京都最古の木造建築物<240日目 百夜後に死ぬ深草少将(2)> | ゲイムマンの日本縦断紀行 + ご当地ゲーム制作・配信

ゲイムマンの日本縦断紀行 + ご当地ゲーム制作・配信

ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

 醍醐(だいご) ('22.6.12)

 

引き続き醍醐寺。
桜の馬場に戻り、正面の西大門へ向かう。
昨日時間切れで入れなかった、伽藍エリアへ。
すぐ手前まで木々の枝が張り出していて、全体を撮影しにくいが、立派な仁王門がそびえる。

 

西大門(仁王門)は、1605年(慶長10年)に、豊臣秀頼が再建した。
東寺の金堂や、北野天満宮の社殿に続いて、また秀頼である。
この醍醐寺は、豊臣家との関係が特に強かったお寺で、三宝院の庭園を造ったのは秀吉自身だし、醍醐寺本堂の再建も秀吉の指示によるもの。

 

応仁の乱以降、荒廃しかけた醍醐寺を救ったのが豊臣秀吉。
醍醐寺座主の義演と親しかった秀吉は、1598年(慶長3年)、いわゆる「醍醐の花見」を開催した。
この際に伽藍をかなり整備し、700本もの桜の木を植樹している。
参加者は1,300人以上で、そのほとんどが女性。
諸大名や武士たちは、スタッフとしてイベント運営にあたったという。

 

秀吉が正室・北政所(おね/ねね)と、側室たちを集めて、酒宴を催した際、淀殿と松の丸殿が、ここで杯を受ける順番を争ったという伝説が知られている。
なお、秀吉はこの花見の5ヶ月後に死去し、結果的にこれが人生最後の晴れ舞台となった。

 

仁王像は、もと南大門にあった像で、門よりも古い1134年(長承3年)、勢増、仁増という仏師により造られた。
重要文化財。

 

ここから有料。さっき三宝院で買ったチケットで入る。

 

広いエリアにポツンポツンと諸堂があるのかと思ったら、モミジが両側から道に向かって折り重なるように生えている。
木陰があって涼しい。

 

ただし、木々の奥の敷地は、切り株の並ぶ原っぱになっていた。
2018年(平成30年)の台風で被害に遭い、森の木々がなぎ倒されたそうだ。

 

いろんな人から奉納された、若い木々の並ぶクランク状の道を抜ける。

 

清瀧宮本殿は重要文化財。醍醐寺の総鎮守である清瀧権現をまつる。
もともとは山の上にある「上醍醐」の、醍醐水の近くにまつられていたが、1097年(永長2年)に分祀され、こちらにも社が建てられた。
その後、文明年間に焼失し、現在の社殿は1517年(永正14年)の再建。

 

清瀧宮拝殿。
1599年(慶長4年)に義演が建立した。
周りが丹塗りの建物ばかりの中、この拝殿だけが茶色い。

 

醍醐寺は874年(貞観16年)、聖宝(しょうぼう)(理源大師)により開創された。
山中に清らかな湧き水の出る地を見つけ、ここに寺院を建てたのが始まりだという。
この水は醍醐(仏教用語で、最もおいしい味のもの)に例えられて「醍醐水」とよばれ、寺の名前も醍醐寺となった。

 

清瀧宮の向こうに、五重塔がひときわ目立つ。
高さ38メートル。国宝。
15年もの歳月をかけ、951年(天暦5年)に建立された。
京都府内最古の木造建築だそうだ。

 

五重塔は、醍醐天皇(930年(延長8年)崩御)を追悼するため建てられた。
醍醐天皇は、醍醐寺の准胝(じゅんてい)観音に、子供を授かるよう祈ったところ、穏子皇后との間に皇子が生まれた。
このことで天皇は醍醐寺に深く帰依するようになり、同寺を勅願寺とした。
観音菩薩のほかに薬師如来をまつって、人々を病から救うよう、聖宝に命じている。
また山裾に釈迦堂を建てるよう希望し、現在の「下醍醐」の基礎を作った。

 

勅願寺が醍醐寺だったことに加え、崩御後に醍醐寺のそば(山科陵)に葬られたため、「醍醐天皇」と諡(おくりな)された。

 

※実は醍醐天皇には、早くから多くの皇子・皇女がいた。
だが皇太子だった保明(やすあきら)親王は、923年(延喜23年)に20歳で薨去している。
醍醐寺の准胝観音に子授けを祈ったのは、この頃かもしれない、と思ったが、その時点では聖宝も既に亡くなっており、また上醍醐に薬師堂が建てられたのは保明親王存命時だ。

 

五重塔を建てたのは朱雀天皇。醍醐天皇が授かった皇子である。
しかし完成前に朱雀天皇は病気のため譲位。跡を継いだ村上天皇の時代に完成した。
村上天皇は朱雀天皇の弟で、同じく醍醐天皇と穏子皇后が授かった皇子の1人だ。

 

醍醐天皇は政治家としてかなり有能だったようで、その治世は「延喜の治」と呼ばれ称えられている。

 

もっとも、あの菅原道真を大宰府に左遷した天皇でもあり、保明親王が薨去すると、醍醐天皇は道真の祟りを恐れるようになった。
保明親王薨去の年で、道真の死後20年目となる923年(延喜23年)、天皇は道真に官位を追贈したが、その2年後に保明親王の王子で、皇太孫だった慶頼王も薨去。
そして930年(延長8年)、宮中の清涼殿で会議中に雷が直撃し、公卿らが多数死亡した。
醍醐天皇自身は、このときは難を逃れたが、ショックからか間もなく病を患い、3ヶ月後に崩御した。

 

醍醐寺

 

京都観光Navi(京都市観光協会) 京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本) 京都市交通局

 

※旅のマップはこちら

 

※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちら。
第240回 百夜後に死ぬ深草少将(醍醐→小野)
第239回 アジサイと刀剣とモテない男子(JR藤森、墨染、醍醐)
第238回以前


京都(第234回~)
テーマ別記事一覧

 

SUZURIでTシャツやサコッシュなどを売っています。

恋人の聖地エンジェルロード ロシアはウクライナに無条件で譲歩しなさい

恋愛成就 純情大明神 例のプールと女子社員

 

スマホ用無料ゲームを作っています。

脱出ゲーム 新入社員・江須恵(えすけい) 例のプールに閉じ込められた!

iPhone版 Android版

 

芸能人 真澄田竜子 - 霧笛があの娘を呼んでいる

iPhone版 Android版