”秋山なお”の美粒ブログ

”秋山なお”の美粒ブログ

音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

 カーボンナノチューブ、1980年から1990年にかけて、飯島教授・遠藤教授等によって、発見された。それから、夢のような材料として、この世をにぎわした。銅の20倍の強度、銅の1000倍の導電性、銅の10倍の熱伝導性、と書いてある。この夢のような材料が現実的に使われるのなら、日本はこのような状況にはなっていない。だから、今、現在、カーボンナノチューブに対して、ノーベル賞は付与されていない。

 

 

 どこでも、カーボンナノチューブの図式をみれば、綺麗な六面体の筒が描かれている。3Dキャドを使えば、私でも、その模式は作れる。しかし、それは、最終形であって、現実的には、そうなっていない。もし、もともとの材料の仕様どおりの構造体だけで構成されるなら、樹脂にまぜれば、強度があがり、塗料に混ぜたら、導電性が付与されるから、導電性塗料になり、電池や蓄電池の容量はあがり、液晶パネルや太陽光発電の透明導電膜にもなり、熱電素子として機能すれば、外気温と自分の体温差だけで、スマホが動くことも可能となる。仮にPEEKやポリイミドに混ぜることができれば、逆浸透膜や高速摩耗にも使える。今まで30年、莫大な費用を投資してきた。カーボンナノチューブが、現在、一番使われているのが、電池の導電助剤である。しかし、色々な事故が起きている。EV車が、減衰すれば、カーボンナノチューブの分散液の在庫の山が築かれる。莫大な投資をした工場も、立ちいかなくなる。

 

 

 なぜ、夢のような材料が、そのように、機能しないのか、それは、カーボンナノチューブの生成原理と生成後との矛盾が生じるからである。殆どの関係者は、それは、わかっているが、そのことを明記したものはない。そこに、カーボンナノチューブの哀しい宿命がからんでいるからである。

 

 

 人の誕生は、卵子があって、そこに精子がついて、卵子の中で命が生まれる。それと同じで、カーボンに、どんなに力をかけても、カーボンナノチューブは生まれない。シイタケも、ベースとなる木がなければいくら、シイタケの菌をまいても、シイタケは自生しない。それとおなじように、カーボンナノチューブを自生させるには、母体がいる。それが、基本的に鉄なのである。磁性体をもつ、鉄やコバルトであるが、圧倒的に鉄がおおい。当然に鉄にエネルギーをかけても、鉄は鉄である。そこに、カーボンを含んだ気体が触媒に密着し、そこにつよいエネルギーをかけると、カーボンが鉄に溶け込んで、そこから、カーボンナノチューブが生成するというのが、大まかな生成の仕組みらしい。構成要件としては、鉄(コバルト)+カーボン+高エネルギーということになる。

 

 

 しかし、世の中には、ゆらぎが存在する。どんなものにも誤差がでてくる。したがって、現実の生成時、合成品である以上、高エネルギー場でも、必ず、不均一な場所、強い所と弱い所がでてくる。精製の場が大きくなれば、また、カーボンナノチューブの径が細くなればなるほど、その誤差によるCNT生成の不均一さがでてくる。それが、ロット差と呼ばれる。どんなものにも、ロット差は、必ず存在する。

 

 

 具体的にいえば、鉄触媒から、自生しようとしたCNTが、綺麗な構造体をつくらず、そのまま、ぐしゃっと触媒を包込んでしまい、触媒を含んだアモルファスカーボンを生成することもあるし、途中で、ぐしゃっと、変形することもある。それが、もっとも、CNT解繊を阻害する異物である。その大きさ、固さ、量が、ロット、ロットで変わってくるということになる。私はその異物を暗黒物質と呼んでいるが、それは、公的なものではない。しかし、だれも、それを、特定しない。なぜなら、CNTともども、木っ端微塵に砕いているからである。多くの研究機関は、精製した微量な分散液をもらって、実験しているので、異物がどれほど、関与しているかなど、分からないし、それをどういう風に、分離・除去・解繊できるか、分からない。誰もやっていないからである。

 

 

 CNTは、触媒から一本一本自生していくが、結局、一つ一つでは不安定だから、かなりのまとまりで生成される。それがバンドルと呼ばれている。CNTとして、欲しいのは、そのバンドルの中にある無数のCNT(チューブ)一つ一つであり、それを解していかないと、価値がないものになる。もちろん、空気中ではほぐれないから、何かの溶媒の中でほぐすことになる。それが解繊という言葉になる。解繊、繊維状のものを一本一本ほぐしていく。だから、解繊という言葉は、CNT、それに、CNFを解す時に使う言葉である。ガラス瓶を壁にぶつけて粉々に砕くのが、粉砕、層状になったものを、一枚一枚、はがしていくのが、剥離である。CNTの場合は、解繊で、粉砕したら、アスペクト比のあるチューブとしての価値がなくなってしまう。

 

 

 カーボンナノチューブは、金属触媒から生まれる。鉄の微粒子である。それが、母体となる。カーボンナノチューブは、ある意味、そこから生まれた子供である。生まれる時は必要であるが、一旦、CNTができれば、それが、邪魔な存在となる。離れたくない、離れたくないと、強く最後まで、しがみついている。しかし、CNTにとって、鉄触媒は、邪悪な存在となっている。それを、分離して、除去しなければ、CNTとしての機能は出てこない。下記に、CNTから、分離され、除去された異物な形の顕微鏡写真を載せる。それを見ていると、切なくなってくる。自分から生まれたCNT,それが、四方八方から、外され、あたかも、邪悪な、不気味な形、正しく暗黒物質、夜叉のような形相をしている。

 

 

 もし、それがそのまま、CNT分散液に多量に混ざっていれば、鉄の磁性で、凝集して、それぞれ、安定した凝集体(島)を作る。それがなければ、均質な透明導電膜ができる。それがなければ、電池の正極の導電助剤として機能する。SWCNTの半導体型SWCNTと金属型SWCNTとに分離するためのスタート基材となる。樹脂や塗料、モルタル、コンクリートにも、均一に混ぜられる。

 

 

 CNTの欠損の状態を判断するうえで、よくラマン分光でのG/D比を比較して、欠損のすくないCNT、欠損の多いCNTだと、論ずる人がいる。しかし、それは、ラマン分光測定器の光源が届く範囲での話でしかない。ほんの表面をみて、いいか、悪いか判断している。MWCNTの径は、10ナノ、SWCNTの径は、1から1.5ナノ、バンドルの層からすれば、無限の底なしのように見える。解繊したら、その奥に隠れている異物が、次から次へと出てくる。取っても、取っても、湧き出すハエのように、異物は、出てくる。顕微鏡をのぞくと、きりがないように、感じる。しかし、それも、限界がある。やっと、その闇のトンネルの先が見えた。

 

 

 触媒を粉砕して、粉々にしても、それが、残っている以上、必ず、凝集する。それが、不安定さとなる。がん細胞を破壊しても、その周りにいる正常細胞も破壊される。それと同じように、異物を粉砕したら、同時に、CNTも粉砕される。だから、CNTが自生したら、どこでも、純度を上げるために、ケミカル処理をしている。溶かすか、燃やすしか、方法がない。当然に、膨大なコストがかかる。完全に取れればいいが、バンドルの中に隠されたものは、それでも取れない。かならず、何%は残存する。そうなれば、CNTは、固化してくる。それで、粉砕する。CNTは解繊で、粉砕しては、意味がない。だから、30年間、CNTの用途展開は思ったほど進まない。EV車の効率も頭打ちとなる。

 

 

 寝ている赤子を起こさないように、CNTから異物を分離して、除去しながら、CNTを解繊することが必要になる。母体となった触媒(異物)からCNTを分離して、母体は除去して、CNTを解繊させることが重要になる。どれだけ、実験したかわからない。どれだけ考えたかわからいが、たどり着いたもっとも費用対効果のあるプロセスが、BERYU CNT

異物分離・除去・解繊プロセスという事になった。

 

 

 CNTは、母体となる触媒から生まれる。CNTが出来たら、邪悪のように、その異物は嫌われる。そして、それが排除され、CNTが綺麗に解繊されたら、CNTの機能が発揮される。ある意味、哀しい宿命をCNTは帯びている。世間でCNTとして評価されているものは、その異物ではなく、異物が除去された後のCNTの姿である。現実のCNTは、触媒がケミカル処理されものを、粉砕したものである。だから、評価値と現実の値との乖離が甚だしい。導電性など、銅の1000倍などでない。熱伝導性も銅の10倍などでない。引張強度も銅の20倍などでない。すべてが、ファンタジーである。ただ、異物を限りなく除去して、綺麗に解繊すれば、CNTは素晴らしい材料であることは、間違いない。それは真実である。

