たぶんこれが今季最後の積雪だと思います。名残惜しいなと思っていたら今年は三月に入って何度も見せてくれました。ありがとう。もうまもなく春分ですね。
今月は私と講座を通して共に学んでくださった方々が次々に卒業のタイミングを迎えられました。私も深いレベルで多くのことを卒業しているんだと思います。それでたくさんのことを考えました。
私にとってもう長いこと、考えることは即ち聖霊と対話することです。
思考のすべてを一旦聖霊に預ける。そうやって片っ端から明け渡して僅かなスペースを作ることでしか、真実の欠片は意識に上がってきません。
そして今朝、そのわずかな隙間に光とともに入って来た真実は「自分とはなにか」という問いについてでした。
振り返ればその問いは数え切れないほど繰り返されて来たように思え、そして人生は、世界は、その度にその答えを阻んできたように思えます。時にはあたかもそれを見つけたと思わされ、或いは与えられたと思わされて。そしてそれらはやがて奪い去られるかに見える。
けれども実際にはそのどちらも起こっていない。つまりは得ても失ってもいなかった。それが真実だと思う。
私たちは目の前に繰り広げられたこの世界が選択肢だと信じて、その中に自分の存在意義を探し求める。そしてそうしている間は自己を見出すことはできない。
世界は混沌としている。それは多様であることとは違う。例えば乗り物と乗り手が同レベルで認識され、そしてそのどちらに価値があるかというような問答が当然のようになされる。例えば原因と結果が同次元に並べられ比較されたりする。なぜそうなるかと言えば、そもそも原因と結果がすべて取り違えらているのがこの世界だからだ。
そして私たちという存在はその狂った世界から教育を受け、その結果として自分とはなにかを認識しようとしている。求めようとするほど、混乱にはまっていくようにできている。
それで多くの人はその問い自体が間違っているのだと悟るのだろうと思う。賢明な人はその逆転した世界という前提でのより良き自我を生きようと目的を定める。そして時に目の当たりにする欺瞞をなるだけ穏便にやり過ごすことを目指す。それがうまくできない人を病気認定し、一定のカテゴリの枠に閉じ込めて世界の安全を保とうとする。
でもそこに本当の平安はない。というかびた一文、平安の欠片もそこには存在してはいない。
その問いは間違っていなかった。その問いの答えは一見してこの世界に見当たらないけれど、この世界が無常で無常の中に真実は実在していないのなら、それは単に、みつからないところを探していた、という過ちがあるだけなのだ。かくしてその答えは実在する。実在するところに探すのであれば。
私たちは乗り物ではない。それはおおかた同意してもらえると思う。でも言うならその乗り物の乗り主ですらない、というのが真実に近いと思う。ふさわしくない乗り物に乗っておいて、乗りこなすことが目的であるかのように信じ込んでいるのが現状というところだ。
その乗り物を乗りこなすために私たちは創造されてはいない。その乗り物はその創造主の目的のために創られてはいない。ということはその乗り物は被造物ですらない。その乗り物を必要とせず、創造主の創造を共にするものとして私たちは存在する。
私たちはその乗り物を使って随分遠くまで来てしまったという夢を見ているから、その夢を払拭する道すがら、乗り物を使って帰るという夢を見ているだけだ。
この理解は実際にそのように自分をみなすことからしか始まらないし深まらない。その道すがらには途方もない壁と罠が無数に埋め込まれている。それでもなお、私たちの本質は真実に惹きつけられる。そしてその真実を意図的に選ぶものには全知なるスピリットが同行する。
自分とはなにか。
それは唯一の価値ある問いのように思う。
それをやめさせようとする混沌に飲まれるな。
そこにこそ答えがある。
その答えはホログラムを超えたところにある。
いつか滅び去るかりそめに安住することなかれ。
まやかしの優しさになびくことなかれ。
愛はそこにはない。
しかし求めればそれは答える。
既知でないものを求めよ。
全知なるものを求めよ。
私たちはそれにふさわしく創造されている。
感謝とともに
AZU拝