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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2024年03月29日
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カテゴリ:霊魂論
ルドルフ・シュタイナー(GA230)
創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間
Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes(翻訳者:yucca)
第5講    1923年10月27日  ドルナハ
・蝶、鳥による地球素材の霊化
・蝶は生きている間に、鳥は死ぬときに、霊化した地球素材を宇宙にもたらす
・蝶と鳥の世界を通じて地球は宇宙に霊化された素材を放射する
・星は無機的なものではなく、生命あるもの、霊化されたものの結果
・蝶は光エーテルに、鳥は熱エーテルに属する
・鳥は呼吸を通じて体内の空気に熱を生み出す
・蝶の呼吸と高等動物の呼吸
・蝶は光の生きもの、鳥は空気の生きもの
・コウモリは黄昏の動物、地球の重さを克服できない
・蝶は宇宙の記憶、鳥は宇宙の思考、コウモリは宇宙の夢
・コウモリは霊的実質を宇宙空間ではなく空気中に分泌する
・コウモリの分泌の残存物を人間が吸い込むことにより龍が人間に支配力を行使する
・ミカエル衝動によるその防御
 この連続講義は、宇宙の現象と宇宙の本質の内的連関を扱っておりますが、皆さんはすでに、外的な現象界にしか目を向けないひとにはさしあたり予想もつかないようなさまざまなことが判明するのをごらんになりました。私たちが見てきたのは、根本においていかなる存在のありかたも私たちはこれを二、三の例で示しましたが、その課題を宇宙的現存の連関全体のなかに有している、ということでした。さて今日は、すでにお話しした存在のありかたをいわば要約しつつもう一度ながめ、ここ数日間私が蝶についてお話しして参りましたことに注目してみましょう。私は植物の本質に対立するもののなかにまさに蝶の性質を展開いたしました、そして私たちは、蝶とは本来光に属するもの、外惑星、つまり火星、木星、土星の力によって修正されたうえでの光に属するものであると語ることができたのです。したがって私たちは本来、蝶をその本質において理解しようとするなら、宇宙の上方の領域を見上げてこう言わざるを得ないのです、宇宙のこの上方の領域が蝶の本性を地球に贈り、蝶の本性を恵みとして地球に授けたと。さて、この地球に与えられた恵みはさらにずっと深くまで達するものだ、と申し上げたいのです。思い起こしてみましょう、私たちはこう言わざるを得ませんでした、蝶は本来地上での生存に直接参加しておらず、太陽がその熱と輝きの力をもってまさに地上での生存のなかで働いているその範囲内において間接的に参加しているのみである、と。しかも蝶はその卵を、それが太陽の領域から抜け出さないところに、太陽の効力の領域内にとどまるところに産みつけます、つまり蝶は本来その卵を、地球ではなく太陽にのみ委ねるのです。それから火星作用の影響下にある幼虫が這い出してきます、むろん太陽作用は相変わらず存在しています。そして、木星作用の下にあるさなぎが形成されます。さなぎから蝶が這い出してきます、これは、その色彩のきらめきのなかで、土星の力とひとつにされた太陽の輝きの力であることができるものを、地球の周囲に再現しているのです。このように本来私たちは、地球存在(状態)の内部、地球存在(状態)の周囲に、土星の効力が蝶存在のさまざまな色彩のなかで直接活きているのを見ます。けれども、宇宙生存にとって問題となる実質というのは、二重のものであるということも思い出されます。私たちは純粋に素材的な地球の実質を扱いますし、霊的実質も扱います、私は皆さんに申しました、奇妙なことに、人間はその新陳代謝組織に関しては霊的実質を根底に有している一方、人間の頭、頭部の根底を成しているのは、物質的実質である、と。人間の下部の性質においては、霊的実質が、物質的な力作用、重さの作用、その他地上的な力作用に浸透されています。頭においては、地上的実質、つまり新陳代謝全体、循環、神経活動その他を通して人間の頭へと上に運ばれた地上的実質が、私たちの思考や私たちの表象のなかに反映されている超感覚的、霊的な力に浸透されているのです。