 

 

 自分という存在を感じる時、自我が生まれ、自意識が出てきたとき、その時、もし、視覚がなければ、光の濃淡だけが、この世のあり様だと思うはずである。途中で視覚障害になったら、過去の残像から得られたものと、今の触覚と今の聴覚で得られたものとを関連づけて生きていくことだろう。もし、視覚が途中で失われたら、自分にとって、ここも、そこもない。月の表面にいようが、火星にいようが、アメリカにいようが、中国にいようが、どこも同じである。自分がいるところが、今のすべての場所になるからである。ここも、そこも、あそこも関係がない。宇宙のどこにいても、生きていられたら、同じ場所だからである。視覚によって、空間を認識できる。それがなければ、自分にとって空間は存在しないことと同じである。

 

 

 人間は、視覚によって、あるべきものがゆがめられている。視覚が途中で失った人がいて、その人をやさしく介抱してくれる女性がいるとする。その人は、その女性を想像する。どんな綺麗な人だろうかと、妄想は膨らむ。そして、その人は、奇跡的に、目が見えるようになったとする。その視界に現れた女性、想像していた人とは、異なる人だった。ストリーとしては、成立する。その男は、それを受け入れるだろうか。想像とかけ離れた人だったらどうするだろうか?

 

 

 たった、ひとつ言えることは、もし、その人が、ずっと、視覚がもどらなければ、その女性を大切に感じて生きているという事である。視覚がなければ、視覚から、その人の感情に作用させるものがないという事である。途中で、視覚が戻ったばかりに、視覚から入ってくる情報によって、影響をうける。人間の欲望に影響を与える情報が入ってくる。人間の欲望、煩悩を刺激するようなものが入ってくる。それによって、自分というものが、それに引きずられた存在になってしまう。その刺激に対して、何かの反応が生じる。ひとつ、ひとりの人間に収縮してしまうことになる。

 

 

 若い女性が肌を露出して近寄ってくる。鼻の下を伸ばした男性がいる。すりすりとしてくれば、舞い上がってしまう。目を閉じて、視覚から入ってくる情報をシャットアウトして、状況を把握すれば、それがどんなことか理解できるが、視覚からの情報があまりに、妖艶で、肉感であれば、大抵は、だらりとしてしまう。そこから、金をむしり取られる詐欺が生まれる場合がある。

 

 

 人はだれでも、年をとる。若い時は美人でも、年齢によって、体の水分が保持できなくなる。逆に、年をとり、しわがでてくるのは当たり前。そこに、ファンデーションを厚くぬって、その皺を隠しても、逆に不自然に映ることもある。薄暗い部屋で、接客する状況なら、それはそれでただしい。それはビジネスだからである。実年齢が、50歳、60歳の女性が、化粧で、20代、30代前半の女性を演じることは、薄暗い所では、可能だからである。夢を与えるのも、一つのビジネスだから、それもありである。しかし、現実の世界では、あるがままの状態が一番いい、普通に、あるがままの化粧をして、いればいいし、素顔のままでも、何も問題はない。50歳や60歳の女性が、20歳と同じであったら、ある意味、不気味である。中には、40歳の人で、20代の肌をもっていることは、あり得る。その人は、周囲から、本当に、美人だと、思われている人である。

 

 

 化粧することは悪いことではないし、少女時代の思いを再現することも悪いことではない。もし、自分に視覚がなくなったら、どうするか、なのである。私は、昔、ちょっとの間だったが、目の不自由な人の話し相手になったことがある。商社に勤められていて、海外勤務の経験もある人だった。その人は、脳失血で倒れて、その影響で失明したと記憶している。家が近所だったので、時たま、遊びにいったり、外出するときは、手をひいて出かけたこともあった。その人にとって、ラジオを聞くことが唯一の楽しみだったと思う。視覚がなければ、彼の近くにいって、声をかけなければ、その存在に気づくこともない。私は、その人と最後にどんな言葉をかけたのか覚えていない。たぶん、何気なく、さようならといって、その人の家から帰ったのだと思う。また、来るつもりだったろうから、なにげない、別れの言葉だったと思う。私は勤め人になって、多忙になった。転職して、地方へいった。しばらくぶりに、実家にもどって、その家を訪ねたが、その時は、その人は亡くなっていた。がんだったそうである。

 

 

 数年前、通販で、白杖をかった。事務所の本棚に立てかけてある。私は、目をつぶって、白杖をもって、社内を歩けるか実験をした。目で、通路に何があるか、わかっていても、白杖で前に何もないことを確認して、歩くことはしんどかった。それをもって、外を歩こうと一瞬考えたが、やはり、怖くてできなかった。ブロック点字があるのは、ほんのちょっと、連続していない。白杖をもって、一人で歩けるものではない。

 

 

 目を閉じて、瞑想する。視覚を遮断する。自分から、今の場所が消える。視覚が消えれば、ここが、そこであっても、関係がなくなる。空気がなければ窒息するが、もし、空気があれば、ここが、宇宙の果てであっても、私にとっては関係がない。目をとじて、視覚を遮断すれば、すべてのものと、相互作用をしている状態となる。目をあければ、再び、今の自分が現れる。場所、時間、それと自分の状態とが、特定される。自分の自意識がうまれる。そうなれば、宇宙を含めた森羅万象との交流は遮断される。

 

 

 夜空には星が瞬いている。星からの光が、私の網膜を通して、私の神経を刺激する。だから、私には星が確認される。しかし、目を閉じて、瞑想すれば、すべてのものと、一体になることができる。百億年まえの状態と私とがつながる。非局所性、時空を超えたものと相互作用を起こすことができる。そこもここもない、今も昔も未来もない、すべてが、何かの因果で結ばれている。私もそのうちの一つである。目をあけて、自分を意識すれば、そこに、ぽつんとした自分が現れる。そうすると、道元のいった只管打座の意味あいが見えてくる。もちろん、そんな堅苦しいことはしなくていい。自分に視覚が消えた状態を想像したらいい。そうして、目をつぶり、瞑想したらいい。ここは消える。今が消える。自分が消える。そうすれば、どこからか、今、自分は何をしなければいけないのか、だれかが、そっと語り掛けてくれる感じがするはずである。

 人生は長いようで短い。順風満帆で生きているように見える人、どこか、虚しい。変化がないからである。当然に、底辺にいる人からみれば、羨ましいが、ただ、そこにあるのは、単調な世界である。年を取ってくれば、見えてくるのは、人生の出口である。そこで、一番つらいのは、やることがないことである。私は、当初から、病気で、社会にでるのが人よりも遅れた。だから、もとより、社会の出発時点で、ありきたりの人生から、ドロップアウトしていた。それなりの大学に進学して、それなりの企業に就職して、それなりの地位を得る。確かに、言われた事、与えられたミッションをこなす。それによって、企業での地位は上がる。しかし、それで、生き残れるのは、1000人ぐらいだろう。年間、100万の人が同年代でうまれたとする。それで、定年後、それなりの地位でいられる人の割合は、それで見ると、0.1%である。大体、3年分ぐらいが、ひとまとめとすると、最後まで、その地位でいられる人は、0.033%である。これからは、少子高齢化とAI化が進むから、日本の力も相対的に弱くなるから、ますます、不可解な世の中が到来する。

 

 

 人生で、重要なのは、継続性である。日本が技術で世界に負けた最大の理由は、技術の継続性を無視したことにある。日本を技術大国から三流国家に落としたのは、組織論に翻弄された三流経営者の判断ミスによるところがある。一つのものを完成させるには、リーダーの感性が重要なキーとなる。物事を作り上げるには、経験と感性、職人的な技量が重要なファクターである。組織論に支配された企業は、チームリーダーとして、有能な職人を管理職にする。仕事を奪ってしまう。担当から外されれば、権限が及ばない。それまで培ってきた人脈や外部との信頼関係も切れてしまう。その後を受け継いだ人は、また、そのチームリーダーが培った同じ年月をかけて、作り直す。有能であればあるほど、自分らしさをだそうとする。それが、技術者のプライドである。いい方向にいけばいいが、大抵は、墓穴をほる。そこで、技術の継続性は途絶える。経営者は、数字しかみていないから、後で、自分が株主から責任をとらされるともしらずに、その場をやり過ごす。

