2023年10月24日火曜日

ホモ・サピエンスのアメリカへの経路

 特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」の紹介をテレビで放送されていて見たいなと思い、マヤ文明の本を借りてきましたが、そのままでした。以下、忘れないようにとのメモ書きです。

図説 マヤ文明 (ふくろうの本/世界の歴史) 嘉幡茂、河出書房新社、ISBN 9784309762920

上記の本の16ページから、ホモ・サピエンスのアメリカ大陸入植について書かれています。

ホモ・サピエンスは、今から20万ないし15万年前にアフリカで誕生し、12万年前頃に出立した(出アフリカ)と考えられている。そして、各地域へと拡散を開始したのである。長い旅を経て、4万年ほど前には北シベリアまで到達していた。アメリカ大陸へ至る一歩手前である。しかし従来の説(図19、**本には掲載されてますが、省略**)は、・・・、考古学や古生物・環境学などのデータを基に総合的に解釈されており、実証的であるといえる。しかし、このモデル構築は、入植はすべて徒歩によって行われ、当時はまだいかだなどを開発して海を渡る航海術はなかったとの前提に立っており、人類の想像力や可能性は考慮されていない。・・・しかし、北太平洋沿岸部経由説(図20)は、従来の徒歩ルートに加え、実証性が認められるため、第二のルートとしてここ数年大きく注目されている。これはいかだを利用した沿岸ルートである。・・・図21のルート・・・

図21はは図20で氷床の中を通るルートが追加されたものですが、アジアでは関係ないので図20を以下に示します。 千島列島 → カムチャッカ半島 → アリューシャン列島 のコースですが、日本の列島のところを追加しました。 琉球列島とかを介したルートとかありそうです。

引用図

この本ではここ数年注目されているとのことですが、出所はどこか興味があります。

2023年9月29日金曜日

日本漢字の重層性

 『日本語の発音はどう変わってきたか」「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅 (中公新書 2740) ISBN-13 978-4121027405

上記の本に日本語の歴史のことが書かれています。重層性とは、たとえば、「行」という文字は、「ゆき」、「おこなう」、「こう」、「ぎょう」、「あん」など多数の読みがあるということです。この違いは漢字の伝わった時代が異なることによります。

日本漢字の音の主たる層には三つある。最も古い層は、古代の倭国がはじめて体系的に中国文化を知った三世紀から六世紀までの中国江南地域に起こった六朝文明の漢字音である。倭人(日本人)は、はじめてこの地の漢字を系統的に勉強した。この古層の漢字の音読みを呉音という。六朝時代は、中国史上例外的に仏教が盛んであったので、呉音には仏教用語が多い。ーーー例は省略ーーー

ついで系統的に日本人が中国文化を学んだのが六世紀から八世紀の隋唐帝国の律令制度の導入を通じてである。隋唐時代の文化の中心は、洛陽、長安のような黄河流域であり、この地に留学した日本人が持ち帰ったのが新層の漢音である。隋唐音をなぜ、「漢音」と呼ぶのか、詳しくは分からないが、奈良時代末期にはすでに「漢音」と読んでいた。ーー以下省略ーーー、

漢字音の三番目の層が十三世紀、鎌倉時代の日宋交流がもたらした唐音(とういん)である。唐音は、宋代の文物、特に禅宗とともに入った語が多い。

最初の古層の時代についての様子はよくわかってません。多分、ダイレクトに中国江南地域から伝わっているはずです。律令体制の採用で、日本の社会は大きく変化したと思います。残念ながら『日本書紀』から、この変化をとらえられそうにありません。

2023年8月25日金曜日

古代の経済成長

 『世界を動かした日本の銀(祥伝社新書 675)』ISBN-13 978-4396116750

を図書館で借りました。この本の宣伝文句は

リアルな数字で知る「真実」 近世まで最貧国だった日本は、いかにして経済大国になったのか? 磯田道史教授は、そこには石見銀山の銀が大きくかかわっていると言う。さらに、日本の銀は中国の貨幣経済化を促してヨーロッパにも影響を与えた、とも(「世界を動かした日本の銀」)

