豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

白紙の私

2021-11-29 11:34:00 | 日記
こんにちは

テンションの上がらない毎日を過ごしている豊田です

今日は起きてきて、納豆と卵かけご飯と味噌汁を母親の家で食べました

新聞で一面と相撲をチラ見する

それから三国志真戦というゲーム、龍が如く5の動画、日本統一というドラマの動画を少しだけ遊んだり見たりした

久しぶりに阿部さんの、阿部敏郎さんのYouTubeを見たら、白紙の私について少しだけ語っていた

白紙の私って言葉を使ってなかったかもだけど、意味は同じだろう

私という存在は過去に作られている部分が、ある

白紙の私は、過去も現在も未来もない、無印の私のことである

小出遥子さんが以前語っていた、命としての私という言葉も同じような意味が込められているように感じる

ところが、その無印にして白紙の私に、物語、ストーリー、人生、社会的立場とか、なんとか、かんとか、様々な条件が記録されるにつれ、何者でもない私が姿を消してしまう

こういうものを完全にリセットすることで、リフレッシュして、開放的な時間を過ごすことが可能です

白紙の私、なんの記録もない私は、命としての私なので、しかも、それは、ずっと基礎的な存在として、あるわけです

ただあるとか、あるがままに、とか言いますが、要は、何者でもない私、白紙の私、というわけで、無の私、私が無いと言うような仏教の話とも、にわかに通じていそうな気がせんでもありません

ここで、心理学やら宗教、オカルト、スピリチュアル、仏教、なになに教、なんでもいいんですが、これらの言うている物語や教えなんかと、白紙の私というものを並べてみるに、おかしなことがあります

これらは記憶であり物語であるわけですから、それらの経験や記憶を過去として記している私は、白紙ではないのです

これが当たり前だ、これは真理だとか、正しいとか間違っているとか言うものさし、そーゆーのも、記憶であり経験であり過去からの蓄積物なのです

というわけで、そーゆーものの一切ない、白紙としての私、無我、真我の覚醒意識なるものに、至るには邪魔者でしかありません

そもそも、至るものではなく、ただなんの物語もない全体的意識としての命としての私などというものは、何もインストールされてない真っ白な元々の自分のことで、何かを一生懸命に身につけるようなことではないと思うのです

知らんけどw

ほいでわー、また!

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