 

 

 日本を支えたのが、実は中小企業、今は、だめになったが、高度成長期であれば、失敗しなければ、業績は伸びた。インフレであるから、銀行からの借り入れは、すぐに返せた。1000万円をかりても、インフレと業績UPであるから、すぐに返せた。そして、大きくなれば、上場である。オーナー企業の負債はなくなり、膨大な株式売却で誰でも、ウハウハになった。そして、高校卒、高専卒、そういう技術者を育てた。18歳で社会にでて、10年、みっちり、しこまれたら、それなりの技術者である。企業によっては、大学や大学院までいかせてくれた。そこで、博士も取らせてくれた。そういう中小企業もあった。そういう人は、ずっと、その企業で頑張る。苦楽を共にしたオーナー企業の社長が、まさしく、人生のおやじだったからである。

今は、そんなことはなくなった。先代がなくなり、二代目も引退、そういう企業はほとんどが、大会社の子会社化となった。そうなれば、そこの経営者は大企業の天下り先である。新しいものなど、出るわけがない。言われたことだけをやる。大企業の下請け化が、日本企業の実態である。そうして、ベンチャー企業は、優良大学、優良研究所が資金をあつめる手段として、誕生する。投資家は、その名前に騙されて金をだす。何も生まれない。彼らのもともとの仕事は、論文を書くこと。新しい事実、発見をすること。それが実用化するか、利益がでるのかは、関係がない。生産技術もない。小世界で生まれたこと、それができたらこんなことができる、そういうフィクション、作文が書けたらいいのである。それで、金を集める。売り上げがなくても、そういう資本を食いつぶして生き延びる。特許にも、ガラクタ特許というのがある。利益を生まない市場価値のないもの、汎用性のないもの、それが一つの権威となる。●●先生、●●大学、●●研究所、それに、国際特許、投資家は、技術などわからないからその名前だけで金を出す。ネットで連日、そういう新しい技術や研究テーマが紹介される。本当に、すごかったら、社会はすっかり変わっている。しかし、日本は何もかわらない。すこしづつ、本当にいいもの、価値のある千や万にひとつのいいものだけが世の中を変える、

 

 

 昔は、日本には金があったから、甘えられた。どこの中小企業のおやじも、高度成長、バブルに乗っていたから、金回りがよかった。だいたい、エロおやじで人情家である。わかいやんちゃな人を雇い入れ、一人前に育ててくれた。次郎長の世界観である。今、そんなことをやっていたら、つぶれてしまう。今は、社会に甘えていたら、非正規として使い捨てされる時代となった。それでも、生活できる。一年、二年、そこから、抜け出したいと思っても、何をしたらいいかわからない。結婚もできない。ゲームでもして、時間をつぶすことしかできない。年をとれば、創造性もなくなる。発想の斬新性が命のクリエーターも、どんどん、新人が増えてくる。生き残れる人の数が限られているため、落ちこぼれが生まれる。芸人と同じである。どこの世界も生き残れる人の数は決まっている。どこの世界でもトップになれるのは、一握りしかない。40歳、50歳になって、自分の看板がもてなければ、つぎ、どうしようか、と考えた方がいい。

 

 

 若者は、社会というものがどんなものか分からない。しかし、何も心配する必要はない。迷える時間、考える時間は十分に残されている。Give it a go.である。なんでもいいから、やってみることである。いやだったら、やめて新しいことをやったらいい。しかし、そのモラトリアムも34歳までである。35歳以降は、死ぬまで、決めた道で、歩きとおすことである。35歳以降、ふらふらしていたら、最後までふらふらすることになる。継続は力である。だから、継続が力となるようなもの、それを探すことである。10年の経験が力となるなら、同じ力を得るのに、誰でも10年かかる。その時、その人は20年の経験をもつ。そういう職人文化が生きる世界を探すことである。それがAIに負けない人生となる。よく、若者は、考えた方がいい。ぼっと生きていたら、そのまま、あの世へと持っていかれる。

 

 我執、我欲という言葉、よくわからないはずである。特に、若者は、それが、一体なんなのか、よくわからないはずである。自分がいる。自分の思いがある。自分の欲望がある。すべて、自分からほとばしるものである。利己主義という言葉がある。自分は自分だから、自分からでるものは、なんらかの形ですべて、利己のためにやっていると、若者は思うはずである。自意識がでるのは、当たり前、他人と自分を区別つけることで、自我ができる。その自我が中心となってものを考える。自意識がでれば、当然に、自我が強くでる。そのどこが悪いのかと思う。自分は自分である。それは、それで正しい。当然に、自我が強ければ、自己欲求が強くなる。それが満足されなければ、子供は駄々をこねる。今は、そういう子供はあまりいないが、おもちゃを買ってもらいたくて、道端にねころがって、買って、買ってと、駄々をこねたことがある。そんな記憶がまだ残っている。よく、駄々をこねて、母親から、押し入れに入れられたものである。子供は、ルールをしらない。自分のわがままが、全部、通らないことを、幼年時代に学習する。そして、それが、学校でも現れる。それが、うまくかみ合わないと、自分の欲望をうまくコントロールすることができなくなる。社会の規範から、はずれたら、社会という組織が、それを押さえにかかる。それに従えなければ、生存が危なくなる。その最たる事例が、死刑という刑罰となる。

 

 

 自分には、自分を守る機能がある。それが体であれば、免疫というシステムである。心や精神となれば、それが、自己防衛のための囲い、自己バリアーである。そのバリアーを通して、人との交流を図る。普通は、お互い、他人のプライバシーには踏み込まないという暗黙のルールにしたがって、コミュニケーションをとる。それが、お互いの距離感となる。だんだんと心を許していけば、そのバリアーも弱くなる。ある意味、ためぐちが出てくる。お互いがお互いの思いをぶつけ合う。もし、本音と本音が錯そうして、相手がそれを許容できないものなら、その関係は終わる。お互い、自分の我執をもっているので、受け入れるスペースがあれば、それを許容するし、受け入れるスペースがなければ、破断する。人間、お互い、エゴをもっている。お互い、我執にこだわれば、かならず、そこに隙間が生じる。自分は、相手をこういう風に思っていた。それが、幻想だったとおもったら、そこに、人生の隙間風が吹く。好き通しで結婚した二人が、別れる時、罵詈雑言を言い放つ。愛した分、憎しみも倍増する。それも、一つの経験としてみた方がいい。人によって、それをOKとみる人もいれば、NGとみる人もいる。確かに、人生において、相性というのはある。人によっては、それが、心地よいと思う人もいれば、人によっては、絶対にNGと思う人もいる。一度付き合った人が、ろくでもない人でも、次に会う人は、いい人かもしれない。自分が相手にたいしてのGIVE&TAKEが、相手も、似たようなGIVE&TAKEなら、それがいい。同じような感覚を持っている人のほうがいいのは当然である。

 

 

 自分というバリアーがある。それが一番、狭い。己の我欲だけが充たされればいいと思えば、周りのことなど、関係がない。社会の法律さえ、まもればいい、それも、見ていなければ、どうでもいい。そう思う人もいる。大抵の人は、そうやって生きている。そうやって、一生を終える。SNSでの匿名でのバッシング、匿名だから、己の我執にある思いをぶつける。嫉妬、欲望、利己の我執の叫びがそこに投影される。虐げられた、抑圧された思いがそこに現れる。その匿名性が消え、その投稿の存在が、トレイスされ、自分の名前がさらされるとわかれば、匿名のバッシングは消える。天につばをはけば、自分に帰ってくる。覆面パトカーとわかれば、だれでも、スピードを押さえる。覆面パトカーがいなくなれば、多くの人がスピードを上げる。ネズミ捕りに引っかかった人、誰も、悪い人だとは思わない。運が悪い人だと誰でもが思う。

 

 

 自己バリアーの上に、この世という枠がある。ある意味、利他である。自分の欲望を押さえて、周りのために、自分を犠牲にしてでも頑張る人がいる。利他という思いで、人生を歩む人がいるのも事実である。もちろん、利他という言葉をつかって、自己の存在をクローズアップさせる人もいる。利他がひとつの手段として、自己の存在承認を得たいという意識もある。でも、そういう人は、どこかで、かならず、エゴがでる。その人の裏にある我執がでてくる。それが悪いという事はない。しかし、それは、どこかで、必ず、運気が落ちる。うまくいっているときはいいが、どこかで、上手くいかない時がでてくる。欲を持ちすぎると、どこかで、不安定になる。

