振り返ってみると,2015年に「甘え」に関する2つの小稿を書いています(「甘えの文化」及び「甘えとわがまま」)。今回のお話もそれに連なるようなお話です。

 

いくつかの大学の教員から,「うちの学生は幼くて…」とか,「うちの学生は中学1年生みたいで…」と聞かされることがありました。その言わんとするところは,「なので,学術的に高い要求はしないでください」ということなのですが,同時に,「そう思って,学生対応をしてください」ということも含まれています。

このような話を聞くとき,ふと,「大学もまた学生を甘やかしているのだな」と思うのです。そして,そのことに強い違和感が付きまとうのです。

 

法学部を卒業した私にとって,大学の講義というのは,いかにも「自由」なものでした。期末試験さえパスすればよく,それ以上の何の制限もありませんでした。それは,「授業に潜る」ことも同様です。少人数で開講される演習(いわゆるゼミ)だけが唯一出席がとられ,「学生管理」が行われていました。法学が「自由」と共にあったのは,まさに「法」が「自由」と共にあったからかもしれません。

他方,昨今の学生や大学関係者の話などを聞くにつけ,学生が自ら「支配」に入ろうとしているのではないかとすら思われるのです。必要以上に大学の関与を求めているような気がするのです。

もしこのような見立てが妥当なものだとすると,由々しき事態といえそうです。法が前提とする成人概念は,「自由で理性ある人」です。つまり,いつまでたっても,「人」になれない。自ら進んで「人」であることを放棄していることを意味しかねません。

 

このことは,権力を固定化させるのには役立ちます。しかし,そうであるが故に,被支配層には,「反撃の手立て」がありません。自ら人であることをやめた者があとになって「人」であることを主張するのは矛盾です。このことは,成人年齢を引き下げたことでより強く意識されるべきでしょう。法=社会は,18歳になった者を,「自由で理性ある人(=もはやパターナリズムを働かせる必要のない人)」とみなしているわけです。

 

我々は,知らず知らずのうちに「支配」の論理に絡め捕られます。いざ自由を欲したときには,すでに自身で自由を捨てていることもある。もし「自己責任」というものがあるのだとすれば,それはこのような文脈でこそ特に意味を持ちます。自由人の対義語が奴隷だったことの意味を理解しておく必要があるはずです。


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