したがって私たち人間は頭のなかには霊化された物質的素材(vergeistigte physische Materie)を持ち、新陳代謝ー四肢組織のなかには、地上化され、こういう言葉を作ってよろしければ、地上化された霊的スピリチュアルな実質性(verirdischte geistig-spirituelle Substantialitaet)を有しているのです。さて、この霊化された素材(マテーリエ)はとりわけ蝶存在のなかに見出されます。蝶存在はそもそも太陽の存在領域にとどまることによって、地上的素材を自らのものとします、むろん比喩的に言っていわばもっとも微細なちりのような状態でのみですが。蝶は地上的素材をもっとも微細なちりのような状態でのみ自らのものにするのです。蝶はまた太陽に加工された地球の実質から食物を調達します。蝶が自身の本質と結びつけるのは、太陽に加工されたもののみです、蝶はあらゆる地上的なものからもっとも精妙なものをいわば選び出し、それをもっとも完全に霊化してしまうのです。蝶の翅(はね)に注目するなら、実際のところ、その根本にあるのはもっとも霊化された地球素材(Erdenmaterie)なのです。蝶の翅の素材が色彩に浸透されることにより、蝶の翅はもっとも霊化された地球素材なのです。蝶とは本来、霊化された地球素材のなかでのみ生きている存在です。しかも霊的に見てわかることですが、蝶は、自らの色彩豊かな翅(はね)のまんなかの胴体をある意味で軽蔑しています。なぜなら、蝶の全注意力、蝶の全集合魂は、もともと自らの翅の色彩を喜び享受することに安んじているからです。その翅のきらめく色彩に驚嘆しつつ蝶を追いかけることができるのと同様に、これらの色彩に対する舞い飛ぶ歓喜に驚嘆しつつ蝶を追いかけることもできます。これは根本的に子供のときに開発されているべきことです、空中をひらひらと飛び交う霊性、本来舞い飛ぶ歓喜である霊性に対するこの喜び、色彩の戯れに対するこの喜びは。この点において蝶的なものはまったく驚くべきしかたでニュアンス付けされています。そしてこれらすべての根底にはまた別の何かがあります。私たちは、鷲に代表されているのを見た鳥について、こう言うことができました、鳥はその死に際して霊化された地球実質を霊界へと運び去ることができる、鳥は、鳥として地球素材を霊化し、人間が行なうことができないことを行なうことによって、宇宙での生存における課題を果たしていると。人間もその頭のなかで地球素材をある程度までは霊化したのですが、人間はこの地球素材を、死と新たな誕生との間生きていく世界のなかに携えていくことはできないのです、と申しますのも、頭のなかのこの霊化された地球素材を霊界へと持ち込もうとすれば、人間は止むことなく、言語を絶した耐え難い破壊的な苦痛に耐えなければならないでしょうから。鷲によって代表される鳥の世界はこれを行なうことができます、ですから実際のところこれによって、地上的であるものと地球外のものとの間に関係が生み出されるわけです。地上的素材はまずいわばゆっくりと霊のなかへと移されます、そして鳥類は、この霊化された地上素材を宇宙万有に委ねるという課題を有しているのです。ですから、いつか地球がその存在(状態)の終わりに到達したとき、こう言うことができるでしょう、これらの地球素材は霊化された、鳥類は、霊化された地球素材を霊の国に戻すために、地球存在(状態)の経済全体の内部にいたのだと。蝶に関してはいくらか事情は異なっています。蝶は鳥よりもさらに多く地上の素材を霊化するのです。鳥は何と言っても、蝶よりもずっと大地の近くにいるという状態にあります。このことは後ほどお話ししましょう。けれども蝶は太陽領域をまったく去らないということによって、その素材を、鳥のように死ぬときになってようやく、というのではなく、まだ生きているうちに、霊化された素材を絶えず地球の周囲に、宇宙における地球の周囲に譲渡するほど、それほど霊化することができるのです。ひとつ考えてみてください、私たちが地球を、つまり、きわめてさまざまに飛び交う蝶の世界に貫かれ、この蝶の世界が宇宙に譲渡する霊化された地球素材を絶え間なく宇宙空間に放射している、そういう地球を思い浮かべることができるとき、宇宙の全経済のなかにはほんとうに何と偉大なものがあることか。こうして私たちは、地球の回りのこの蝶の世界の領域を、このような認識により、まったく別の感情をもって観察することができるのです。私たちがこのひらひらと舞い飛ぶ世界のなかをのぞき込むことができると、こう言うことができます、お前たち舞い飛ぶものたちよ、お前たちは太陽光よりも良いとさえいえるものを発するのだ、お前たちは霊光を宇宙へと放射するのだ、と。実際霊的なものは私たちの唯物論的な科学からはほとんど考慮されません。