 

 

 この世の枠のそとに、なにか、もうひとつかふたつ、我々には理解されないような世界があるようである。二次元に生きる人にとっては三次元、四次元の世界がわからないのと同じである。宗教的な意味合いではなく、この世のロジックで考えると、なにか別な世界が、この世と連動してあるようである。この宇宙を左右するものが、どこかに存在しているようである。この宇宙を越えるもの、それは次元をこえるものということになるかもしれない。つまり、場所と時間が特定できないものが、あるということ。もちろん、我々にはその存在を認識することができない。一生、わかるものではない。ここもそこもない、過去も未来もない、ある意味、無、というものかもしれない。それが、この世を覆っているという感じである。宇宙はどうやら加速膨張している。そして、そのエネルギー密度は、どこをとっても同じらしい。ということは、その無からエネルギーが加速膨張した空間に湧き上がっているということになる。なぜ、そんなことが起きているのか、もちろん、だれもわかない。それが真偽かどうかもわからないが、私は、自分の人生を俯瞰すれば、それがそうであるような気がしている。

 

 

 人の運不運など、紙一重、しかし、確かに、人生の選択時、左にいくか、右にいくかなど、偶然である。しかし、生き延びた人は、そう選んだ。なぜ、それを選んだのか、分からない。私は若い時、長期入院を繰り返した。大部屋で、白血病の人と同じになるケースがあった。いまでも、その人の肉声が記憶に残っている。ほとんど、全員、やさしくて、いい人だった。後でしったが、全員、数年以内に亡くなっていた。その人たちが、なぜ、亡くならなければならなかったのか、私には分からなかった。病だから、しょうがないが、その因果がわからなかった。だから、魂は救済されると、思うしかなかったが、ほんとうに、そうなのか、分からなかった。この宇宙は閉塞されていると、思えば、その魂はどこへいくのかと思った。行き場のない魂は、どこへいくのか、と感じた。私も、数十年前、ひどい企業に騙されたことがある。最後に、その企業の偉い人から、選んだ相手がわるかったね、とも言われた。普通なら、首をくくって、この世とおさらばという事になる場合もあるが、幸い、私には、助けてくれる人がいたから、なんとか、生き延びているが、そうでなければ、たぶん、生きていなかったかもしれない。世の中には、そういって、人に騙され、もてあそばされ、すてられて、命を絶った人もいるはずである。憎しみや恨みや悲しみを背負って、命を絶った人がいるはずである。そうであれば、この世は、憎しみと恨みと哀しみに満ちているはずである。日本はいいが、昔の日本、そして、今でも、爆弾をうけて、愛する人を失って、哀しみにあえぐ人達がいる。飢えと憎しみで、絶望を感じて、それでも生きようとしている人がいる。不条理といえば不条理である。

 

 

 結局、我執にしがみつけば、己だけの世界となる。きっと、生存の不安が、我執を囲い込む。孤独と不安が忍び寄る。最後は、自己防衛が働いて、急激にぼける。自分が自分として認識できなくなればいいと思う。最後まで、しっかりと、生きる人は、我執にしがみついていない。どこかで、この宇宙を支えている何かしらの風を感じて生きているはずである。なぜ、この宇宙は、膨張しているのか、だれも分からない。なぜ、この宇宙があり、この地球があり、人がいて、自分がいるのか、誰もわからない。しかし、今は、そうである。過去は今を作るためにある。そして、明日は、今日という日が終わらないとこない。すべての因果はつながっている。自分だけしかみなければ、自分だけの世界でおわる。宇宙をみていれば、その宇宙の中でいきる。そして、その因果を含んだ大きな世界を感じて生きれば、その論理の中で生かされることになる。年寄が、この世でいえることは、ひとつしかない。わかもの、頑張れということである。年を取ることは、あの世へと近づくこと。それは、我執からすこしづつ距離を取ることでもある。若ければ、自分との距離がちかい。だから、我執がどんなものなのか見えない。がんばれ、若者である。

 

 禅問答のようだが、人生、それなりにいきてくると、それが当たっていると、思う。若い時は、自分の考えなど、あまいと感じていた。それが、そうなのか、わからなかったからである。人生が1000年であれば、まだ、あと、900年以上の寿命がある。その中で、何か、別なことがおこり、自分の考えが変わる可能性がある。しかし、人生が80年から90年ぐらいが、いい所だと思えば、自分が老化してきて、そろそろ、出口がみえてくる年齢になれば、なるほど、これが人生というものなのか、とわかってくる。若造、これが、人生というものだと、偉そうなことがそろそろ、言える頃になる。

 

 

 最終的にわかるのは、死んだら、それで、エンドになることである。だれが、その人生のエンドをきめるのか、わからないが、どうも、自分で人生のゴールを勝手にきめて、そこへたどり着いたら、もういいやと、思ったら、たぶん、それが、本当の人生のゴールになるような気がする。人間は、かならず、変化に対してなんらかの兆候がでる。自分ではわからないが、そういう微妙な気配が感じられる。人によって、そういう気配を微妙に感受する能力を持つ人がいる。いつもと何かがちがう、自分に対して、敵意を持った人がいる。むかしは、暗殺目的で、待ち伏せされた時がある。その気配をさっして、身構えたり、逃げたりして、自分の命を守った。戦火、右へ行くか、左に行くかで、それで、生死がわかれた。地震、津波でも、とっさの判断で、命拾いをした人がいる。そういう観点でみると、分かる人がみれば、その気配で、その人の運命が見てとれそうである。

 

 

 余談だが、本当の名医とは、患者から発する気配を感じ、病の元を直観で見抜ける人だと思っている。毎日、毎日、患者をみている。検査の結果がわかる。問診する。治る人、治らない人、元気になる人、死んでいく人がでてくる。それを10年、20年、30年、繰り返していけば、自ずと、患者が扉をあけたその瞬間のその気配で、その患者の病の程度が見抜けるはずである。なにか、おかしいと、感じれば、ちょっと、検査してみようか、ということになる。それで、大病が見抜ける場合もある。

 

 

 元にもどすが、どんなに、偉い人でも、死んだら、そこでエンド、だから、最低でも80-90歳ぐらいまで、生きた方がいい。生きる目標をもって、がんばったらいいはずである。最終的に、そこまで、生きたらいいのである。だから、どのような考えをもっていてもいい。結局、どんな宗教でも哲学でも思想でも、自分にとって、自分が最後まで生きられるような、自分にとって都合のいいものであればいい。その考えに対して、自分が自分で納得できればそれでいい。とある信仰にはいって、病が治り、それで、最後まで生きられるのなら、その人にとって、それはいいことなのである。その人が、その人の内部でそれを受け止めたら、それはいいこと。ただ、人は、自分がいいと思ったものは、それが、絶対的な真理だと思いこみたがる。なぜなら、不安だからである。だから、こんないいものだから、他の人にもおしえなきゃと思う。おせっかいになる。自分にとって都合にいい教えは、人にとっても都合のいい教えとは限らないからである。

 

 

 私は15歳の時、ネフローゼ症候群にかかった。私の場合には、幸いにも、ステロイドに反応するタイプだった。だから、当時は長期入院をした。23歳まで、3回、再発した。そして、50代まで、なんともなかったが、何かのきっかけで再発した。ステロイドが効いた。それから、10年以上、何ともなかった。しかし、60代で、また再発した。ステロイドを飲んだら、すぐ元にもどった。今は、なんともないが、医者からは、最低量のステロイドを飲んだ方がいいと、言われている。飲まなくても飲んでも、いいレベルである。ここで、なにがいいたいのかは、私の体は、昔から、何も変わらないという事である。15歳の時から、老化はしたが、基幹細胞の状態は、変わらない。なにかの応力がかかると、腎臓の蛋白のフィルター部分に、間違った指令をする。自己免疫疾患だから、自分で自分を壊しにかかっている。それで蛋白がでる。しかし、ステロイドをある一定以上飲むと、2-3日で自然と直る。これは、死ぬまでかわらない。それから、ステロイド量を減量する。だから、自分で、調子がおかしいとおもったら、すぐに、尿蛋白で検査する。それで、すぐにわかる。

 

 

