本日のテーマ
【当たり前の感覚を潰してから見えてくるもの】
誰もが生れ育ってきた環境やスタイルがあります。
裕福な家庭で育ち何不自由しない生活をしてきた人…
中流家庭で贅沢しないけどこれといった不自由なこともなかった人…
貧しい家庭で食べるのにもの不自由した人…
馴染んできた生活のスタイルがいつの間にか自分の中では常識と捉えていることがあります。
誰でも自分の感覚で物事を見ようとします。
自分が育った環境やスタイルが当たり前、
うちではこれが当たり前…
この地域ではこれが当たり前…
日本はこれが当たり前…
というように。
しかし、この見方が偏った見方をつくってしまうことがあります。
日本人がアフリカの貧しい国に行ったとき、
信じられない、この時代にこんな生活している人がいるなんて…
老人の孤独死では、
信じられない、誰か身内の人がいるはずでしょう…
身体に障がいがある人に対し、
何でこれしきのことができないのか…
というような場面があります。
悪気ではないのですが、自分を基準に考えているから、このような発想になるのでしょう。
特に福祉や介助の仕事に携わる人はこれでは通用しません。
わたしが昔より取材でお世話になっている長崎県になる知的障がい者の施設では、教職員を志願してくる人達に対し、試験が行われるのですが、その一つに独特な試験があります。
障がい者の利用者が施設生活を終了して職業訓練校へ行く人、就職する人と巣だって行くのですが厳しい社会でも通用するよう厳しい終了考査が行われます。
「体力・精神力・協調性・社会性・責任感・健康管理・身だしなみ・積極性・生活態度」
終了候補者たちは、これらを意識して3泊4日で全行程140キロの徒歩旅行に挑戦し、この日程で140キロを歩き切るのです。
( 互いに励まし合いながら進む終了候補者。書籍『たのしく働きいきいき暮らす』より )
障がい者の皆さんは、日頃より体を鍛えているので皆が見事に完走します。
この考査に健常者である職員の志願者たちもチャレンジしますが、ほとんどが途中でリタイヤしてしまうそうです。
施設の所長は理由をこう語ってくれました。
健常者が可愛そうな人のために何かやってあげたい、そんな思いで入ってくるんです。
しかし、実際はそんな甘いものではないし、できるものではありません。
だから最初から厳しくしているのです。
障がい者は、あなた方健常者よりも勝っているんですよ。
だから、“してあげる”という上からモノを見るのではなく、彼らから学ぶんだという目線になってもらいたいのです。
そうしなければできる仕事ではないのです。
これと同じ事が、先日読んだ曽野綾子さんの著書『人間の基本』に書かれていました。
「イタリアにいる日本人から聞いた話では、入会した修道女たちの卵に、まずどこか有名な大寺院の前などで乞食をさせる修道院があるそうです。シスターの中には貧しい家の娘さんや、両親のない人もいますが、中産階級か上流家庭の生れで、日々の衣食に困ることもなく、知性も教養も学歴もあって、もちろん他人に物乞いした経験などない人がほとんどです。しかし、それが当たり前の自分だと思おうと間違えるから、あえて乞食をさせるというのです。つまりあらゆる現世の状況をはぎ取った地点を知って、神と人に仕えよ、ということなんでしょうね」
人のお世話をする立場の人が、相手の理解をしないと、相手が本当に望むこと、必要なことがわらないということなのでしょう。
自分の当たり前の感覚は社会や世界では通用しないようです。
相手を本当に理解しようと思えば、それなりに自らが経験することが必要なのですね。