そのため、こういう唯物論的な科学には実際、宇宙経済(Weltoekonomie)の全体に属するこういう事柄にどうにか行き着く手がかりはまったくないのです。とは言え、物理的作用が存在するのと同様、宇宙経済も存在します、しかも宇宙経済は物理的作用よりも本質的なのです。と申しますのも、霊の国に放射されるもの、これは、地球がとっくに崩壊してしまっても、作用し続けるからです、今日、物理学者、化学者が構成するものは、地球存在とともにその終結を見るでしょう。したがって、ある観察者が外部の宇宙に座して長い間観察するとしたら、そのひとは見るでしょう、霊物質が霊の国へと、つまり霊的になった物質が霊の国へと絶え間なく放射するような、そのような何ごとかが起こるのを見るでしょう、地球が自身の本質を宇宙空間へと、宇宙へと放射するのを、そして、迸(ほとばし)る火花、輝きを発し続ける火花さながら、鳥類が、鳥のすべてが、その死後に輝かせるものが、今やこの宇宙万有へと光線の姿で放射していくのを、蝶の霊光のきらめきと鳥の霊光の迸りを、見ることでしょう。これはしかし、同時に次のようなことにまで注意を導きうるであろうことです、つまり今や別の星界に目を向けるなら、分光器が示すものが、あるいはむしろ、分光学者が分光器のなかに夢想するもののみが、そこから放射されてくると信じるべきではなく、地球から宇宙空間へと放射されるものが生きものの結果であり、それと同様に、別の星界から地球へと放射されてくるものもまた別の世界の生きものの結果である、ということにです。私たちはある星を見て、今日の物理学者とともに、発火した無機的な炎とかそれに類するものを想定します。これもちろんまったくナンセンスです。と申しますのも、そこに見られているものは、まったくもって、生命を与えられたもの、魂を与えられたもの、霊化されたものの結果だからです。
挿入図:Kosmische Erinnerungen:宇宙の記憶・Kosmisches Denken:宇宙の思考・Kosmische Traeume:宇宙の夢(Fledermaus:コウモリ)



 さて私たちは、こう申してよろしければ、地球をぐるりと取り巻いているこの蝶の帯から、もう一度鳥類へと入って行きましょう。私たちがもう知っていることを思い浮かべますと、境を接した三つの領域が得られます。その上部には別の領域があり、その下にもまた別の領域があります。私たちは光エーテルを有し、私たちは熱エーテルを有しますが、これには本来二つの部分、二つの層があります、一方は地上的な熱層、他方は宇宙的な熱層であり、これらは絶えず浸透し合っています。実際のところ私たちは一種ではなく二種類の熱を有しているのです、地上的、地球的な起源である熱と、宇宙的起源である熱です。これらは絶えず互いに浸透し合っています。さらに熱エーテルに接して空気があります。続いて水と地が、上方には化学エーテルと生命エーテルが来るでしょう。さて、今蝶類を取り上げてみますと、蝶類は主として光エーテルに属していて、光エーテルそのものが、輝きの力が蝶の卵から幼虫を引き出すための手段なのです、輝きの力は本質的に幼虫を引き出します。鳥類の場合はもうこれは当てはまりません。鳥たちは卵を産みます。この卵は熱によって孵されねばなりません。蝶の卵はもっぱら太陽の本性に委ねられますが、鳥の卵は熱の領域まで至ります。鳥は熱エーテルの領域に存在します、単なる空気であるものを鳥は本来克服しているのです。蝶も空中を飛翔します、けれども蝶は根本的にまったき光の被造物です。そして、空気が光に浸透されることで、蝶はこの光ー空気存在(状態)の内部で、空気存在(状態)ではなく、光存在(状態)を選び取ります、空気は蝶にとって運び手にすぎません。空気は蝶がいわばその上を漂っていく波浪ですが、蝶のエレメントは光なのです。鳥は空中を飛翔します、けれども本来鳥のエレメントは熱、空気中のさまざまなニュアンスの熱であり、鳥はある程度空気を克服しています。鳥もまた実際内的には空気存在でもあります。鳥はかなりな程度空気存在なのです。ひとつ哺乳動物の骨、人間の骨をごらんください。それは髄で満たされています。なぜ髄で満たされているかについてはさらにお話ししていくでしょう。鳥の骨は空洞で空気にのみ満たされています。したがって、私たちの骨の内部にあるものを観察する限り、私たちは髄的なものから成っており、鳥は空気から成っています、鳥の髄的なものは純粋な空気なのです。鳥の肺を考えてみると、皆さんはこの鳥の肺のなかに肺から出ている多数の袋を発見されるでしょう、これらは空気袋なのです。鳥が吸い込むとき、鳥は単に肺のなかへと吸い込むだけでなく、この空気袋のなかへと空気を吸い込みます、そして空気はこの空気袋から空洞の骨のなかへと入っていくのです。