 昔は、なんでこんなことがおきるのかと、思ったが、この歳になると、それを受け入れるしか方法がないと思う。当然に、わたしよりも、若くして死んでいった人がいる。知り合いでも、死んでいった。これから、彼の時代になると思っていても、死んだら、手のひらを返すのが、世の常である。俺が死んだ後、こうしておいてくれと、いっても、大体、そうはならない。後を継ぐ人が、今度は、その人の考えで、事を進めるからである。

 

 

 人生はなるようにしかならない。しかし、そうなるように思わないと、そうならない。人生に棚から牡丹餅はない。他力本願は基本的にはない。他人のふんどしで相撲をとっても、どこかで、そのふんどしがきれて、失態をさらすことになる。他力本願の本質は、選択にまよったときに、他力の流れをみることにある。しかし、その時、何をしているのかといえば、その時はすでに、本人の心は決まっている。その方向性に、風がふくように、周りの気配をその方向へ誘導する。そうして、事が進展する。世の中をみていると、どうもそんな感じがする。

 

 

 私に、最近、ひとつの確信がうまれた。それは、宇宙の流れを感じ、それに同期し、自分の思いをそれに重ねれば、その流れの方向へと事が向かうという点である。私の知り合いの人は、このような意味のことを、私にいった。「(人の)魂には、生まれる前に決められた人それぞれのテーマが埋め込まれている。それを、殆どの人は忘れて生きている。その本質に帰れば、なにに、自分の命をつかっていきたらいいか、分かるはずです。」確かに、なるほどである。その人は、確かに、そういう生き方をしているようである。

 

 

 私には、与えられる情報でしか判断できないが、この宇宙は、加速膨張しているようである。私は、夜、晴れていれば、会社から自宅までの間、夜空を見ながら帰っている。もちろん、私には、この空間が毎秒どんどん膨張していることなど、わからない。その実感も感覚もない。星座と惑星は決められた軌道をとって、星座表どおりに、運行している。確かに、我々が生きれる単位でも、1000年単位でも、宇宙からみれば、微々たるもの、すべては誤差の範囲としてとらえられる。

 

 

 だれがこの宇宙をつくったのか、なぜ、ここにそれがあり、それを観察している自分がいるのか、不思議である。しかし、現実にそうなっている。私が死ねば、私にとってのこの世界、この宇宙も終わる。私は生まれる前の世界はしらないし、当然に、死んだ後もわからない。そうして、いつしか、確実に何十、何百億年が経過する。当然に、地球は存在していない。すべてが、バラバラになっている。もし、この宇宙が、一つの孤立系であり、ひとつの閉鎖した時空間なら、息苦しさが残る。しかし、どうも、そうではないらしい。この宇宙はどこをとっても均一な状態であるようだ。たくさんの銀河がそれぞれ、独立できるように、エネルギー密度はほぼ均一なようである。宇宙は加速度的に膨張している。エネルギー密度は同じなら、膨張している分、どこからか、この宇宙に、エネルギーが、入ってきている。入ってきているのでなければ、エネルギーが沸き上がっている。無から有が生まれていることになる。もちろん、真偽など分からない。しかし、そうなら、それは、希望になる。淀むところに、水がそそがれて、浄化するようなイメージとなる。

 

 

 宇宙は均一、そこも、ここも、ない。そして、エネルギーが沸き上がっている。どこから湧き上がっているのか。当然に、自分の周りからでもおかしくない。たぶん、そうおもったら、自分の体を突き抜けて、自分から出ていてもおかしくはない。それを否定する論理もないし、もちろん、肯定することもできない。

 

 

 私の知り合いのように、自分の中に何かの使命感があり、そうなりたい、そうすることが役目と感じていれば、宇宙から湧き上がるエネルギーを受け止めることになる。それは、力となる。人生はなるようにしかならないが、なるように思わないとそうならない。なるように、思えば、なる可能性がある。騙されて、倒されたら、起き上がったらいい。希望をもって、やったらいい。少子高齢化、生まれたことが、ラッキーなことである。がんばれ、若者である。

 この宇宙(森羅万象)には、物質が5%、よくわからないが何か未知なるもの(暗黒物質)が27%、さらに、物事を動かすダークエネルギー(目に見えないが、そのエネルギーのある場に、ものがあれば、何かしらの作用を及ぼすもの)が、68%あるという。エネルギーというのは、よくわからないが、そこに、仮に水があり、エネルギーをあたえれば、静止して動かなければ、温度があがり、空間があれば、動こうとする。なぜなら、それが、エネルギーだからである。当然に、1m3にエネルギーをかけるのと、100m3に同じエネルギーをかけるのでは、力の作用は異なる。エネルギーにも密度がある。密度の差によって、作用のしかたが異なる。当たり前のことである。

 

 

 我々は、この地球上で、(この世で)いきている。生きている間は、地球で起きることは、ひとつの孤立系での話である。今日も明日も新幹線は動き、飛行機は同じようにとぶ。車で、大阪から東京まで、名神、東名で行ける。私は、美粒システムという装置で、CNT解繊やグラフェン精製をして、いろんなことをやろうとしている。人の命は短くて、長くても、現実的にみれば、90歳までは生きられない。それが、この世の掟であり、それを支配するものは、エネルギー保存の法則、だから、時空間は、1000年前と、たぶん、1000年後も、同じような感じだろうし、変化があっても、誤差の範囲である。昨日があって、今日があって、明日がある。今日、命が絶たれれば、明日は、私にとってはこない。それがあたりまえである。しかし、この宇宙はどうも、話が違うようである。

 

 

 物質に作用するのは、重力である。ものを引き付ける力である。この宇宙は、ビックバーンから生まれたと言われている。何かしらの巨大なエネルギーをもって、誕生したということである。なぜ、そうなっているのか、誰もわからない。我々が類推できるのは、今を観測し、その結果をもとにして、過去や未来を類推することである。それが正しいのかわからないが、そういうものとしてとらえないと、この世の論理が成立しない。いずれにしても、この宇宙はなぜかしらないが、加速膨張しているようである。もちろん、この宇宙がどうなっているのか、宇宙の果てがどうなっているのか、この宇宙がどうしてうまれたのか、宇宙の未来はどうなるのか、分からない。今の状態から、色々な推論はできるが、よくわからない。

 

 

 ただ、わかるのは、この宇宙という空間が加速的に膨張しているというらしい。そうなると、奇妙なことがおきる。膨張している空間に、物質が存在するには、エネルギー密度は同じでないと、物質が物質でいられなくなるからである。地球でいえば、空気が同じようにあるから昨日と今日とで同じように生きられる。毎日、気圧が変化しているが、それは人間が生きていられる誤差の範囲内である。空気密度、空気に温度があるから、そこにもエネルギーがあることになる。空間が広がれば、当然に密度は希薄になり、温度は下がる。真空状態になるのとおなじになる。水がはいった密閉容器を真空にしていけば、水は沸騰して、蒸発してなくなる。それと同じである。地球、太陽系、銀河、宇宙、多少は変化があるだろうが、それでも、ゆったりとした変化の中にいる。しかし、このよくわからない宇宙は、加速膨張している。なぜ、この宇宙が崩れないか、エネルギー密度がそれほど、変わらないからである。加速膨張しているこの宇宙、不思議なことに、広がった分、どこからか、エネルギー密度が同じになるように、そのエネルギーが補給されているのである。この宇宙とは、別なしかし、どこかでつながったところから、加速膨張する空間にエネルギー密度が同じになるように、エネルギーが注がれている。

 

 

 人の一生は、100年未満である。今でいえば、65歳すぎれば、定年である。だから、宇宙がどうなろうと、関係はない。今日、生まれた人でも、100年後、生きていられる人は、ほとんどいない。1000年後の未来がどうなるか、関わる人はいない。この地球も、太陽系も含めたこの宇宙の未来がどうなっているのかだれも分からない。すくなくとも、地球がうまれ、人類がうまれ、悲惨な戦争があったかもしれないが、自分という存在がうまれて、生きている。この事実は、何かしらの必然がないと生まれない。神や仏がいるのか、それはわからない。しかし、この宇宙へ、加速膨張している空間へ、どこからか、この宇宙がこのように存在できるように、エネルギー密度が均衡になるように、エネルギーが供給されているのである。この世がこうしてあること、それが、その事実を証明している。今、こうして、生きていられるのも、そういう因果が機能しているからである。なんのために、なぜ、そうなっているのか、それは分からない。しかし、結果からみて、あなたを含めた自分が、今こうしているために、そうなっているとしか言いようがない。

 

 

