習慣を生きるな | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

何度か紹介したことのある禅の逸話、、OK

 

 

ある禅師が弟子に特別な質問をした。その質問は、まさに答えらえれるべくして、正確に答えられた。

 

次の日、師は正確に同じ質問をした。

 

 

「この質問には昨日答えましたが」 と弟子は言う。

 

「今はまた尋ねているのだ」 と師は言う。弟子は同じ答えを繰り返した。

 

 

「お前はわかっとらん!!」

 

「しかし、昨日同じように答えて、あなたは頷かれました。だからその答えは正しいと判断したのです。なぜ今度は考えを変えられたのですか?」 と弟子は言う。

 

 

師はこう言った。

 

「なんであれ、繰り返されるようなものは、お前からは来ておらん。その答えはお前の意識からではなく、お前の記憶から来ている。お前が本当に知っているなら、答えは違っていただろう。

 

多くのことが変わってしまったのだからな。わしは、昨日この質問をお前にした同じ人間ではない。状況全部が違っている。お前もまた別のものなのに、答えは同じだ。

 

わしはただ、お前が答えを繰り返すかどうか見るために、同じ質問をしなければならなかったのだ。何も繰り返すことなどできぬ」

 

 

 

 

 

さて、私たちは誰しも、「習慣を生きる」 生き物です、、この無意識の習性を、自我による (恐れ故の) 観念の吸収などと述べることもできたりもしますが、それは今回は置いといて、、

 

 

毎朝、階段を降りて、どちらに曲がれば洗面台があり、どこにトイレがあるか、自分の歯ブラシの色は何色か、車のカギの場所、通勤の経路など、、あらゆることに対する観念が自動的 (無意識) に起こり、自然と事が流れていくように展開されます、、これはある面、「恩恵」 ともとらえられる一方、、私たちの日常は、別名、「習慣」 と言っても過言ではありません、、

 

 

もちろん、こうしたことは、私たちにプログラムされた、「機能」 であり 「習性」 であるわけですから、それらをすべて投げ捨ててしまおうなどと思う必要もありませんし、というよりもむしろそんなことは土台無理な話です、、

 

けれども、禅の教えでしばしば説かれるのは、私たちのこの無意識的な観念の作用に対して、それが起きているときにしかと意識的であらねばならないということです、、無意識に流され、観念のままに、習慣のままに生きていたのでは、本当の意味で、「今を生きてはいない」 とするのが禅の立場です、、ダルマ

 

 

実際、観念を生き、習慣を生きるというのは、先の禅の逸話にもあるように、「過去 (記憶) を生きている」 に他ならず、それは言ってしまえば、意識も身体も今に居ながらに、頭だけが夢 (幻想) を見ているようなものなのです、、

 

 

ですから、大切なのは、、その瞬間に、習慣 (観念) が起きているときに、それが起きていることをしかと観ていられる眼を持つということであり、その眠りから覚め、今に戻り、今ここを新しく生きるということです、、あし

 

 

 

禅の修行はまさに、このことだけにとことんまでに注力していると言って良いでしょう、、こうした 「今ここを生きる」 を徹底していくことで、観念のモヤ (メガネ) は徐々に取り払われ、クリアで生き生きとしたエネルギッシュな在り様へと身心ともに蘇ると言って良いでしょう、、カエル

 

 

 

え?なぜかって、、それはもちろん、私たちもまた 「今ここ」 のエネルギーそのものだからです、、合格

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星