したがって、鳥から筋肉も羽根もすべて外し、骨も取り去ることができるとしたら、空気から成る動物がなおも得られるでしょう、この動物は、内部の肺を充填するものとすべての骨の内部を充填するものの形(フォルム)を有しています。これを形(フォルム)において思い浮かべれば、まさしく鳥の形が得られることでしょう。筋肉ー骨鷲(Fleisch- und Beinadler)の内部に空気鷲(Luftadler)がおさまっているのです。さてこれは、単にまだ内部に空気鷲が存在するからという理由でのみそうなのではありません、鳥は呼吸します、呼吸を通じて鳥は熱を生み出します。この熱を、鳥は、鳥が今やそのすべての肢のなかに押し込んでいる空気に伝えるのです。ここで、外部環境に対して熱差が生じます。鳥はここに内熱を、ここに外部の熱を有します。空気の外的な熱と、鳥が自身の内部の空気に与える熱との間のこの水準差、この水準差のなかに、つまり熱の、熱のエレメントの内部の水準差のなかに、本来鳥は生きているのです。そしてしかるべきやりかたで皆さんがもし、そもそも鳥の体はどういう状態なのか、鳥にお尋ねになるとしたら、鳥は皆さんに答える。皆さんが鳥の言葉を解されるなら、鳥が答えることはおわかりになるでしょう、そして皆さんに明らかになるでしょう、鳥は堅く実質的な骨について、そして通常自らが担っているものについて語っているのだ、つまり、たとえば皆さんが、トランクを左右に持ち背中と頭の上にも乗せているときのように、自分が担っているものについて語っているのだと。トランクを持っているときは皆さんにしても、これは私の身体だ、右側のトランク、左側のトランクその他は私の身体だとはおっしゃいません。皆さんが、自分が荷物として担いでいるものについて、自分の身体について語るように語ることはほとんどなく、自分が担いでいるものとして語るように、ちょうどそのように、鳥は自分について語るとき、単に鳥によって暖められた空気について語るのです、鳥が地上での生存において担っている荷物とは違うものについて語るのです。この骨、こういう本来の鳥の空気体を覆っているこの骨は、鳥の荷物なのです。したがって私たちはまったくもってこう言わなければなりません、根本的に言って鳥はまったく熱エレメントのなかで生きている、そして蝶は光エレメントのなかで生きている、と。蝶にとっては、蝶が霊化する物質的実質であるものはすべて、霊化以前にはそもそもまさに荷物ですらなく、建物の設備とでも言ってよいものです。これは蝶からさらに遠く離れているものなのです。つまり、この領域まで、この領域の動物のところまで上昇することで、私たちは、私たちが決して物質的なしかたで判断してはならないものに到達するのです。私たちがこれを物質的なしかたで判断すれば、それはたとえば、私たちがひとりの人間を次のように描こうとするときのようなものです、つまりその髪の毛が頭にかぶっているもののなかへと生えていくように描いたり、そのひとのトランクが両腕と合体し、背中にそのひとがリュックサックとして背負っているものが付いているように、その結果、あたかもリュックサックが後ろへ成長していったかのように背中に瘤をつけてしまう、という具合に描こうとするときのような。私たちが人間をこのように描くとすれば、これはひとが画家として鳥について本来抱いている想念に当たります。それはまったく鳥ではありません、それは鳥の荷物なのです。本来、鳥もまた、あたかも自分がこのひどく重い荷物をひきずっているように感じています、と申しますのも、鳥は率直に、まったく重荷などなく、暖かな空気動物として、世界をめぐってさすらいをして行くことを一番望んでいるのですから。それ以外のことは鳥にとって重荷なのです。そして鳥は、貢ぎ物を宇宙存在(状態)へともたらします、死ぬときに、この重荷を霊化し霊の国へと送り込むことによってです、蝶はまだ生きているうちにこれを行ないます。よろしいですか、鳥は私が皆さんにお話ししましたようなしかたで呼吸し、空気を用います。蝶の場合これはまた異なっています。蝶はそもそも、いわゆる高等動物と言われているものが有しているようなそういう装置によって呼吸しているのではありません、高等動物というのは実際嵩高 動物なのであって、本当は高等動物などではないのです。蝶は本来、その外側の覆いから内部に入り込んでいる管を通してのみ呼吸します、この管がいくらか膨らまされ、それで蝶は飛んでいるときに空気を貯えることができます、それで蝶は常に呼吸しなくてすむようになっているのです。蝶は本来いつも、蝶の内部に入り込んでいる管を通じて呼吸します。内部に入り込んでいる管を通じて呼吸することによって、蝶は、吸い込む空気と共に、空気のなかにある光も同時に体全体へと取り入れることが可能なのです。ここにもまた大きな違いがあります。
