書くという行為は,話すことと並んで,人間の表現の基本的な部分に属しているものと思われます(他にも,描くことや振る舞うこともまた表現ですが,特に後者を表現として的確に認識・把握している人は思いのほか少ないかもしれません)。

現在には,(本ブログを含め)多くの「書かれたもの」が身の回りに増え,それは日々膨大な量で増え続けています。無論,それは(これもまた本ブログもしかりですが)玉石混交であるわけですが,話はこの「玉石混交」ということの前提にあります。

 

我々はなぜ「書く」のでしょうか。日記やメモのような個人的備忘の他は,多く「他者」を前提としています。つまり,ある種のコミュニケーションのツールとして存在しているのです。読み手はそれを自身の関心や知見に照らして評価していくものということもできるでしょう(だから,その先に,「玉石混交」という評価が生まれ得るわけです)。表現の自由の保障根拠であるところの「思想の自由市場」論はこのような理解を前提にしていたといえます。

このような論理を辿ると,その先にあるのは,書くという行為の多くは不特定多数ではあれ「誰か」という他者に向けられたものであるということです。言い換えれば,誰かに何かを伝えたい(知らせたい)ということを含まなければ,書く動機は生まれないのです。法律家は「書く」ということを運命づけられていますが,それは,「相手方当事者」や「審判者」へ自己の意思や認識を伝達することを不可欠の作業としているからです。

他方,まさに本稿がそうですが,(石になることを念頭におきながらも)備忘録あるいは思考の過程(さらには,まさしく「書く」練習)を他者に見せてしまうということもありますが,これは他者の存在を必須のものとしているわけではありません。この場合に「他者」は,「書く」という行為にとって大きな意味を持たない,ノイズのような位置づけにあるといえましょう。その意味で,強いメッセージ性は持たないと理解できます。他者はそのような書き手の備忘録や練習を覗き見ているにすぎないといえるのです(他方,これが「コメント」という形式でなされたときには,元の文章の書き手にそのコメント内容は伝わるはずですので,「他者」を前提にする強いメッセージ性を有するものといえます)。

 

無論,そういう自己のために書いたように見えるものを公開する人は少なくありませんが,それですら「他者に見てもらいたい(あわよくば,それで自己を承認してほしい)」という願望を備えている場合も少なくないでしょう。それはまさに「自己表現」としての「書く」であるわけです。しかし,本稿は純然に私自身の練習のために書かれています。そして,紙幅が尽きようとしている今,久しく書いてこなかったが故か,尻切れトンボの,論旨不明瞭な文で終わりそうだという認識だけを持ってしまいます。


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