本稿の内容は、ある意味では、自戒を込めたものでもあります。

 

政治家なりタレントなり(以下、政治家等といいます)がする「失言」や「厳しい物言い」、あるいは「正論」などいったもの(以下、「強い物言い」といいます)は、必ずしも「失言」などではないように見えます。政治家にとってその発言は、やはり、基本的には「有権者」を向いているものと見るべきでしょう。そうだとすれば、やはりそのような発言を好意的に受け止める人たちがいるということを意味しているように思われます。

 

強い物言いが好まれるように見えているということが何を示しているのかが問題です。このことは、一時期とみに見られた「スカッとする話」の類でも同じです。端的にいえば、人々の「加害欲求の充足」であろうと思われます。何らかの理由で他者に加害をしたいけれど、現実に存在するさまざまな理由(中には、それが法であるということもあるでしょう)により、その欲求が満たされないときに、それを他者に「代理」させているというわけです。つまり、政治家等が、人々の「加害欲求」を代理して、加害じみたことを行っているというわけです。その意味で、当該の政治家等は、きちんと「理性的判断として」強い物言いをしていると理解できるのです。

 

この構造は、「飲み込み」の契機を有しています。当該の政治家等は、人々の支持を背景にして「強い物言い」ができているのだとすれば、当該の政治家等が「自分の意思で」加害したいと考えたときにさえ、「人々の支持がある」ということを根拠として、(濫用的に)「強い物言い」ができてしまうということでもあるのです。言い換えれば、政治家等に、「人々の支持」が利用されることがあるのです。

 

しかし、いざ「あなたたちには加害欲求があり、それを他人に肩代わりさせている」といわれて、「そうだ」と肯定できる人は多くはないのではないでしょうか。「加害をしたい」というその要求は、現代社会においては忌むべきものと考えられているために、これを肯定すると、自身の「善良性」が失われるように見えるからです。しかし、これすらも危険です。自身が善良であるからこそ「多少の加害」が「防衛」等の名を借りて肯定されるような錯覚に陥るからです。それであれば、初めから、自身の持つ加害欲求に素直に向き合った上で、それを適切にコントロールする方が、よほど誠実であろうと思います。

 

何にせよ、そのような「自身を善良だ」と思い込みたい人々の感情を(ある意味においては)うまく利用しようとすることはできるのです。「自身を善良」だと思い上がるその性根をこそ捨てなければ、いつまでたっても、この構造から抜け出すことはできないように思われます。

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伝統的に、法益(法律上保護されるべき利益)には、生命、身体、自由、財産に加え、名誉が含まれてきました(例えば、刑法230条及び同222条の加害内容参照)。しかし、現代を生きる我々にとって、名誉の法益性は、必ずしも直感的に把握できるものではないかもしれません。それは、名誉概念それ自体に内在している問題に加え、現代社会の価値観によるところでもあるように思われます。

 

名誉の概念は、法律上は、外部的名誉または事実(社会)的名誉といわれるように、社会の人々がある個人をどのように見ているかという面で考えられています。そのため、偽りの名誉である「虚名」も保護対象になります(以上、拙稿「名誉毀損の基礎Ⅰ」参照)。

この「虚名が保護対象になる」ということを直ちに腑に落ちるものとして受け止められる人は多くはないのではないでしょうか。その背景には、ある意味でのナイーブな「正直であるべし」との倫理観があるのかもしれません。しかし、名誉概念は、もともとは、騎士をはじめとする諸身分者が持つ「地位」や「身分」を示すものであり、今でいうところの「メンツ」に近いものがありました。その意味で、「名誉の侵害」とは、「社会的地位の侵害」であったわけです。だからこそ、それが虚名であったとしても、そのことに基づいた社会的地位が確立しているのなら、その社会的地位を支えている名誉を保持しておかなければならない、と考えられてきたのです。

 