です。銀に注目することで、世界のつながりがわかります。 その本の36ページに、日本の経済指標の推移のグラフがあります。

730年から1874年の、日本の一人あたりGDPを総人口やGDPとともに示したものです。900年ぐらいまで、GDPは緩やかに上昇し、一人あたりのGDPも上昇しています。おそらく、田など耕作面積が増えたことで経済成長していったのでしょう。渡来人や大陸からの技術導入も寄与したかもしれません。

以下続きます。この部分が重要と思われますが、引用の元図のコピーが以下です。赤矢印のところです。



図の出所は 『経済成長の日本史―古代から近世の超長期GDP推計 730-1874―』高島正憲、。ISBN-978-4815808907

こちらでは、

8世紀から15世紀の古代・中世前半における日本の経済成長は、古代前半に成長の画期を確認することができる。奈良時代に中央集権国家を確立した律令国家は、社会経済における制度を整備し生産力の拡充をはかり、その努力は耕地面積・生産量の上昇にあらわれていたように一定の成果を生んだことは推計結果からも明らかである。ただし、古代の社会経済は、その制度機能の脆弱さにより国家のパーフォーマンスが低下して以降は目立った経済成長はおこることはなかった。一人あたり総生産で見るかぎり、その成長は停滞的なものであり、その状態は14世紀まで続いた。人口と総生産は全体としては成長が加速することはなく、ゆるやかな成長を続けていた。

この赤の部分が、多分、中国からの影響だと妄想されますが、国別比較の図がありますが、見ても中国のデータがないのでわかりません。残念です。 図ので出所は同じ本です。



2023年7月31日月曜日

埼玉県の行田市の稲荷山古墳出土鉄剣

 「ブラタモリ#242」で埼玉県の行田市の特集でした。2023年7月15日の放送で忘れてしまいそうです。 行田市には前玉(さきたま)神社があり、ここが埼玉の地名の発祥ということです。 行田市のHPにマップがあります。ありがたく、このPDFを見ます。 行田まち歩きマップ (PDFファイル: 8.4MB) 

QRの前玉神社の解説動画があります。 

前玉神社は古墳の上にありとのことで、古墳で行われていた祭祀儀礼が神社形式に移行したことを想像させます。古い神社であろうとは思われます。

丸墓山古墳の解説動画が次にあります。QRコードがあります。 

名前からわかりますが、円墳です。105mとされる大型の古墳です。

丸墓山古墳が、全国でもっとも大きい円墳であること、埼玉古墳群でもっとも盛土量が多いことも忘れてはならない。同時期の大王墓、真の継体陵と考えられる大阪府の今城塚古墳が全長190、後円部径100mであるから、円丘部のみを比較した場合、稲荷山古墳、二子山古墳と続いた大型前方後円墳が、丸墓山古墳の段階で円墳となること、丸墓山古墳が二子山古墳の前方に築造されたこと、唯一葺石《ふきいし》をほどこす古墳であることなどの点が疑問とされる。この疑問は、『日本書紀』安閑天皇元(534)年に記された武蔵国造の争乱と関係しそうである。
(埼玉県の歴史散歩、山川出版社 (2005/2/15)200頁より)

さて、稲荷山古墳出土鉄剣が有名ですが、銘文の漢字に「杖刀人首」と読めるところがあることから、中央政権に仕えたことがわかるとのことです。

今まで、考えてなかったのですが、この地域が利根川流域にあり、水運により、利根川を下り、鹿島神宮・香取神宮を経由し、熱田神宮、伊勢神宮とルートが出来ていて、中央とのつながりを持っていたのかもと思いました。

関東造盆地運動により、この地域が平坦地ができて、農耕に適した地域として開発されて、古代より発達したのかもとも思えます。

酒巻古墳群(酒巻21号墳)*解説動画 

利根川のそばにあります。

2023年7月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味

 7月4日のクローズアップ現代で放送されていました。

吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査を再開しました。調査している場所は、33年前から「謎のエリア」として注目されていた日吉神社境内地跡地です。今回の調査は、5月3日に開始し、6月3日まで実施しました。調査は、一旦中断し、雨期や猛暑の期間を避け、9月から本格的に再開します。9月からはさらに調査範囲を広げて、「謎のエリア」の解明を進めていきます。https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00385779/index.html

