「忠孝の鑑」「もののふの鑑」
と古来より崇められた楠木正成なれど、その生涯はわからないことが多く、逸話、伝承における姿が強く残って今に至っている感じだ。
父の名は正遠ということだがこれもはっきりしないという。
正成生誕の地は千早赤坂の地ということで祀られているが、これもはっきりはしていないという。
幼き頃、正成はこの地あたりにあった生家で育ち、後に正成の菩提寺となる観心寺へ、僧・龍覚のもとへ基礎的な教養を学びに通ったという。
▼観心寺の楠公学問所中院
さらに後年、正成こと多聞丸は、8㌔ほどの道を歩き大江時親の屋敷へ兵学を学びに通ったという。
その通った道筋を、地元では「楠公通学路」と呼んでいるという。
道筋の中間点あたりの、南海高野線三日市町駅近くに、多聞丸と大江時親像が建立されていた。
河内長野市は、一途に学問にはげんだ多聞丸の姿など描いての楠木正成の生涯を大河ドラマ化の運動を進めているという。
大河ドラマ化を願う運動は全国各地で繰り広げられている。
つい最近再来年は「小栗上野介忠順」と決まったとのニュースが流れた。
我が信州でも、木曽義仲、保科正之などを推す運動がある。
ブロ友の梓慕情さんは、伊豆の地から北条早雲からの北条五代の大河ドラマ化の運動に熱心だ。
南北朝時代では、今まで足利尊氏主役の「太平記」のドラマ化(1991年)があったのみ。
楠木正成などは面白いと思うのだが…。
三日町駅から和泉市・宝国寺へ向かう。
正成の弟・正季が眠っているという。
正成嫡子・正行は「小楠公」と呼ばれ名高いが、弟の正季は兄の名に隠れた感じであまり目立たない。
だが終始正成と一心同体、生涯を兄と行動をともにして、最期は湊川での敗戦後、正成と刺し違い散って逝ったもののふである。
大河「太平記」では、赤井英和さんが演じていた。
ところがである。
岸和田市へ行くも、市街地の中、宝国寺がなかなか見つからずあちこちウロウロ。
さらに旧街道筋なのか狭い道が多く、クルマ置くところも見つからず、四苦八苦。
それでも、あちゃこちゃしてやっと見つけた宝国寺! やったぁ!ところが今度は、楠木正季の墓塔が見つからない。「無い、無い!」
寺の方もいない、もう一度、徹底探査、無い!
どうするか、あきらめるか…。
墓地から寺の門前当たりもウロウロ。と。
お、写真左の割れ目のある石碑! その裏に!
門前の石碑のようなものがいくつか並んでいたのを無視していたのが間違いだった!
「あった、あった! 正季さん、いてくれてありがとう!」
楠木正成・正季兄弟は仲が良かった。
骨肉の争いをした足利尊氏・足利直義兄弟とは違った。
そして新田義貞・脇屋義助兄弟もまた微笑ましい仲だった。二人の並ぶ像は群馬県太田市の太田駅前に。
楠木兄弟像もどこかに立ってほしい…。