他方で、このような理解は、現代社会に生きる人々には把握しきれないところがあるように思われます。それは、現代社会が「価値多元主義」及び「情報過多の社会」であることを前提に、その人にどのような名誉があるのかということに必ずしも意が払われていないように見えるところに由来しているように思われます。つまり、人の価値というものは一律に捉えられないだけではなく、安易なジャッジは避けるべきものであり、あえて「名誉」という言葉で表現されるような「社会的地位の強制」は、時に、その人の価値を否定するものになりかねないということに加え、様々な情報が存在することで、情報の取捨選択自体に困難が生じ、むしろその人の社会的地位を推し量ることが著しく困難になるという点を考慮する必要があるように思われるのです。

このような理解からは、したがって、その人の価値は、第三者がどうこうできるものではないという理解日長りやすくなり、「名誉」の価値把握を困難にさせます。

 

そうはいっても、現在のほとんどの人は、(ある限界づけられた社会とはいえども)社会の中で円満な生活をしているはずです。そして、そのような円満な生活には、「(少ない範囲とはいえ)あの人はこういう人だ」という評価が基になっていることは少なくありません。そのような評価が脅かされるということは、翻って、そのような社会生活が営めなくなる危険が生じるということでもあるのです。その意味で、現代における名誉は、「円満な社会生活を送るための、属人的な諸情報の集合体」として実態把握をするのがよいように思われます。

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わが国の「法」は、まずもって、条文の形で存在しています。そのため、わが国は「成文法国」とか「制定法国」などといわれることがあります(対義語は、不文法国、判例法国でしょうか。両者は厳密には異なるのですが)。

そこに「文」が存在するとき、我々はその文の内容、つまりは意味内容の看取・理解に迫られます。その際には、当該の文を超えて、その「周辺部」までの理解を踏まえた上での理解が必要なことも少なくありません(以上、例えば、拙稿「『文脈』・『行間』について」)。

 

条文・法文といえども、このことは同様です。現在の会社法や各種の行政関連の個別法(例えば食品衛生法など)は、それなりに「書き込まれ」ており、条文を日本語として読めば、相応の日本語能力を有してさえいれば(そして、実はこのこと自体にも高いハードルがあるのですが。拙稿「日本語の読み書きについて」参照)、ある程度はその内容を理解することができます(もっとも、法令用語は存在しており、あくまで「ある程度」の域を超えません)。しかし、伝統的に「法」の代名詞であった、あるいは世間の人々が真っ先に思い浮かべるであろう憲法をはじめとする、いわゆる基本六法は、その重要性に比して、極めて簡素な条文になっています。だからこそ、法学教育・研究の重点は、この「条文理解」に割かれてきたといっても過言ではないでしょう。

すでに上掲「日本語の読み書きについて」でも述べたように、短い文であれば、その意味内容は必ずしも判然としません。一方、法の適用にとっては、当該の事実が、法の規定の中にあるのか外にあるのかということが第一に問題とされます。そうである以上、当該の事実が規定の枠内にあるかどうかを判断するための下位の基準の設定が必要となり、この下位の基準を導く作業が、「法の解釈」と呼ばれるわけです。

 

法が言葉で書かれている以上、法文=条文は、人文学でいうところの「テクスト」に相当します。つまり、「読まれるもの」としての性質から逃れがたいといえるのです。と同時に、「読まれるもの」である以上、やはり「読まれ方」は区々になり得るものでもあります。小説であれば、まずはその小説を読み切りさえすれば、差し当たっては足りるのかもしれません。しかし、法文の場合には、典型的には「特別法は一般法を破る」という法諺のように、その法典だけでさしあたって完結するということすらほぼないといってよいように思われます。このあたりが、「素人」には「できている」つもりでも、「専門家」から見れば「初歩すら押さえられていない突拍子もない理解」になりやすい原因の1つといえるでしょう。

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法律学に関わるようになってからそれなりの時間が経ち、また、その関わり方も、今や受動的なものではなくなり、能動的なものになってきました。そうしているうちに、幾度も「法の解釈」というものそれ自体を考える機会も増え、また同時に、悩み、また失望もし、あるいはまた一定程度の望みを持ったりといった繰り返しを続けてきました。このような経験は、もしかすると、今現在悩みを持つ人を癒すものになるかもしれないと思うようになりました。そこで、本ブログで、必ずしも体系だったものではないにせよ、法哲学的に法の解釈というものを、実定法の観点から、書き記してみようと思います。本業は法哲学ではないので、学術論文として「オモテ」には出ないかもしれない、自分への慰めでもあります。

