立っていました。  

その奥を覗くと少し先に神社発見。 

周囲が開発されて、参道沿いに家が並んで、鳥居だけが取り残されたのでしょうかね? 

 ここは鞆呂岐神社。 

結構由緒のある神社のようです。 

 鞆呂岐神社の鞆呂岐(ともろぎ)とは、皇室の荘園を意味するそう。 


 御祭神は、六社大明神(天照皇大神・豊受大神・蛭子大神・住吉大神・神功皇后・天児屋根大神)。 

 清和天皇の貞観三年(861年)に、水利の守護神として崇敬したのが始まりということです。 


 ぱっと見よりも境内は広く、奥行きがあります。 

本殿だけでなく、奥にはこの辺りの昔の様子を忍ばせるように、龍神様が祀られていたりして、嬉しい。 


 神社は地域の人を結びつける働き以外に、タイムカプセルとしての働きもあると思います。 

そんなことを再確認させてくれます。





冬が過ぎて暖かくなってきました。 

おひさまの光を浴びていると、滝に行きたくなりました。 

 そういう訳で、久しぶりの滝行です。 

昨夏から半年以上ぶり。 

 気温は20℃前後です。 

以前なら絶好の滝日和と喜んでいるところですが、それは真冬も滝に入っていた頃の台詞。 

 普通なら、やはりこの気温ではまだ滝に入るのは早いです。 

 でも、滝に行くと決めると、心はワクワク。 

 磐船神社近くの白龍の滝に行くと、以前と違う。 

半年の間に何があった? 

 滝が二つになっています。 

そして、水量が普段より多い。 

最近そんなに強い雨が降ったっけ? 

 それに、以前祀られていた、和光大神と刻まれた石がなくなっています。 

 それから、着替えの小屋と滝に入るところが綺麗にされている。 

 半年空くとこんなに変わるのか… 

 戸惑いながら、行衣に着替えて、カメラもセット。 

しばらくぶりで忘れかけていた作法をゆっくり思い出しながら、準備を進めます。 

(それでも、いくつか飛ばしてしまった…) 


 いざ、滝に入る時、
冬のやや暗い時には少し恐怖を覚えながら滝に入っていたのが、今日は日差しが差し込み、明るかったお陰で怖さが無い。 

これなら大丈夫。 

そう思って、飛び込む。 

やっぱり水量多い。 

一気に体温を奪われました。 


やっぱり水は春先の冷たさです。 

 半年のブランクは大きかった。 

1分もすると、吐き気、そして、頭痛が…
これは持たないな… 

気を抜くと意識が持って行かれる… 

 いつもの三分の一も持たずに滝から出てしまいました。 


 滝から出ると、期待していた通り、日の光が温かく私を包み込んでくれました。

この感覚が私は好きです。 



やっぱり滝行は楽しい。


淀川の堤防の直ぐ横にある小さな神社です。 

雰囲気からして、集落を守護する地域の拠り所という感じではありません。 


 調べてみると、
創建年代は不詳です。

『仁徳紀』に、茨田の堤を築こうとしたときに、壊れる場所が2カ所あり、武藏人強頚、河内人茨田連衫子の二人をそれぞれに祀れば堤はできるだろうと天皇の夢にお告げがあったそうです。 

強頚は泣く泣く人柱になり、堤は完成。
一方、杉子は素直に人柱にはならず、神様を試して、偽りの神として死を免れましたが、堤は完成しました。 

 この2カ所を強頚の断間(たえま)、衫子の断間(たえま)と呼び、これが今の太間に繋がるようです。 

 そして、衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀っていました。 

 後に菅原道真の末裔がこの地の有力者となり、菅原道真を多いに祀ったので、衫子のことは忘れられてしまったようです。 


 今では道真を主神、衫子を地主神としているようです。 


 こんな感じで、堤の完成に感謝して神様を祀ったのが始まりなのですね。 

どおりでと言う感じですが、今の有り様は、隣に公園と集会所もあり、この集落の一部としてしっかり馴染んでいるようです。 


 社殿は拝殿と本殿の区別が無く、ぱっと見は倉庫かと思わせる感じですが、どうしてこんなデザインにしたのでしょう?
このサイズの社殿でしたら、ちゃんと分けられていることが少なくないと思うのですが。 

まあ、この方が安上がりですけどね。





地域の神社巡りをしていると、いろいろな神社があります。 

 寝屋川市の葛原神社は、到着するのにちょっと迷いました。 

交野市の高岡神社ほどではないけど… 


 地図上では、西寝屋川高校の裏にあるようなのですが、道が無い… 

西寝屋川高校の裏は田んぼだよ… 

こんな所に神社を建ててどうするの… 

 そう思いながら、意を決して田んぼの畦道を歩いて行くと高校に貼り付くような場所にありました。 


 ぱっと見は、小さなちびっ子広場? 

でも、こんな所に遊びに来る人いないでしょう。 

 小さな鳥居を潜ると小さな祠がありました。 


創建などは分かりません。 

天満宮とも呼ばれているようなので、菅原道真がご祭神なのでしょう。 

こちらに菅原道真が祀られたのは、菅原道真所縁の地なのでしょうか? 

それとも、ただの農業神として? 

 よく分かりませんが、小さな境内はゴミ一つ無く、大切にされている感じがあります。 


今では分かりにくい場所になっていますが、高校が出来るまでは田んぼの真ん中で、人の営みを見守っている存在だったのでしょうね。 


 いつまで、大切に残っていけるのかは分かりませんが、今も目の前に広がる田んぼを見守って下さっている小さな神社です。





仁和寺氏神神社という名前を聞いて、地域の小さな氏神さんかな?くらいに思って行ってみますと、意外に大きな境内。
こんな場所にこの規模はいらんでしょう?それくらいにゆとりのある神社です。 


 創建ははっきりしません。 

ご祭神は菊理比売命・応神天皇・菅原道真です。 

菊理比売命を祀る神社はこの辺り余りないのでちょっと感動しました。 

最初は菊理比売だけを祀っていたようですが、どうしてこの地に勧請されたのでしょうね?
そのご縁を知りたい。 

その後、この地が男山八幡宮の所領になり、応仁の乱後に応神天皇を祀るようになり、さらに1633年には菅原道真が祀られて天満宮を名乗っていたこともあるそうで、さらには1911年に佐太天神宮に合祀された後、1943年にこの地に戻されたというように様々な歴史を感じます。 


 場所が場所なので、訪れる人は殆どがじもとの方でしょう。 

とても静かで落ち着いた境内です。 

その境内には地域の集会所もあり、名前の通りに地域の氏神さんなのでしょうね。 

 少しふらふらと歩くにはちょうど良い感じの神社です。