親が負っている傷を連鎖させない意思と自覚があれば、その毒は軽くなります。
でも報復心や自己充足や認証願望を抑えられず、弱く言いなりの子どもや隣人に犠牲を強いて慰みにする人もいます。
子どもの愛や、純愛や、キリストを知った初めの愛は、何も疑わず、ちゃんと自分と誰かに心が養われていれば心が満たされます。
でも親がカルト化した宗教で奉仕や集会参加ばかりで、罪意識と地獄行きの裁きを教え込まれ、家族や友人関係が冷たくなり、放任・無関心のネグレクトが当然のようにされるとじわじわと染みるように自分と周り人の心の深い傷になっていきます。福音派・聖霊派の教会はその様子を見た上で「救いがすべてを解決するから」と伝道の使命を神の命令、信仰の義務としてさらに負荷を上乗せして負わせます。そこがカルト的です。
社会に出てブラックな職場で、モンスター客への対応で、人生や家族を人質に脅迫され、常識を外れた要求に応えようと命を削り、心の傷を負い続ければ精神状態はどんどん悪化します。
ブラックやカルト、毒からの自覚的な脱出者や元2世は、問題が客観視できてはっきり分かったら自分の傷の様々な反応を把握してそれ前提で動きます。まず物理的に分離して、受けてきた指示の矛盾や悪意をはっきりできたら、次は自分に必要な健全さや常識を確認し得ようとします。
でも心の傷や染み付いたこだわりや縛りは癒着して剥がすのにとても苦労します。理想の愛からあまりにも遠くて深く傷つき疲れ切って心を回復できない場合、解決のない自責他責が心で繰り返されて常に渦巻き混乱し、何人からも傷つけられ連鎖された、そのやり場のない怒りや恐れや恨みで誰か隣人をいじめて犠牲にしたい無意識の言動や衝動になる、それに気づいたら気づいたで罪の意識と絶望を抱えて、常識や社会性で抑えなければと自分に強いて疲れ苦しみ動けなくなります。心を守るためにサイコパス的に頭を使って他人に分からないように策略をめぐらせて隣人を陥れ自分を満足させる人もいます。
自分の立ち位置を見失うので、自分を肯定する何かがないかと探します。肯定していい良いものはあるのに、あまりに自己否定が固着して、心が肯定側に動けず、客観の視点に昇れません。悪ければ『自己否定する自分しか肯定できない』本当に狭い世界です。
教会のカルト化が分かって出た人は、
その教会の良心が麻痺していて、話し合いも議論もできないことを知っていて、
もう教会に進言したり助けを求めようとはしません。
その教会は「聖書に書いてある」とか「神の御心だ」とか「神の御心は誰にも分からない」「牧師や親も苦労している」という言葉で行き止まりで、ひどい場合は「目上に口答えするな」が加わり堂々巡りです。逆恨みや逆ギレで教会で言いふらしたり、牧師の説教のネタにされます。
それで結局「人こそ恐ろしいのだ」と自覚して、自分だけでも良心と愛と信頼を保つことを決意し、新たな視点や環境を求めて聡明に素直に良いものを見分けて、『依存できる永続性』など期待せず、いつも知恵と知識を絶やさないように努力し走り、危険に敏感になって進むようになれば、自立と言えます。
私の場合は、傷やこだわりの心の癒着がひどく分離不可能に思います。聖書のキリストの愛の真実は不変だと個人的に信じられたので他に選択肢もなくすがり続けて、どんな悲惨にも見捨てないで共に居る言葉を交わせる神を知ります。教会は悪くても神は悪くないし、愛であり人格的な親しい交わりができる神だと信じて、手応えを感じます。
聖書理解も、教会の教えの声ではなく、聖霊の教えが響くようになります。
悲惨と傷の深さこそ、神を得る道でした。
脱出者として信仰を健全化して保とうとする人は、表に出ませんが一定の方々がいると思います。
神に依存したいのですが、世の現実を毎日飲まされて苦い日々です。しかし、そこに神を求めるための何本もの祈り叫びが生まれます。
愛は相手の存在を欲して、実感したいと願います。神、心の友人は日々淡々と答え、振り返れば切れない絆を紡いでいます。できるだけ疑わずに求め続けるなら得られます。日々積み重ねて神や隣人を身近と知れば、触れられなくても愛は深まります。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
ヨブ記 1:21 JA1955
https://bible.com/bible/81/job.1.21.JA1955
そこでヨブは主に答えて言った、 「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。 『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。 『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。 それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
ヨブ記 42:1-4, 6 JA1955
https://bible.com/bible/81/job.42.1-6.JA1955
ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。 わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。 水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。 わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。 わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。 むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
ヨナ書 2:1-9 JA1955
https://bible.com/bible/81/jon.2.1-9.JA1955
時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ヨナ書 4:6-11 JA1955
https://bible.com/bible/81/jon.4.6-11.JA1955
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福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。