もう少しリハビリを続けたいと思います。

 

法学の世界ではしばしば、「法の運用は厳密でなければならないため、用語も厳格に定義される」といわれます。無論、このこと自体、私からすれば、「欺瞞」が含まれていますが、「用語を厳格に定義」しようとしていることは確かです。このことは何も法学だけにとどまるものではなく、あらゆる学問分野において、それぞれの理由でもって(多くは認識の統一性を図るためでしょうか)用語の厳格さが求められているのではないでしょうか。いわば、用語の厳格さとは、それが学問であるが故に求められる、一丁目一番地なのかもしれません。

 

しかし、日常会話(あるいは日常的語用)においては、言葉の厳密さは求められませんし、むしろそれが求められてしまうと、不快感すら感じられる場合もあるのかもしれません。問題は、それがなぜか、です。我々の言葉に対する知識が不足しているからと一言で片づけるには、若干の躊躇があります。それは、語意の変遷という事態を考えたときに違和感がつきまとうからです。語意が変遷するということは、(無論、誤用から変遷することはありますが)語の持つ周辺的ニュアンスが絶えず拡大し続けた結果である場合もあるのではないかと思われるのです。このような着想に至ったのは、私自身のある「クセ」の1つです。それは、会話を拡げようとするときには、あえて語数を減らし、「いかにでも解釈できる」状態を作っているということです。つまり、受け手がどう解釈したかによって、次の一手を決めるという方法をとるのです。

このような手法は、相手に広範な解釈の余地を認めることで、いわば軋轢を生みにくくする作用があります。この場合には、会話の内容が重要視されるのではなく、むしろコミュニケーションをとることにこそ目的があるといえます。

 

もしこのようなコミュニケーション重視の態度を多くの人がとっている場合、語の厳格な定義は無用どころか、ときに障害とすらなり得ます。そして、多くの人が言葉の厳密さを要求されない世界で生きているときに、急に学問的な世界に放り込まれても、その差異を自覚することは難しいのかもしれません。例えば、定期的に銭湯に行っている人が「風呂に行ってくる」と言ったとき、その言葉は第三者には厳密性に欠けます。しかし、当人には当然、例えば同居の家族などにもそれで伝わり得るのです。それは、当人や当該の家族は特殊な文脈を有しているからであり、無自覚的に妥当な解釈が施されているにすぎません。ここで、外野が「風呂とは…」などと言い出せば、おそらく当事者は閉口してしまうでしょう。それは、仮に当事者がすれ違って、「今日はどっちなの!?」みたいな言い争いをしていたとしても、です。他方で、この事例を「解釈学的な問題」に置き換えることは容易です。しかし、日常において「解釈学的な問題」は後景に退いており、だからこそ、「解釈学的問題」に置き換えたときに、多くの人はこれを適切に処理ができなくなるのではないか、という気がするのです。


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