挿入図:肺(lung)



 図式的に示しますと、高等動物を思い浮かべてください、これは肺を持っています。肺の中へと酸素が入ってきて、心臓を迂回してここで血液と結びつきます。血液は、こういう嵩高い動物の場合それに人間の場合もですが、酸素に接触するためには心臓と肺に流れ込まなければなりません。蝶の場合、私はまったく別様に示さなければなりません。この場合次のように示さなくてはならないのです、つまりこれが蝶だとすると、このいたるところに管が入り込んでいます、これらの管がさらに枝分かれしていきます。そして今度は酸素がいたるところに入って行って酸素自身も枝分かれします、空気が体内のいたるところに侵入するのです。私たちの場合もいわゆる高等動物の場合も、空気は単に空気としてのみ肺まで入ってきます、蝶の場合、外部の空気は光を携えたその内容と共に体内全体に広がるのです。鳥は空気を空洞になっている骨の内部まで行き渡らせます、蝶は単に外部に向かってのみ光動物なのではありません、蝶は空気に担われてきた光を体全体にくまなく行き渡らせます、ですから蝶は内的にも光なのです。私が皆さんに、鳥は本来内的に暖められられた空気であるということを描写できるなら、蝶は本来まったき光です。蝶の体もまた光から出来ているのです、そして熱は蝶にとっては本来重荷であり、荷物です。蝶はまったくもって光のなかを舞い飛び、その体を完全に光から作り上げます。そこで私たちは、蝶が空中をひらひら飛ぶのを見るとき、ほんとうは単なる光の生きもの(Lichtwesen)が飛んでいると見なければならないでしょう、自らの色彩を、自らの色彩の戯れを喜ぶ光の生きものです。他のものは衣装であり荷物なのです。地球の周囲の存在たちが本来何から成り立っているかということにまず向かわなければなりません、と申しますのも、外見的な現われはひとを欺くからです。今日表面的にあれこれのことを学んだひとたち、そうですね、東洋の叡智から学んだひとたちは、世界はマーヤ(仮象、幻影 /Maja)であるということについて語ります。しかし、世界はマーヤである、と言うなら、それはほんとうに何にもなりません。どういうふうに世界がマーヤであるのかを個々の部分において見ていかなければなりません。マーヤということを理解できるのは、鳥は本来その本質においては外面的に現われているような姿に見えるのではなく、空気の生きもの[Luftwesen]なのだということを知るときです。蝶はそこに現われているような姿にはまったく見えません、蝶は光の生きものです、飛び交い、本質的に色彩の戯れへの喜びから出来ている光の生きものです、あの色彩の戯れ、地上のちりのような素材が色彩に貫かれ、それによって霊的な宇宙空間への、霊的宇宙への霊化の最初の段階であることで蝶の翅に生じている、あの色彩の戯れへの喜びです。よろしいですか、ここで皆さんはいわば二つの段階を得られたわけです、この地球の周囲の光エーテルに住まうものである蝶、そしてこの地球の周囲の熱エーテルに住まうものである鳥です。今度は三番目の種類です。私たちが空気まで下降すると、そこであの生きものに行き着きます、この地球進化のある特定の時期、たとえば月がまだ地球とともにあり、月がまだ地球から分離していなかった時期にはまだまったく存在することができなかった生きものです。ここで私たちがたどり着く生きものは、なるほどやはり空気の生きものであり、すなわち空中で生きてはいるけれども、本来すでにもう、地球に固有のもの、地球の重さに完全に接触している生きものです。蝶はまだまったく地球の重さに接触していません。蝶は喜々として光エーテルのなかを舞い飛び、自分を光エーテルから生まれた被造物だと感じています。鳥は、空気を体内で暖め、そうして暖かい空気があることによって重さを克服します。暖かい空気が冷たい空気に運ばれるのです。鳥はまだ地球の重さを克服しているのです。なるほどその素性からすればまだ空中で生きざるを得ないけれども、空洞の骨ではなく、髄に満たされた骨を持っており、鳥が持っているような空気袋も持っていないので、地球の重さを克服できない動物、こういう動物はコウモリです。コウモリというのはまったく奇妙な動物です。コウモリは、その体の内部のものによって地球の重さを克服することはまったくできません。コウモリは蝶のように光さながらに軽やかではなく、鳥のように熱さながらに軽いというわけでもありません、コウモリはすでに地球の重さに屈し、すでに筋肉と骨のなかに自らを感じてもいるのです。