石棺墓には、無数の「×(バツ)」が刻まれていて、これは何だろうということで、1つの説として星を表しているのではないかということです。

クローズアップ現代のQRコードのリンクです。 

割れた2枚の石はもともと1枚だったとか、大きい×は明るい星であるとか、ありましたがそうだろうと思います。

古代には天文の知識が重要視されていて、話が飛びますが、天武天皇の天文や遁甲(とんこう)の術につながるように思います。

忘れてしまいそうですが、メモ書きです。

2023年4月26日水曜日

倭国の想像図

 『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書, 2683) 』篠田謙一、中央公論新社 (2022/2/25)の中にある核ゲノムの都道府県別SNP解析(p.198)を見て、以前の図を思い出しました。

ブログは以下の記事。 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

図は以下。 

ゲノム県別図

参考図 邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図

魏呉越の図


邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図です。

ゲノム図が七世紀の時代をあらわしていると考えると、下の想像図が描けます。 渡来人に近い橙色の地域を見ていくと、四国太平洋側、和歌山県、奈良県、滋賀県、京都府、石川県のところになります。青の線で結びました。天武天皇の新勢力と見なします。一方、倭国吉備説で考えているので、赤の楕円が倭国になります。岡山県付近が倭国の中心になります。楕円の大きさは適当で、イメージで、もう少し広いかもしれません。遺伝子的には若干、渡来人さが天武天皇派より2段ほど劣るところです。青の破線は出雲と連携してるかなとのことで書き加えました。天武天皇派が倭国を包囲して、最終的に日本に統一されます。岐阜県や愛知県も倭国であって分断されていたかもしれません。

倭国地図






2023年4月22日土曜日

ウラル・アルタイと相撲?

 近鉄南大阪線当麻寺駅より當麻寺に歩いて行く道中に葛城市相撲館「けはや座」があります。相撲の開祖「當麻蹶速」を顕彰する目的で平成2年の5月にオープンしました、とのことです。

当麻蹴速《たいまのけはや》については、

『日本書紀』によれば、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、蹴速は宿禰に腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて勝者の野見宿禰の土地となったという[1]。

「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。(ウィキペディア「当麻蹴速」より)

相撲の開祖となってますが、「捔力」と表現されていて、相撲とは思えませんので格闘技の開祖的な人だと思います。勝った野見宿禰が出雲の出身だということが問題です。出雲が相撲の本場の地であることをイメージさせています。現在の相撲ではモンゴル出身の力士が活躍していますが、モンゴルには相撲の素地のようなものがあり、力士が飛行機でやってきます。昔であったら、船でやってくることになります。到着地が出雲とかであって、出雲の地が日本での相撲の隆盛地になったのではと想像します。 各地域の相撲の様子です。ウィキペディアです。
モンゴル相撲 

トルコでもヤールギュレシというものがあるそうです。 

これらの地域をみて、相撲がウラル・アルタイ言語の地方にある格闘技かと思いまし。しかし、そうではなく各地域にあるようです。

インドとかはクシュティー 

中国ではシュアイジャオ 

相撲がウラルアルタイの文化にあるとは言えそうにないです。

『日本書紀』の垂仁天皇ですが、もちろん三世紀とか四世紀の話ではありません。七世紀の話を過去に想定して展開したものですが、だれをモデルにしたかは不明です。しかし、先代の崇神天皇の時にも、出雲とつながりのある三輪山の話があります。一連の出雲と関係した話の中で、野見宿禰が出てくるので、話の都合上、出雲出身としただけかもしれません。対戦の日も「垂仁天皇7年7月乙亥」とラッキーセブンになってます。継続した展開の中で相撲の話を入れておこうとしています。

古墳の埴輪での力士像では、裸にふんどし姿に見えますので、北方系ではなく南方系に思えます。捔力の対戦は格闘技であって相撲での対決ではなさそうですので、野見宿禰が南方出身とは考えにくいです。絶対的にそうだとは言えませんが、イメージとしては出雲出身に思えます。

當麻寺金堂の四天王像が頭にあっての偏見かもしれませんが、出雲の地域からの影響があったかもしれないという思いつきの話です。