 エネルギーは、外向な力である。物質は引力で、凝集、内向な力である。△(エネルギー)―物質が、+++で強すぎれば、乱れて、破裂し壊れる。―――で弱すぎれば、淀み、腐り、崩壊する。+でエネルギーが物質より、上である状態、それが、ゆらぎである。それが、美の根源である。たぶん、宇宙は、そういう風に、今は作られている。未来はわからない。しかし、人類がこの地球で生きられる間は、そういう状態である。逆にそういう状態だから、我々が生まれたということになる。

 

 

 私は、神や仏を見たわけではない。だから、それを信じろとは、言えなかった。今、この瞬間、生きていられる。自分という自我をもって、今を生きられるのなら、それは、そういう風になるように、この宇宙がそういう因果を作り出していることになる。この宇宙は、人が今を生きられるように、それが、正義かのように作り上げている。何も、卑下する必要もない、何も絶望を感じることはない、何も悲しむことはない。生きていられるのなら、この宇宙が作り上げた因果をしっかりと自律的にいきたらいい。そして、時間がきたら、この宇宙にかえったらいい。この宇宙へ、何らかのエネルギーが、どこからか、流れている。次元のちがう、ところから、来ている。

 

 

 夜、宇宙をながめたらいい。星の向こう側に、何かがある。そこから、この宇宙へ確実に、空間膨張をうめるように、エネルギーが注ぎ込まれている。それと、反応し、相互作用を起こさせることができるのは、人の意思だけである。希望をもち、こうしたいと念じれば、エネルギーである以上、力を生む。それが、人の運命を変えることができる。

 

 

 人生、すべて、順風満帆などありえない。山あり谷あり、そういう苦難を経験し、人は大きくなる。だから、諦めることはない。倒されたら、起き上がることである。病気や事故等で、生きることが苦しくなっても、前にむかって頑張ることである。この宇宙が壊れないように、どこからか、いつでも、エネルギーがこの宇宙に注がれている。朝日のようにこの世にも注がれている。その力を感じることである。今、生きているのなら、それは、生かされているということである。だれに、生かされているのか、結果的に、この宇宙が、この宇宙でいられるように、つまり、あなたが、あなたでいられるように、どこからか、そうなるように、している。それが、神なら、それが神なのだろう。それが仏なら、それが仏なのだろう。いつか、寿命がくれば、この宇宙へかえる。それまで、がんばっていきることである。

 仕事の関係で、久しぶりに、飲んだ。ホテルにたどりついて、一緒だった地元の人に感謝のラインをした。そのまま、知らないうちに眠り込んだ。朝がた、目が覚めた。スマホを探したが、見つからなかった。ホテルについて、ラインを書いたことをすっかり忘れていた。記憶では、そのスマホで、飲み屋で、写真を取ったことまでは、覚えていた。当然に、ホテルについて、チェックインして、部屋にたどり着いて、服を脱いで、ベッドに入ったことは詳細に覚えていた。スマホに、今日の朝の待ち合わせ時間が書いてあった。きっと、その飲み屋に、スマホを置き忘れたにちがいないと思い込んだ。厄介なことになったと思った。もう、一台スマホがあったから、鳴らしてみた。スマホから、呼び出し音がなったが、このホテルの部屋からは、もう一台のスマホの着信音は、聞こえなかった。ここにはないと勝手に思った。そして、もう一台のスマホから、昨夜一緒だった人に、待ち合わせ時間は何時だったかと、スマホのメッセージ機能を使って送った。

 

 

 その友人から、スマホはその部屋にあるはずです。としばらくして、メッセージが来た。そして、昨日、私が書いたラインが添付してあった。すぐに、記憶は戻らなかった。しかし、文面には、ホテルについた。色々ありがとう、と書かれていた。たしかに、そうすると、この部屋にある。もう一度、電話をかけた。しばらくすると、スマホから、着信音が聞こえてきた。そこには、タイムラグがあった。なんてこった。もうすこし、鳴らしていれば、着信音が聞こえたのだ。しかし、どこにあるのか、分からない。しばらく鳴らしてみたが、見つからない。当然にベッドの上も探した。ない、しかし、どこからか着信音は聞こえてくる。どこにある。可能性のあるのは、壁とベッドの隙間、そこから落ちて、ベッドに下にある。それしか、考えられなかった。ベッドを横にずらした。ラベンダー色のスマホカバーが見えた。なかなか取れなかったが、引っ張り出した。なんで、こんなところに落ちたのだ。スマホを見ているうちに、睡魔に襲われて、そのまま寝込んで、スマホが布団からおちて、その隙間にはまった。そして、床まで落下した。

 

 

 これは容易に見つからないとおもった。たぶん、飲み屋にいっても、スマホの忘れ物はないというだろうし、ホテルの人にチェックしてもらっても、見つからないというだろう。スマホの位置情報はわかるから、この部屋からだと、わかるのには、それなりの手間と時間がかかる。みつかるのは、数日後になる。

 

 

 これは、スマホを2台もっていたから、できたことで、もし、一台しかなかったら、途方にくれていた。待ち合わせ時間もわからないし、その人へ連絡することもできなかった。名刺に2つのスマホの番号が書いてあるから、2台持たざるを得ないと思っていたが、こんな事が起きた場合、2台もっている効用を初めて実感した。本当に助かったと思った。どこかに紛失しても、今のスマホは、顔認証、指紋認証等があり、登録した本人でないと、開かないようになっている。だから、その点、悪用されることはないと思っていたが、もし、紛失したら、非常に大変なことになる。情報管理ができないから、慌てふためく。

 

 

 そう、旅先で、スマホを紛失したら、大変なことになる。便利になることはいいが、それにたよりきっていると、それをなくした時のダメージが半端ではない。30年以上前は、携帯などなかった。ノートパソコンが普及しだしたころだから、ほとんどが、手書きノート、何かあれば、ポケベルで、連絡。公衆電話で、電話をする。昔は、財布をなくす、カード入れをなくすが主だったが、そんなことは、滅多に起きない。

 

 

 今は、交通系カードもスマホの中、お金もスマホの中かもしれない。多くの人がコンビニで、スマホで決算している。そんな状況で、スマホをなくしたら、たぶん、パニックになる。スマホ、2台もつことは、面倒だし、コストもかかる。しかし、スマホへの依存が大きくなれば、それに対するフェールセーフも同時に作らないと、それをなくした時の痛手は相当なものである。だれかが、一緒にいればいいが、一人の時は、どうにもならない。

 

 

 もうひとつスマホがあったから、友人へ連絡ができた。もし、なければ、どうすることもできなかったはずである。ベッドのしたに転がっているスマホ、それを探し出すすべがない。連絡先もわからない。待ち合わせ時間も場所も、スマホの中、相手も、連絡がつかないし、その待ち合わせのところにも、こない。相手は、私に何かあったとおもうはずである。たまたま、ホテルの場所は教えていたから、そこへ訪ねてくるだろう。その時、やっと、事の真相がわかるはずである。

 

 

 スマホ2台の効用、今の時代、ある意味、それが命綱となる。スマホの比重をさげられるなら、下げた方がいいが、そうなると利便性が失われる。そうなると、そのリスクをヘッジするには、もう一台、安いスマホが必要になる。大変だが、そういう時代になってしまったということ。ここに書かれたこと、そんなことは起こるとは思っていない。しかし、誰でも、起こりうること。恐ろしい時代になった。

 

 人生、誰でも、この世に生まれた以上、どこかで最後の時を迎える。どんなにがんばっても、100歳まで、ぼけずに生きられたら、それはすごいこと。そこまで、いかずとも、78歳ぐらいまで、生きられたらそれはそれでいい。それが、いつ来るか分からないが、それは、確実にくる。最後の晩餐ではないが、どこかで、最後の日の前日を迎える。だれも、自分が明日、死ぬとは思わない。しかし、結果からみて、事故、事件、災害で、亡くなる人がいる。その人が、自分が明日、死ぬとは、誰も予想などしていない。今日は、いつものようにおわり、明日が、昨日が今日になったように、来ることを想定する。20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、どこでどうなるかなど、誰もわからない。災害なら、どうにもならない。

 

 

 人には、エゴがある。自分が培ったものを、明け渡すことは、簡単にはできない。権力や地位に死ぬまでしがみつく。しかし、そう思っていても、幕切れは、突然、前触れもなく襲うこともある。歴史をみても、世襲で権力が譲渡されていても、それが永遠に続くことはない。あれほど、栄華をほこった豊臣秀吉も徳川家康にあっさりと、ひっくり返された。その徳川も、幕末を迎えて、大政奉還をした。戊辰戦争で、その旧幕府軍は、壊滅した。俺が死んでも、後は、息子を頼むといっても、大体、数年でひっくり返される。