したがってコウモリにとって、たとえば蝶を作り上げていて蝶がまったくもってそのなかで生きているエレメント、この光のエレメントは快適ではありません。コウモリは黄昏を好みます。コウモリは空気を用いざるを得ませんが、空気が光を担っていない場合の空気をもっとも好むのです。コウモリは黄昏に身を委ねます。コウモリは本来黄昏の動物なのです。コウモリが空中で身を支えることができるのは、コウモリがいささかカリカチュア風に見えるとでも申し上げたい翼、それは実際ほんとうの翼ではなく広げられた皮膚、伸ばされた指の間に広げられた皮膚、パラシュートを有していることによってのみなのです。これによってコウモリは空中で身を支えます。これによってコウモリは、重さそのものに、この重さに関係あるものを対重(釣り合い重り/Gegengewicht)として対置することで、重さを克服するのです。けれどもそうすることによってコウモリは完全に地球の力の領域に係留されます。そもそも物理的ー機械的構成に従って蝶の翅をそう難なく構成することは決してできません、鳥の翼もです。それは決してうまくいかないでしょう。けれどもコウモリの翼、これは皆さんが地上的な力学と機械学で完全に構成することができます。コウモリは、光、光に浸透された空気を好みません、せいぜい光が少しだけ残っている黄昏の空気を好むくらいです。コウモリが鳥と区別されるのは、鳥は見るとき、本来いつも、空中にあるものを目を向けるということによってです。ハゲワシでさえ、子羊を見るとき、子羊が気圏の端にいるもの、上から見ると、地面に接したように描かれたものであるというように知覚します。しかもおまけに、これは単に見ることではなくて欲望です、皆さんはこれを感じ取られることでしょう、子羊めがけて向かってくるハゲワシの飛行、欲求と意志と欲望のまぎれもないデュナーミク(力学)であるこの飛行を実際にごらんになるときに。蝶は地上にあるものを、総じて鏡に映っているように見ています、蝶にとって地球はひとつの鏡なのです。蝶は宇宙のなかにあるものを見るのです。皆さんが蝶がひらひらと飛ぶのをごらんになるとき、ほんとうは次のように思い浮かべなければなりません、地球に蝶は注意を払わない、地球は鏡なのだと。地球は蝶に、宇宙のなかにあるものを映し出します。鳥は地上的なものを見ませんが、空中にあるものは見ます。コウモリにいたって初めて、自分が飛行して横切っていくもの、飛行して通過していくものを知覚し始めます。コウモリは光を好まないので、本来自分が見るすべてのものに接触されるのが不快なのです。ですから、蝶と鳥は非常に霊的なしかたで見るということができます。上から降りてきた最初の動物、地上的なしかたで見なければならない動物は、この見るということに触れられるのが不快です。コウモリはこの視覚を好みません、したがってコウモリは、自分が見るものと見たくないものに対する具現化した不安とでも申し上げたいものを持っています。コウモリはもののかたわらをさっとかすめていきたいのです、見なければならないけれども見たくないというふうに。そんなふうにいたるところでさっと身をかわしたいのです。コウモリはそのように身をかわしたいがために、すべてのものにあれほど驚異的に耳をすましたいのです。事実コウモリは、この飛行がどうかして危険にさらされないかどうか、絶えず自分の飛行に耳をすませている動物です。コウモリをよくごらんください。皆さんは、コウモリの耳が宇宙の不安に適合させられていることを見て取ることがおできになるでしょう。これがコウモリの耳なのです。これはまったく奇妙な形成物です、これは世界をひそかに通過していくこと、宇宙の不安に正確に適合させられています。これらすべては、コウモリを今私たちがそれを据えた関連のなかで観察するときに初めて理解されるのです。ここでもう少し言っておかなくてなりません。蝶は霊化された素材を絶え間なく宇宙に与えます、そして蝶は土星作用のお気に入りです。さて、思い出してください、私はここで、土星はこの太陽系の記憶の大いなる担い手である(☆1 *1)と申し上げました。蝶はこの惑星の想起能力とまさに関連しています。これらは、蝶のなかに生きている想起的思考なのです。鳥は、これもすでに皆さんに申し上げたことですが、全体として本来一個の頭であり、そして宇宙空間を貫いて飛翔していくこの熱に浸透された空気のなかで、鳥は本来生きて飛翔する思考なのです。私たちが私たちのうちに思考として持っているもの、実際熱エーテルとも関連しているものは、私たちのなかの鳥の本性、鷲の本性です。鳥は飛翔する思考なのです。コウモリはしかし飛行する夢、飛行する宇宙の夢です。