高齢者は、気力をもって今を生きる。容姿など気にする必要もない。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 明日の命は、確率の中にある。事故、事件、災害で、現実的に、亡くなる人がいる。その人にとって、その前日、自分が明日、死ぬとは、思っていない。今日は、昨日の続き、そして、明日は、今日の続きのように、それが当たり前のようにあると思って生きている。明日、自分が死ぬと予見できたら、今日の過ごし方も、違うものになっているはずである。しかし、誰も、そう思わない。だから、何気ない今日という日を、何気なく生きることになる。それが当たり前である。明日があるから、明後日がある。しかし、それは100%、保証されているわけではない。明日、明後日はあくまでも確率の中に存在していることになる。今、70歳の人と20歳の人がいるとする。70歳の人には、今日、明日、亡くなるという疾病がないものとする。もちろん、10年後、20年後の生存確率は、圧倒的に20歳の人の方が大きいのは当然である。しかし、明日に関すれば、誤差の範囲でほぼ同じである。事故、事件、災害、運動神経や機敏さで、生存の差があるとすれば、若干違うであろうが、それは誤差の範囲である。

 

 

 もし、70歳の男の人が、気力をもって、話したとする。20歳の男の人も、気力をもって話したとする。外部の人間には、当然に。70歳の爺と、20歳の青年との差が分かる。なぜ、わかるかと言えば、容姿を見たからである。もし、ラジオから、その声が聞こえてきたら、その人が、爺であること、その人が青年だとわからなければ、区別がつかない。もちろん、話す内容が爺臭いもの、話す内容が青年臭いものであっても、確定はできない。もし、相手が面前にいたとしたら、その容姿が見えたら、爺か、青年かは、わかるだろう。もし、自分が視覚障碍者だったら、面前にいる人がどんな人かなど、分からない。自分にとって、いい話をしてくれる人に価値を置くはずである。話す内容が挨拶程度、取るに足らない内容なら、視覚障碍者の人にとって、70歳の爺と、20歳の青年とは、同格なのである。明日、明後日、生きている確率がほぼ、同じなら、爺と青年との差別化など、できないのである。

 

 

 かかりつけの医者で問診を受ける。数値が致命的でわるく、余命宣告をする以外は、医者は、その人の雰囲気や声の質で、その人の状態を判断する。この人は、長く生きる、生きられないかは、その人の気力、雰囲気や声の状態で、わかるそうである。半年後、一年後、生きていられるかは、その人の気力で判断できる。胃の具合がわるい、風邪の症状がある。かかりつけの医者に相談すれば、薬が調合される。大抵は治る。免疫で治してしまう。その人の雰囲気で、名医はわかるそうである。もし、引っかかるところがあれば、血液検査や尿検査をしてスクリーニングをかける。健康診断なものである。還暦をすぎれば、どこか傷んでくる。

 

 

 一日、一日の変化など、なかなか見えないが、5年、10年、20年、単位でみれば、25歳ぐらいをピークにして、減衰していく。もし、70歳のおばあさんが、20歳のお嬢さんと同じ容姿なら、逆に、化け物と映ってしまう。夜の厚化粧をしないかぎり、素の肌を白昼の光にさらせば、70歳と20歳とでは、差がでるのは当然である。それが自然である。しかし、一週間単位でみれば、70歳と20歳は、生存に関しては同じなのである。生きた経験値からみれば、圧倒的に70歳のおばあさんの方が優れている。70年、生存できて、しかも、余命宣告を受ける状態でないとすれば、後は、気力だけである。もし、気力だけ、充実させて、今を生きる。すくなくとも、一週間や二週間単位で、人生のスケジュールを構築させていけば、20歳のお嬢さんに引けを取らない。もし、自分で容姿を気にしたらアウトである。しわくちゃのおばさんと思ったら、それで、気力が失われる。視覚障害の人からみれば、容姿など、まったく価値判断の対象にならない。

 

 

 最近は、老若男女、YOUTUBEで、自己表現をしている。時代はどんどん変わっている。SNSの重要性は、記録である。その時のあり様を、映像に残せることである。特に、65歳を過ぎた女性ほど、つよく、発信してもらいたい。日本の文化、風習の中で、生きてきた経験があるのである。それを、若い日本人女性に伝えてもらいたい。核家族、少子高齢化で、日本人の女系文化の継承が損なわれている。一見、日本は家長制度で、男系優位と見えるが、実際は、女系文化が、日本文化を支えている。外で、偉そうなことを言っている人も、家にかえれば、殆どが、かあちゃん、ごめんちゃい、である。

 

 

 SNSに映像をさらせないのは、容姿の問題である。75歳以上になれば、開き直りができるが、それ以前は、やはり、遠慮が入る。今は、マスクがあるし、編集で顔など、どのようにも加工できる。帽子をかぶり、サングラスをかけ、マスクをすれば、人相など、わからない。重要なのは、コンテンツであり、話す内容、雰囲気などである。その内容が、若者が聞きたいと思ったら、ぐっと増える。そのコンテンツの主題が、若さをアピールするものなら、対象外だが、人生を知りたい、どうやって、生き抜いてきたのか、その生きる知恵を、それぞれの立場で語ってくれたら、それが、映像として、語られれば、もちろん、何かのコンテンツに絡めてもかまわないが、それを発信したなら、ものすごく今後の未来に影響を与えるだろうと想像する。着物をきた普通の高齢者の日本人が、何気ない日常、それまでの情景を話すだけでも、海外の人には相当なインパクトがあるはずである。

 

 

 いつか、ぼけを認識する、運動能力が低下したと認識する日がくる。介護が必要になる日がくる。それまでは、気力で生きていける。ひとりで、生きていけるのである。若者のYOUTUBERと同じように、スマホやビデオをもって、コンテンツをつくったらいい。自動ジンバルにスマホをセットして、サンライズ出雲の個室にのって、そこで、ビールやハイボールをのんで、こんなおばあちゃんでも、いぇー、いぇーといって、その動画をYOUTUBEにUPしたらいい。それなりの数の人が、特に、若者が、見に来るはずである。有名、温泉地で、大阪のおばさん連中、2-3人で、わいわいと、適当なことをいって、地元の食レポでもすれば、けったいでおもろいと、見にくる人がくる。繰り返すが、容姿を除けば、70歳と20歳の人との差は、気力さえ同じなら、ない。しかし、経験値からみれば、70歳の人の方が上である。いい年をして、こんな恥をさらして、というハードルをなくせば、何でもできる。人生、命消えたら、それでお終いである。その頭にのこっている知識と経験、それが、今は、価値があるのである。