 

 

 ひとりの人間のエゴで、物事は、きまらない。権力にしがみついても、結局は、それが単に利害関係で結ばれていたものなら、その権力基盤が消えれば、それでおしまいとなる。安倍元首相が、生きていたら、彼に右顧左眄する人もいるだろうが、死去すれば、安倍元首相に忖度する必要もない。安倍元首相に忖度して生きてきた人は、その基盤が亡くなれば、その運気も、そこで消滅する。まして、虎の威を借る狐のような言動をしていたなら、もう、相手にされない。その落差は、きっと、甚だしい。だから、いずれは、失うものだから、それに固執していきないほうがいい。いずれ、失うものなら、世のため、人のため、利他の目的に徹して生きた方が、楽である。

 

 

 すべては、なるようにしかならない。偽物は、かならず、どこかで、それが偽物だと見破られる。ひと様のものを、盗作して、あたかも、自分がつくったかのように吹聴しても、その作る過程をへずに、結果だけをパクったのだから、かならず、突っ込まれたら、ぼろがでる。なぜ、そういう結論になったのか、その論理過程を経ずに、結果だけまねても、応用が利かない。コピーしたものだけなら、作れるが、それから、外れたものは、作れない。仮につくっても、そこに、それを作った論理的根拠がないから、贋作者は、常に不安になる。いつの世でも、本物はひとつ、贋作が本物を超えることはない。もし超えたら、それはもはや贋作ではなく、新たな創造物となっている。

 

 

 未来は、決まっているように思える。1000年前、その時、1000年後の今は、こうなるようになっている。それは、結果があるからである。過去の結果が今である。そして、昨日と今日との間の結果によって、未来は決定づけられている。その微妙な差異が、1000年間の蓄積を経れば、1000年後の未来はそこに現れる。それが我々の思考である。それは、我々の次元での話であって、それとは異質な次元の人からみれば、そうはならない。もしかしたら、もう未来は、決まっていて、その未来がそうなるように、今が動いているように、私には思える。私が生まれて、その間にこの世となにかの相互作用をおこし、なにかを生み出す。そして、私は死ぬ。それは、未来がそうなるようにするために、仕組まれた運命とみることもできる。すべては、死んだ、その時に、私の運命はそこで決定される。未来は決まっていないように見えるのは、我々には、それがわからないからだ。自分の意思で動いているようにみえても、そうなるように、仕組まれていたともいえなくはない。

 

 

 人との出会い、男女のであい、物事とのであい、それは、そうなるように決まっていたともいえる。それは、未来が未来であるために、そうなるようになっている。好きで結婚しても、数年以内に、罵詈雑言を浴びせ倒して、わかれるひともいる。略奪結婚して、一生を幸福に終える人もいる。世の中は、何がいいのかわるいのかなど、わからない。それは、未来が未来としてそうなるように、今を作っているかのようである。行動するのは、人の意思である。しかし、その意思も自分でそう決めているよりは、未来からの要請がそういう意思をつくりあげているようにも思える。どんな行動もそれを正当化することは、たやすいことである。戦争で人を殺しても、為政者は、それを、正当化しようとする。

 

 

 大事なのは、そこに誠があるか、そこに、利他はあるのか、そこに、愛や真理があるのかである。類は類をよび、それが、新しい未来を作るのだが、そこに、醜い己のエゴがあれば、きつねとたぬきのだましあいが生じ、ともに、倒れる。そこに、利他があるから、類は類をよび、新しい未来ができる。10年後、どうなっているのか、100年後、どうなっているのか、それはわからないが、きっと、10年後の世界がそうなっているように、今が作られるような気がしている。

 人は、知らないうちに、自我をもつ。しかし、それも、幻想かもしれない。3歳で死ぬ人、10歳で死ぬ人、20歳、30歳、40歳、そして、80歳、90歳、100歳で、往生する人もいる。しかし、それも、永遠ではない。自我が確立する前に亡くなる人、生まれることもなく、水子として、生命を閉じる人もいる。人の運など、誰が決めたか分からない。この世が、平面なのか、多次元なのかも分からない。この宇宙が少なくとも、我々の五感で見える範囲、この次元に拘束されている状況で、我々は、この世、この宇宙のあり様を見ているに過ぎない。違う次元の人がこの世と交錯して、今のあり様を考察すれば、まったく違った状態が現れるかもしれない。それは、わからない。すくなくとも、人間という組織体が、この時空間の中で、垣間見れる世界、それを、我々は見ているに過ぎない。生まれる前のことはわからないし、死んだ後のことも、分からない。死んだ後、どこかで、別の意識の目が開いて、まったく違った世界が現れるかもしれない。それを希望しているが、それは分からない。すくなくとも、生まれる前の意識がこの世で復元できないのだから、我々が、自我を感じられるのも、この世という場での話だけなのだろう。

 

 

 人は、どこかで、人生の最高地点に達する。それが、どこだったかは、死ぬ瞬間までわからない。死ぬ瞬間、その人の人生がすべて決定する。それまでの月日が、運命だったということができる。悲運で、命を落とす人もいる。さぞかし、無念だろうという、非業の死を迎える人もいる。昔、小さい我が子を残して、死んでいった、お母さんを見たことがある。小さな子供がお母さんのベッドにのって、遊んでいた。お母さん、お母さん、といって、じゃれていた。そのお母さんは、死んでいかなければならない自分の運命を呪ったかもしれない。自分がいなくなってもいいように、一生懸命、ノートに、自分の思いを書いていた。そして、残酷にも別れの日がきた。お母さん、お母さん、子供の慟哭が、夜の病棟に響いた。同部屋にいた、男の人が、仕方がないな、といっていた。その人も、数か月後、亡くなった。

 

 

 そのお母さんの最高地点はどこだったのかと思う。すくなくとも、死んでいったその日が最高地点とは思えない。そのお母さんにとっても、どこかに、最高地点が存在していたはずである。結局、人は、どこが最高地点かなど、わかることなく、散っていくのが常である。

 

 

 世の中は、栄枯盛衰、だから、若い時に、栄華を極めると、後がつらくなる。栄華を極めたら、その次の栄華はふつうは来ないからである。ずっと、頂点を走り続けることなど、たいていはできない。人生は、基本的に、山あり谷ありだからである。人生は、グライダーとおなじ、人生の最高到着地点までは、なんとか、いく。しかし、そこからは、下降である。どこまで、飛べるかが、その人の寿命になる。おごり、高ぶり、坂道を転げ落ちる人もいる。グライダーでいえば、失墜して、墜落である。

この世は、どこまでも、波動で満ちている。最高地点から、かならず、減衰していく。そして、その減衰する流れに、人の振幅の様態が重なる。その様態の中に、乱れ、揺らぎ、よどみが、入ってくる。乱れは、振幅の振れ幅が大きく、それも、滅茶苦茶になっている。水の流れでいえば、乱れは、津波である。そして、揺らぎとは、心地よい波動である。清い河の流れである。そして、よどみとは、停滞である。川の流れも滞り、ボウフラが生まれる状態でもある。最高地点から、流れがよどんだら、どうなるか、腐って、崩壊することになる。乱れたらどうなるか、基本は、破壊されることになる。結局、揺らぎながら、減衰していき、自然と、消滅していくことになる。それが、一番、美しい生き方となる。

 

 

 明日なにがあるのか、わからない。しかし、明後日になれば、明日のことは確定されている。未来は不確定だと思われるが、それは、我々が見えないだけであって、明日、何が起こるのかは、もう決まっているのかもしれない。それが運命である。東日本大震災でも能登地震でも、それが起こったら、それは、必然にかわる。結果、命を落としたなら、それが運命ということになる。たぶん、1000年後は、決まっているし、一億年後も決まっている。100億年後もきまっている。もちろん、我々には、そこで何が生まれるのかはわからない。すべては、なるようにしかならない。類は類を呼ぶのは確かであるし、ひかれあう魂は、かならず、接近し、緊密になろうとする。男女や陰陽は、かならず、合体しようとする。その思いが深ければ深いほど、そうなる。その結果、乱れることもあれば、揺らぎながら、進展することもある。なにがいいのか、わるいのか、わからない。それは、なるようにしかならない。

 

 

