『般若心経』注釈 3 | よどみにうかぶうたかた

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淀んだ頭に時たま浮かんでくる泡沫を書き残しています。


最後の箇所では、世界を構成する要素が全て《それ自体は存在しない》ことを覚ることで、智慧の完成の彼方に到達できることが述べられる。


無智亦無得。
以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙。
無罣礙故、無有恐怖、遠離(一切)顛倒夢想、究竟涅槃。
智も無く、亦た得も無し。
得る所無きを以ての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。
罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、(一切の)顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟す。
知るということも無くまた獲得するということも無い。
獲得されるものが無くなるので、求道者は、智慧の完成によって、心に妨げとなるものが無くなる。
心に妨げとなるものが無くなるので、恐れが無くなり、(全ての)倒錯した迷いの思いを離れて涅槃に到達する。

無智亦無得…「智」「得」の対照はベクトルの違いか? 私見では、「智」は内→外、「得」は内←外、という働きがイメージされる。先達は「証智」↔「所証」(最澄)、「能達」↔「所証」(空海)などと説いている(岩波文庫本p.36)。
以無所得故…この句が前にかかる説と後ろにかかる説とがあるが、後者を採る。私見ではそのほうが文意が自然。具体的には、「得」以外の法は無であることをただ列挙したのに、前にかけて「得」にだけ補足説明をする必要性が感じられない。また、後ろにかけて、空観によって涅槃に到ることができる理由の第一とすることは必要だろうと思われる。
罣礙=覆い。妨げ。こだわり。
一切…日本の流通本には通常有るが、縮冊蔵・卍蔵・大正蔵には無いとのこと。サンスクリット文にも無い(岩波文庫本p.33)。

三世諸佛、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
三世諸仏は般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。
過去・未来・現在の覚った人達は、智慧の完成によってこの上ない正しい覚りを得た。

三世=過去・未来・現在(仏典では通常この順序で表記される)の三時。
阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚。最上の正しく完全な覚り。仏の覚りの境地。

故知。
般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒。
能除一切苦、眞實不虚。
説般若波羅蜜多咒。
故に知るべし。
般若波羅蜜多は是れ大神咒なり。是れ大明咒なり。是れ無上咒なり。是れ無等等咒なり。 
能く一切苦を除き、真実不虚なり。
故に般若波羅蜜多咒を説く。
よって知るべきである。
智慧の完成は大いなる神聖な真言である。大いなる覚りの真言である。この上ない真言である。比類のない真言である。
全ての苦しみを除くことができ、真実であり偽りでない。
よって智慧の完成の真言を述べる。

咒=真言。マントラ。
故説…この「故」を前にかける説と後ろにかける説とがあるが、後者を採る。通常の漢文法に従う。文脈的にも自然。もし前にかけるなら、「真実なり。虚ならざるが故に。」と訓むべきか。

即説咒曰。
掲帝、掲帝、般羅掲帝、般羅僧掲帝、菩提僧莎訶。
般若(波羅蜜多)心經
即ち咒を説きて曰く、
掲帝、掲帝、般羅掲帝、般羅僧掲帝、菩提僧莎訶。
般若(波羅蜜多)心経
すなわち、
gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
(行く者よ、行く者よ、完成の彼方へ行く者よ、完成の彼方へ完全に行く者よ、覚りよ、幸あれ。)
智慧の(完成の)心髄の経

掲帝〜、gate〜…サンスクリット語には疎いので、この真言の部分を参考文献の記述と変えるのは躊躇するが、このままだと『心経』の本文とこの真言との意味的な繫がりが不明確なので、差し支えないと思われる程度に語句を変えてみた。
経典名中の「波羅蜜多(pāramitā)」と真言中の「般羅(pāra)」とは同一語から来ているようだ。
ここで前者を「到彼岸」と訳す立場を取れば、後者を岩波文庫本のとおりに「彼岸に」と訳して繫がりが明らかである。
しかし岩波文庫本は前者を「完成」と訳しており、単語として繫がりが見出だせない。
そこで今回の私の訳では、「完成」との繋がりを分かりやすくするため、真言のこの箇所を「完成の彼方へ」としてみた。
(岩波文庫本p.17註一、pp.36-37註四八参照)