 

この手の連載の怖いところは、「同じことを繰り返す」だけになりはしないか、という事です。とりわけ、上記のように、同じところをぐるぐる回っているだけの悩みでは、どうしても同じことの繰り返しになるリスクが上がります。

その意味では、連載によって、「何がもう考えたことなのか」を可視化できるという強みはあるでしょう。その上で、「何が悩む必要があることなのか」ということもまた浮かび上がってくるといえます。

 

こう考えてくると、本連載は、私にとっての備忘録以上の役割はないかもしれません。と同時に、願わくは、だからこそ、いろんな人のコメントによって考えを「鍛えて」もらえたらと思うところでもあります。

 

何はともあれ、千里の道も一歩から。まずは何かを書くことから始めてみましょうか。

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少しずつリハビリを兼ねて、割合書きやすいものを提供したいと思います。

 

法の解釈というものは「難しい」ものです。それは解釈手法の多様性にも由来していますし、そもそも「(条文や判例といった)テクストを解釈する」だけでなく、「社会的事実を解釈する」という問題もあり、かなり複線化するからです(概要について、拙稿「法律の読み方」及び「カップ焼きそばで学ぶ法解釈の手法」参照)。

(実体)刑法の解釈は、その中でも、入門書をはじめとしていろいろな文献等にその特殊性が示されています。その最たるものが、「罪刑法定主義」で、条文に規定のない犯罪を根拠とした処罰や、条文に規定のない刑罰を許さないという原則です(詳細は、拙稿「罪刑法定主義の意義」参照)。そこから、類推解釈と呼ばれる手法が禁じられるといったことが説明されるのですが、実は、この罪刑法定主義とは別の次元で刑法解釈には特殊性があります。

 

現在の刑法理論では、行為者(犯人)の内心の在り様のみををもって処罰することを否定しています(これが、思想処罰の禁止とか、行為主義と呼ばれます)。実は、このことが、刑法の解釈に強い影響を与えています。

典型的には、次の事例です。すなわち、XがVを殺害する目的で、毒入りのウイスキーを戸棚に隠し、後日自らVに提供しようと考えていたところ、Vが自ら当該ウイスキーを発見し、自ら飲酒したところ、当該ウイスキーに含まれた毒物によって死亡した場合です。この事案で「殺人罪」が成立すると考える人は多いと思いますが、刑法学では、この事案は、「殺人予備」+「過失致死」という扱いがされます。つまり、殺人罪は成立しません。それは、「毒入りウイスキーを用意し(て隠し)た」ことは「殺人行為」ではないと理解されているからです。つまり、「殺すつもりがあって、実際に(狙ったとおりの死因で)被害者が死亡した」としても、それだけでは「殺人」にならず、きちんと「殺人行為」(実行行為といいます)があったこともまた必要なのです(ちなみに、実行行為は、犯罪結果を発生させる現実的危険を有した行為とされ、毒入りウイスキーを隠す行為は、この「殺人結果を発生させる現実的危険」がないと理解されています)。

 

通常、解釈は、その文脈的理解を中心に据えます。しかし、上記の例から明らかなように、刑法の場合には、社会現象として広く「文脈」を把握するのではなく、「行為と結果を中心にして『切り取る』」ことをします。その結果、「文脈」がむしろ「失われる」ことを是としているのです。

もっとも、このことは、犯罪の成立を肯定する方向であり、犯罪を否定する場面では、さらにその外側を「文脈」に取り込むため、把握すべき事実関係は「拡張」されていきます。言い換えれば、思考力学的に、犯罪肯定の方向は収縮させ、犯罪否定の方向は拡張させるということになるわけです。このことによって、「行為を処罰し、人格や思想を処罰しない」という命題を守っているといえます。

 

このような「狭く切り取る」という作業は、特に民事法の世界では見られません。民事法では、法律行為(とそこから生じる法律効果)が1つの「果実」として理解されているように見受けられるところ、どうしても「どうしてそうなったのか」を意識せざるを得ません。このようなところにも、「法分野」の解釈の違いが滲んでいて、よくよく見てみると、好奇心をそそられます。

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