 自分のなかで、これはいい、これはわるいと、決めつけて、自分を規制しても、よどむだけである。また、自由に、放埓に生きれば、乱れが生まれる。乱れれば、かならず、崩壊する。よどまず、みだれず、自然の流れのなかで、利他の中に自利を含めれば、うまく生きられるはずである。自分の心に蓋をすれば、かならず、乱れるか、よどむだけである。利他の中でがんばれば、かならず、自分を支えてくれる人が現れる。最後まで、夢や愛を抱いていきていなければ、かならず、どこかで失墜する。

 

 

 己のエゴなど、基本的に小さい。意地汚く生きても、死んでしまえば、何ものこらない。人生の最高地点は、どこにあったのか、今、下降しているなら、それは過去にあったはずである。もし、そうならば、自利から利他へと視点を変えることだ。そうすれば、今までみえなかった視界が広がる。別なところから、流れが起きてくるかもしれない。

 何十年前から、新しい基材として、ナノカーボンの時代だといわれてきた。しかし、実態は、やはり、パットしない。なぜなら、理想と現実が異なるように、マクロとミクロの挙動が異なるからである。ナノカーボン自身、今現在、この現実社会の中に根を張って、未来を変革するようなものでは、なりえないからである。グラフェンはグラフェン、カーボンナノチューブはカーボンナノチューブとして、厳然と、これも縦割りの機能なのである。

 

 

 幕末、長州は長州で、薩摩は薩摩で、土佐は土佐で、幕末の政治のありようを考えていた。幕末の藩士の思いは、開国、富国強兵、文明開化であった。しかし、長州は長州、薩摩は薩摩で、己が正しいと、相いれない。それを取り持ったのが、坂本龍馬である。まさしく、グラフェンとカーボンナノチューブの関係は、幕末の薩摩と長州との関係に似ている。目標は同じ、しかし、それそれ、決定的な差異がある。なぜ、ナノカーボンが世の進歩の基材になりえないのか、それは、お互いの利点を補完しえないからである。プロセスに、坂本龍馬的な機能とアイデアをもったものが、世界に存在しないからである。

 

グラフェンの機能を列記する。

 

グラフェンは、想像できる中で、最も薄い物質(0.332 nm)

最も広い比表面積を持つ物質 (3000m2/g )

最も強靭な物質(破壊強度>130Gpa)

最も硬い物質(ダイヤモンド以上)

もっとも、伸び曲げができる物質(ヤング率>1000Gpa)

導電性 7.5 x 10^7 S/m

熱伝導率 3000 W/mk

 

 

 カーボンナノチューブも大体似たようなことを書いている。これだけすごいものでも、市場を激変するような、画期的なものは、出てこない。ほぼ、使われているのは、電池の導電助剤だけである。それも、カーボンブラックよりはいいというだけの話である。他はパットしない。それは、なぜか、それは、物性的に、グラフェン面、面でいえば、最大でも数十μ、カーボンナノチューブでいっても、長さは数十μmである。世間では、その一つの面や線のものの物性が素晴らしいと言っている。我々の世界は、パソコンやスマホをとってしても、300mmの世界である。100μmは0.1mmである。つまり、グラフェン面が最低3000枚以上連続しないと、その夢のような機能は使えないのである。3000枚ならべたとする。導電性はでますか、強度はでますか、熱伝導はいいですか、ということになる。答えはNOである。それは、グラフェン面とグラフェン面をつなぐもの、バインダーがないからである。グラフェンと同じような導電性をもった導電性バインダーがありますか、答えは、一つしかない。それは、YESなのである。それが、カーボンナノチューブなのである。

 

 

 日本発のカーボンナノチューブ、うまくいっていますか、ほとんどが、海外に取られてしまった。なぜか、ほとんどが、コストで負けたのである。なぜなら、CNTには製法上、異物(触媒核を内包したアモルファスカーボン凝集体)が無秩序的に存在している。ロットによってもそのバランスが変わる。したがって、それを、CNTとなじませるには、粉砕するしか方法がない。それで、チューブとしての機能が、ばらばらになる。線が点になれば、カーボンブラックと変わりがない。グラフェンもCNTも研究開発的な意味合いでは非常に面白い、ある意味、企業でいえば、株価を上げる手段、会社のコーポレーションIDを上昇させるにはいい材料である。しかし、そこからの収益はでない。もうからないことに、これ以上、投資することはできないと、考える。しかし、ナノカーボンは夢のある商品である。次の戦略を考えると、たけのこのように、また、新規として、この分野にチャレンジしようとする企業がでてくる。韓国や中国で、MWCNTとしてのベンチャー企業として、中小企業がCNT製造でそれなりの規模になった。そうなると、俺も、俺もと、出てくる。しかし、今はよくても、これ以上の発展は、無理である。なぜなら、CNTを粉砕して使っている以上、用途が限定されるからである。グラフェンも、導電性バインダーがなければ、単なる薄い黒鉛で終わるからである。

 

 

 黒鉛はCNTによって剥離されグラフェンとなり、CNTはまた、黒鉛によって解繊される。これが、坂本龍馬的な発想、プロセスである。300層以上の層間をもつ黒鉛、一枚、一枚はがれれば、グラフェンとなる。通常グラフェンといっても10層以下のものを指す場合がおおい、5層前後になれば、世間ではグラフェン、多層グラフェンと呼ぶことがおおい。同時に、システムの中にいれて、乱さないように強いせん断をかけると、黒鉛の層間にCNTがはいり、黒鉛を剥がしていく。そのはがれた黒鉛の層間で、CNTが解繊されていくという塩梅である。一石二鳥、お互いがお互いの機能をもって、剥離と解繊を同時進行させていくという考えである。すでに、それは具現化している。

 

 

 それを機能させるには、CNTを、ある程度、細い空間域、0.09mmのノズルを通過させることが必要である。CNTには異物がある。通常、ぼろぼろにしない限り、0.09mmのノズルなど通過しない。それを、可能にしたのが、DMRというシステム、高圧下(100Mpa)に磁性体球を連続的に並べただけのものである。しかし、USパテントを取得している。日本では、美粒のパテントの請求項の一部となっている。それが、あるから、100Mpa, 1パスで、一般黒鉛が5層以下ぐらいに剥離し、一番廉価なMWCNTでも、解繊している。MWCNTだけの導電性の4倍もの導電性が出ている。原料コストとしては、数千円/kg である。いくらいい材料でも高ければ市場は動かない。それがオンリーワンで、絶対必要なものならしかたがないが、どんなに高くても、1万円以下/kgでないと、費用対効果はでてこない。

 

 

 グラフェンとCNT、その決定的な差は、グラフェンは、面だからガスバリア性がある。しかし、グラフェン自身が自分でグラフェン面をつなぐことはない。自己ネットワーク構造がない。その反面、CNTは、面ではないからガスバリア性はないが、線だから、線と線とが、自立的(電磁力)に結びつき、ネットワーク構造を作る。つまり、CNTは、グラフェンと同じくらい強い導電性をもったバインダーとなるのである。

 

 

 電子顕微鏡で剥離した黒鉛と解繊したCNTがどうなっているのかが識別される。CNTが黒鉛の面に、へばりついているのがわかる。それによって、グラフェン面とグラフェン面とが連結されることになる。これが、坂本龍馬的な、一石二鳥なプロセスとなる。面が機能するから、強度はあがる、導電性もでる。ガスバイア性も機能される。グラフェンとCNTの長所が増幅される構造となる。しかも、安くて、製造プロセスも1パスで終わる。従来のCNT解繊では高圧分散機をつかっても、最低でも5パス以上、10パスはかけている。それが1パスになれば、CO2削減1/10となる。

 

 

 CNTは解繊しなければ、価値はない。しかも、アスペクト比をたもち、チューブ(線)として機能しなければ、ネットワーク構造は起きない。線と線が絡みつなぎあうから、価値がある。格子を作るのが、CNTなのである。しかし、格子だけあっても意味がない。そこにはるガラスや障子紙があって、はじめで、格子が格子として価値をもつ。その障子紙がグラフェンなのである。

 

 

 グラフェンはすごい、CNTはすごい、確かにすごい、しかし、それは、あくまでもミクロの世界で、塗料や分散液状態にしないと、意味がない。樹脂にもコンクリート、モルタルにも混ぜられなければ、価値はない。坂本龍馬は生きていたら、「風立ちぬ、いざ、生きめやも」というかもしれない。ナノカーボンの新しい波が、津波のようにおそいかかってくる。時代は必ず変わる。