したがって皆さんはこう言うことができます、地球は蝶によって織りめぐらされている、蝶は宇宙の記憶である、そして鳥類については、鳥類は宇宙の思考である、そしてコウモリについては、コウモリは宇宙の夢、宇宙の夢みることである、と。コウモリとして空間をばたばたと通り過ぎていくのは、実際のところ飛行する宇宙の夢なのです。夢が黄昏の光を愛するように、宇宙はコウモリを空間を通過していかせることによって黄昏の光を愛します。記憶という持続的な思考、私たちはこれが地球を取り巻く蝶の帯のなかに具現されているのを見ます、現在のなかに生きている思考は、地球を取り巻く鳥の帯のなかに見ます、夢は地球の周囲に飛び回るコウモリとして具現しているのを見るのです。でもどうか感じとってください、私たちがこのように正しくそのフォルムへと深く入っていくとき、コウモリをこのように見ることは何と夢を見ることに親和性があることか。コウモリを、次のような考えが浮かんでくるという以外の見方はできません、お前はやはり夢を見ている、けれどもそれは本来ここにあるべきではない何かだ、夢が通常の物質的現実から出てくるように、自然(界)の別の被造物から出てきた何かだ、と。つまり私たちはこう言うことができます、蝶は霊化された実質を生きているうちに霊の国へと送り込む、鳥は死後にそれを送り出す、と。さてコウモリは何をするのでしょう。コウモリは、霊化された実質、とりわけ、個々の指の間に張られた皮膚のなかに生きているあの霊的実質を、生存中に分泌します、しかしそれを宇宙に委ねるのではなく、地球の大気中に分泌するのです。それによって絶え間なく地球の大気中に霊の真珠、とでも申し上げたいものが生じます。さてこのように地球は、放射していく蝶の霊素材の持続的なきらめきに取り巻かれ、死にゆく鳥から発するものが迸っていくのですが、コウモリがそこで自分が霊化したものを分泌した空気、この空気中の奇妙な含有物が地球へと反射されてきます。これらは、コウモリが飛んでいるのを見るときいつも見られる霊の形成物です。事実、コウモリはいつも彗星のように背後に尾のようなものを付けています。コウモリは霊素材を分泌しますが、それを送り出さず、物質的な地球素材のなかに押し戻します。コウモリはそれを空中へと押し戻すのです。物質的なコウモリが飛ぶのを物質的な目で見るように、このコウモリに相応する霊的形成物が空中を飛んでいくのを見ることができます、これは空間をばたばたとよぎっていきます。そして私たちが、空気は酸素、窒素、その他の構成要素から成り立っていると知るとき、それがすべてではありません、空気はそれに加えて、コウモリの霊的影響から成り立っているのです。どれほど風変わりで逆説的に聞こえようと、コウモリのこの夢の類は空気中に小さな幽霊たちを送り込むのです、それらはやがてひとかたまりに一体化します。地質学では、大地の下にあってまだどろどろの粥状の岩石の塊であるものをマグマと呼びます。コウモリの分泌物に由来する空気中のマグマについても語ることができるでしょう。本能的な霊視がまだ存在していた古代においては、人間たちはこの霊マグマに対して非常に敏感でした、ちょうど今日でも、より物質的なもの、たとえば悪臭に敏感なひとたちがいくらかいるように。ただ、これは何かもっと下賎な、とでも申し上げたいものとみなすことができるでしょう、他方、古代の本能的な霊視者の時代においては、人間たちはコウモリとして空中に存在するものに対して敏感だったのです。人間たちはこれから身を守りました。いくつかの秘儀のなかには、このコウモリの残存物が人間に支配力をふるわないように、人間が自らを内的に遮断するためのまったく特定の呪文がありました。と申しますのも、人間である私たちは空気とともに単に酸素と窒素だけを吸い込むのではなく、私たちはこのコウモリの残存物も吸い込んでいるからです。ただし、今日の人類はこのコウモリの残存物から身を守ることを目指してはおらず、場合によっては、たとえば匂いに対して、と私は申し上げたいのですが、とても敏感である一方、コウモリの残存物に対してはきわめて鈍感なのです。人類はこれを飲み込みます、そしてその際何か吐き気のようなものすら感じることなく、と言えます。これはまったく奇妙なことです、それ以外ではとても神経質な人々が、私がここでそれについてお話ししたものを、せっせと飲み込むというのは。しかしこれはこうして人間のなかにも入っていきます。これは物質体とエーテル体には入っていきませんが、アストラル体のなかに入っていきます。さて、ごらんのように、ここで私たちは奇妙な連関にたどり着きました。秘儀参入学はまさに、至るところで連関の内部にまで入り込んでいきます、つまりこれらのコウモリの残存物は、私が連続講演においてここで皆さんに龍として描写いたしましたものにもっとも欲される食物なのです。