昧爽の迷宮へ(14) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)
堤(つつみ)は深い紺青(こんじょう)の水を湛えていた。チャドルの姿は、どこにもなかった。
「チャドラー! チャドラー!」
ぼくは声の限り叫んだが、遠くの岩山からこだまが返ってくるだけだった。
チャドルは、沼に落ちて沈んでしまったのだろうか? それとも、追手を逃れるために、水の底にひそんでいるのだろうか? ぼくは水面に顔を近づけて覗いたが、水は透きとおっているのに、底を見透すことはできなかった。深い深い藍色がどこまでもつづいていて、水中には何も見えなかった。ぼくは、飛び込んで水底を探そうと思った。もし溺れていたら、沼の向こう岸へ運んで蘇生させ、ふたりで逃げようと思った。
靴を脱いで水際に下りて行くと、うしろからがっしりと羽交い絞めにされた。首を後ろに回すこともできなかった。ぐずぐずしていると、チャドルが溺れ死んでしまう。
「チャドラー! チャドラー! チャドラー!」
ぼくは、肩を捉えている腕を捥(も)ぎ離そうとして暴(あば)れながら、何度も何度も叫んだ。ついに腕が回って来て、頬を叩かれた。
「おい、だいじょうぶか?」
日本語……。ぼくは、はっとして後ろをふりかえった。医学部生のEが、ぎょっとした目をして、ぼくの肩をつかんでいた。
「だいじょうぶか。池に飛び込もうとしていたぞ!」
水面の向こう岸に、見なれた木立ちがあった。裸体の少年像の噴水があった。たしかに、そこは大学の池だった。ブロンズの少年は裸体。ぼくは着衣だった。Eは、ぼくをつかんでいた腕を離した。息を切らしていた。上の遊歩道から、薬学部生のDが心配そうに見ていた。
「もう、だいじょうぶです。心配かけて、すみませんでした。」
ぼくは、二人に深々と頭を下げた。彼らに対して、とんでもない誤解をしていたような気分に襲われた。
「いったい、どうしたんだ。気分でも悪いのか?」
「いえ、なんでもないです。ちょっと友達を探してたもんですから。」
「ともだち?」
「いえ、あの噴水のことです。いえ、なんでもありません。」
Eは、ぼくが何を言っているのか理解できないという顔をしてから、ぼくに話を訊くのはもう諦めたと言うように話題を変えた。
「きょう、オアゲでパーティーがあるんだけど、Dさんが、君も誘ったらって言うんだ。でも君は来ないよな? また、れいの留学生のM氏もご来場だし。彼は良くない噂があるからね。君には迷惑だろう。」
「ぼくはバイトがありますし。でも、Mさんには、いちどお会いしたいと思ってます。そういう方、ぼくは嫌いじゃないんですよ。」
思わず、にまっと笑ってしまった。Eは「あ、そうか。」と言って、ぎこちない作り笑いをしてから、「じゃ、来週また。」と言って、慌てたようにDのほうへ戻って行った。
彼らの姿が木立ちの向こうに隠れてしまうと、ぼくは池のまわりを回って向う側へ行ってみた。水辺に、腰かけるのにちょうどよい石があって、菅(すげ)のような草が茂っていたが、ほかに何も変わったことはなかった。ぼくは、水面すれすれに顔を近づけてみたが、池の底に吸い殻とゴミが見えるだけだった。ぼくの眼から、意識しない水滴がひとつ、またひとつ、水面に落ちて輪を描いた。もう二度と会えないのだろうかと思った。
腕時計を見ると、もう新宿に向かわねばならない時間だった。地下鉄の駅に向かって歩いていると、坂の途中で携帯が鳴った。店のママからだった。
「マサヤあ! ご苦労さんだけどねー、〇〇さんのところへ行って、段ボールを受け取っといてくんないかな。グラスが入ってるから、店に運んだら、よく洗って干しといて!」
「え? またですか?」
「また? 何言ってんのよ。店にあるグラス、みんな開店の時に買った安もんだからさア、もうすっかり古くなっちゃって、おニューにしないとって、オーナーさんが手配してくれたのよお。」
「あ、はい。」
「わかった? じゃ、頼んだわよお。」
電話を切ってから、ぼくは立ち止まって、しばらくぼっとしていた。頭の中がぐるぐると何回転かしたあと、ようやくもとの位置に戻った気がした。そうか、みんな夢だったのか。
それで収まるように思ったが、何かまだ、おさまる場所の見つからない歯車が残っているような気がした。ぼくは駅へ向かいながら、ジグゾーパズルを組み立てるように、記憶の断片をつなぎ合わせていた。
ママの店でバイトしてるのは夢ではないし、ママと身体(からだ)の関係があるのも前からだ。そのあたりは問題ないとして、しかし、『東洋文庫』の史料はどうなのだろう? 男寺党(ナムサダン)は? ぼくの…… ぼくのたいせつな彼は?
ぼくは、丁茶山の報告書が夢ではないことを祈った。(完)