美味しいパイプについての論議 |   私的喫煙日記

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      私の日々の喫煙生活を記録しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      


世の中には美味しいパイプと不味いパイプが存在する。
と信じて疑わない派閥というものがある。私はこれに対して反対派ではないが懐疑的で、美味しい煙草を詰めて吸えば美味しいし不味い葉を詰めれば不味いんじゃないか?と当たり前の事を考える。パイプなんてたかだか孔の空いたストローのような物に過ぎず、美味しいジュースを飲んでいるかどうか?コーヒーカップに過ぎず、美味しいコーヒーを淹れて飲んでいるか?でしかないのではないか?パイプによって旨いだの不味いだのと言うのは幻想ではないか?と言うような事を主張して来た。
だがこれは一面では真実のようでいて一面では偏狭な考えである。

例えば、ジッポーで火を点けるとシガレットが美味しいと言う人がいる。マッチでも同じ。この時、ジッポーはオイルの香り、マッチは硫黄や燐の香り、などと分析するのは正しいか?
「美味しい」とは?その実態とは批判的なものではないのではないか?
「美味しい」とは元来無批判なものではないか?
当然、個々人の趣味や主観を出るものではないのだが、「愉しい」というのとは違って、味覚や嗅覚による娯楽である。
お気に入りのライターやパイプを使って煙草を吸う事は「愉しい」事ではあるが、それを「美味しい」という範疇に含めてしまっても良いのだろうか?
道具として「使いやすい」という利点は、快適である事に違いないのだけれども、快適である事と美味しい事とは根本的に違う。
「快適さ」の主体は道具を使う側にあるが、「美味しさ」の主体は料理そのものにある。喫煙で言えば煙草そのものにあるのだ。
決して使いやすくはないけれども、お気に入りの道具を使えば「心地よい」。この時も「心地よさ」の主体はそれを感じる側にある。道具にはない。
何故こんな事になるのか?それは料理が批判的なものだからだ。煙草もテイスティングする物としては同じだ。批判的なものだ。
道具を吟味する場合は「使いやすさ」「心地よさ」「美しさ」などであり、決して「美味しさ」ではない。パイプそのものを食べるわけではないからである。
喫煙は食事ではない。栄養にならないし味覚を満足させるものでもない。香りや舌触りなど、実にセンシティブでナイーブな愉しみである。
そこに「美味しさ」という批判を介入させることはできない。
更にそれを支える道具達をも巻き込んでしまうと、最早「美味しい」というのはあまりにも限定的であり、「愉しい」の方がしっくり来る。

では何故、敢えてパイプについて「美味しい」という言葉を使いたがる人達がいるのか?
それはある種の教条的な権威主義であろう。
多分私が気に入らないのはここだ。
「旨いパイプというのはこれこれこういうパイプである」という指標をビギナーに植え付ける。その上に存在するのがブライヤー神話やメシャム神話だ。多孔質で吸湿性が高いのは事実だし先人達が試して来た素材のうち、最も定評を得ているのがブライヤーであり、次がメシャムだ。それだけの事である。
次に作り手の問題。
一点一点丁寧に時間をかけて作ったパイプは大量生産品より美味しくて然るべきであり、それぞれの作家に個性とセンスと匠の技があり、伝統がある。
そんな物語性だ。
実存主義的な個々人の「美味しさ」「愉しさ」は無視される。流派が生まれスモーカーが格付けされる。
実につまらない展開である。

だから敢えて私は考えるのである。
「万人に等しく美味しいパイプは存在するのか?」
厳然として言えるのは、個々人の細かな事情とは完全に独立した、たったひとつの答えだ。

「煙草を正確に味わえる管」

そして次にまた、美味しい煙草の論議となってしまうのである。
虚しいので、かなり前からスルーしている。
何も喫煙に限らず、権威を作り上げようとする動きには常に冷めていたのだが。