ただ、これらコウモリの残存物は、最初に人間のなかに吸い込まれざるを得ません。そして人間がその本能をこれらのコウモリの残存物に浸透させるとき、龍は人間の本性のなかにその最良の拠り所を得ます。コウモリの残存物が人間の内部で撹乱するのです。そして龍はこれを貪り喰いそれによって太ります、もちろん霊的に語ればですが、そして龍は人間に対して支配力を得ます、さまざまなしかたで支配力を獲得するのです。そしてこれは、今日の人間もまた身を守らなければならないことです。ミカエルと龍の闘いの新しい形としてここで描写されましたものによって、防御がなされねばなりません。ミカエル衝動をここで描写されましたように(*2)受け入れるときに、人間が内的に力づけられつつ得るもの、これが、龍が得ようとする食物から人間を守ります、そうすれば人間は大気圏内のきわめて不当なコウモリの残存物から身を守ることができるのです。内的な宇宙連関から引き出されうる真実を前にして決して尻込みしてはなりません、この内的な宇宙連関にほんとうに深く入り込んで行こうとするならです。と申しますのも、今日一般によく知られている真理探求者の形式は、まったくいかなる真実のものにも導くことはなく、たいていは夢みられたものですらない何か、まさにマーヤにしか導かないからです。真実は、物理的存在といえどもすべて霊的存在に浸透されているのが見られる領域においてこそぜひとも探求されねばなりません。そこにおいて真実に近づくことができるのは、今この連続講義においてなされているように真実を観察するときのみです。どこかに存在しているものは、何か善いものか、何か悪しきもののために存在しています。すべては、それぞれが他の存在とどう関連しているのか認識できるようなしかたで宇宙連関の内部に置かれているのです。唯物論的な考え方のひとにとって、蝶は飛び、鳥は飛翔し、翼手類、つまりコウモリは飛びます。しかしこれはほとんど、あまり芸術センスのないひとに見られることですが、自分の部屋いっぱいに、互いにばらばらの、内的な関連のまったくないありったけの絵画を掛ける、という場合のようなものです。通常の世界観察者にとって、世界(宇宙)を飛んでいくものも、何ら内的な連関を有しておりません、そういうひとにはそれが見えないからです。けれども、宇宙におけるすべてのものは、自らの場所に立っています、なぜなら、それらはその場所から、まさに宇宙の全体性との内的連関を有しているからです。蝶であれ、鳥であれ、コウモリであれ、すべては宇宙のなかに何らかの意味を伴って置かれているのです。今日このようなことを嘲笑したいひとは、嘲笑すればよろしい。こういうひとたちは、嘲笑に関してすでに別のこともやり遂げました。著名なアカデミー会員たちがこういう判断を発表したのです、隕石などというものは存在しない、なぜなら天から鉄が落下することはできないから云々、と。わたしが今日お話ししましたようなコウモリの機能について、このひとたちが嘲弄しないなどとどうして言えるでしょう。とは言え、実際に私たちの文明を霊的なものの認識で貫くという点において、こういったことすべてが(これを)揺るがすことは許されません。
参照画:Giant golden-crowned flying fox



□編註
☆1 土星は記憶の大いなる担い手:詳細はシュタイナーの1923年7月27日の講義(『秘儀参入学と星認識』[Initiationswissenschaft und Sternenerkenntnis] GA228)参照。
□訳註
*1 GA228『秘儀参入学と星認識』の第1講(1923年7月27日)によれば、土星は太陽系の生き生きとした記憶、木星は宇宙の創造的、受容的思考、火星は言語の衝動に関係する。金星は地球から発するすべてを愛に満ちて宇宙に返す。水星は宇宙的思考、月は遺伝の力の担い手。火星、木星、土星は人間を解放する惑星、金星、水星、月は運命を定める惑星。これらの惑星の間にあって、調和を創り出すのが太陽。
*2 ミカエルと龍の闘い、ミカエル衝動:すぐ前の時期に行なわれた、GA229「四つの宇宙的イマジネーションにおける四季の体験」(1923年10月3日から10月15日)などの内容と関連していると思われる。第1講の編註 ☆1も参照。*邦訳は「四季の宇宙的イマジネーション」(西川隆範訳 水声社)

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最終更新日  2024年03月29日 07時08分01秒
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