どうも執筆から離れてしまっていて、よくないなと思いつつも、書ける範囲のことはそれほど多くはないのだと自覚しないわけにはいられません。もしかすると、これが年内は最後の投稿でしょうか。

ーーーーー

法において、「身体」は基本的な利益の1つです。そして、利益序列の中でも、生命について第2位の地位を与えられるのが一般的です。その理由は極めて単純であり、身体への侵害は、その延長線上に「生命」への侵害をもたらし得るからでしょう。

 

しかし、このような単純な理解のみで足りるのかというと、若干の疑義があります。1つには「魂の器」としての「肉体」という理解があるからであり、もう1つには「人格の表象」としての「身体」という理解があり得るからです。無論、両者は密接に関連しており、截然と区別されるわけではないように思われますが、論理的には別物であるように思われます。1つ1つ分解していきたいと思います。

 

まず、「魂の器」としての「肉体」です。言うまでもなく、この理解は、(キリスト教が模型となるような)伝統的な西洋哲学の理解です。この理解の下では、「肉体」が傷つけられたとしても、「魂」を汚すことには直結されません。しかしながら、肉体の消滅は現世からの魂の遊離を意味するのであり、その意味で肉体には重要な役割が与えられています。

このような宗教的な理解のみを示すのであれば、「法」の話としては受け入れがたい人もいるでしょう。しかしながら、「魂」を「人格」と読み替えたとき、途端に「法」の話としての実質を持ち始めます。つまり、人格それ自体の攻撃ではなく、身体だけに対する攻撃もまた独自の意義があり、それには我々の「生物」としての生と直結するのです。

一方で、事をこれだけで捕捉するのは困難でしょう。それは、我々は、特定の宗教観を前提としない限り、肉体の消滅を人格の消滅と結合させるからです。その意味で、身体への攻撃は、時に人格への攻撃を意味することがあります。性犯罪は現況このように理解されているのではないかと思われます。

 

このようなことは、「自身の身体」に対する侵襲の場合にはわかりやすいのです。しかし、殊、自身が「他者へ」と考えたときこのイメージを持っている人は、実は多くないのではないかと思われます。よく「パーソナル・スペース」という言葉が用いられますが、他者のそれに鈍感な人が見受けられるように思われるのです。

その理由がいかなるところにあるのかは即断できないのですが、街中で人と一定距離を空けられないというような場合に、相手が「人格ある個人」であることを無視しているのではないかという疑念は拭えません。接触の危機は、時に「攻撃」を予感させるものでもあります。他者を人格ある個人として捉えることは、他者を尊重すべき個人として捉えることと同義です。そのことと「攻撃」とは基本的には対極に立ちます。

もし、このような他者を人格ある個人として捉えられないことが、実は「自身も人格ある個人である」ことへの無理解に由来するものであったとすれば、それは極めて不幸なことといわなければなりませんし、見ようによっては、「現世社会」に「生きて」いないのではないかとも思われます。仮に肥大化した自己意識はあったとしても、その「肥大化」が自他の境界線の曖昧化に由来するものなのだとしたら、実はアイデンティティ自体の形成に問題がある可能性があるように思われるのです。

ここから先は発達心理などの専門家にお任せすべきかもしれません。


人気ブログランキング